*2002秋山麓(New)
*過ゆく夏
*富士見駅
*秋宮初詣
*“八つ”初冠雪の朝
*八ヶ岳を歩く
*盆と三回忌
*今年の夏
*伊東近代美術館
*鹿を追って
*農作業の季節
*街道の春
*やまぶき
*八ヶ岳美術館
* アカシア
*足早の春
*紅葉の頃
*白川郷を観る
*うつぎの花
*5月の雪
*春を見つけに
*雪
都会を離れて高原の日々を過ごすためにこの町にやってくる風次郎は、富士見駅へ降り立つのである。
国立から約三時間、特急は日に一〜二本しか止まらないからほとんど鈍行だが、それがかえって風次郎には楽しい。
中央線の山々を車窓から季節を味わいつつ眺めるのは格別だ。乗客が次第次第に我が故郷のローカル色を感じさせ
てくれるのも鈍行ならではである。
駅舎は昔と変わらないものを改修して、小じんまりと整い、昔は無かった駅名看板もついている。観光客が来るように
なったから、待合室もストーブが置かれ、入口も冬は風の入らぬようサッシドアーになった。列車の到着時間が近づくと
乗客がこの待合室に増え、言葉やしぐさに、地方色を見出すのも風次郎の楽しみの一つである。
最近、駅前広場に小公園めいたベンチワイドができた。昔は駅前広場が町民憩いの場で、夏の盆踊りもここで賑やか
に催されたものだ。広場は、車社会となった今、ロータリー化してしまった。駅前と言え、歩く人は少ない。
風次郎は、歩いて6〜7分の自分が過ごすべき旧家(南天寮)へ向かう。往来を愉しむものにはその風の冷たさも、そ
の都度懐かしく、好もしいものである。今回は朝四時半に発って、七時半に着いた。 澄み渡った青空に、美しい八ヶ岳
の姿は風次郎には神様なのである。今冬になって初めてマイナス摂氏で、霜柱も立った。
一日山麓に過ごすと、遅い足取りの晩秋を随所に見出した。農園に野沢菜を採る老農婦の姿に母を見たり、枯草の土
手をよじ登っても見た。もう採り送れて落ちそうになった柿の実が青空にとことん好対比の図であった。
朝からチラチラと雪が舞った。
テレビをつけると、関東太平洋岸は良く晴れて、恒例の大学駅伝の画面では晴天の街道を映し出していた。
やはりここは山なのだ。甲府あたりを境にして、晴天圏と雪日圏を分けているようだ。
諏訪大社へ初詣に行ってこよう。と、コタツから出る。
昨年から弟と二人で行く事にしているのだ。去年は上社だったから、今年は下社秋宮へ行く事にした。
国道20号線は思ったよりすいていた。
暮にも大した雪は降らず、里には北の日陰にさえ残り雪も見えない。葉を落として殺風景になった沿道の雑木林も、ただ藪のように見え
る立木が、空につきだしているのが寒々しく連なる。これらは、むしろ雪を待っていたかのようにも見える。
雪が舞う。
舞い降りてくる雪は、ふんわりと、目に入る高さから円を描くように、形を揺すって地上に落ちる。
雪は割合に大きなかたまりのようで舞っている。
風は微か。
周囲のグレーに浮かび上がった舞い雪は、冬の穏やかさを思わせるように流れて行く。
茅野からは上川沿いの堤防道路を行った。
川が諏訪湖に流れ込むところから、道路は右に折れ、湖岸通りを下諏訪に向かって走る。思いの外諏訪湖岸も車の通りはスムースだった。
雪は舞うものの、湖岸のホテルに滞在しているのだろう、新春の寛ぎを楽しむ観光客らしき人々が、湖畔の公園に行き交う。家族連れの
中には和服の女性も混じり、新春ならではの光景は晴れがましい。
湖面も穏やかに、曇り空を写しつつ、舞い雪を受け入れている。
高浜から再び国道20号線を下諏訪市街に入り、秋宮下の十字路を越した所で駐車場に車を置く。
秋宮へ来るのは、もう20年振りぐらいになろうか。ふるさと人事が受け入れられ、諏訪に勤務していた頃の御柱祭りに、「建て御柱」を
見に来て以来である。社の右奥、北東に位置する柱を引き立てるのを半日頑張って眺め続けた記憶がある。
十字路から秋宮へは、真っ直ぐに坂道を登るのだが、この通りの路面には輪を描くように、モザイクを敷き詰めたような舗装が施され
ていたのだ。そして湯の町の通りらしく、道路脇の水路や、途中の沸き湯から、湯気が上がっていた。里の御柱祭りは五月だから、季
節としてはもう暖かいのだが、湯気は湯の街の印象として象徴的であった。
道路脇の沸き湯は大きな御柱綱のデコレーションで飾られやはり道路脇に現存していた。しかし、モザイク調の道は変わっていた。
弟と昔語りをしつつ、去年もそうだったように道端の出店で甘酒をすすった。
昔は昔、今は今。
坂道の両側に続いていた格子窓の民家も、商家の店先と共に、古き面影を偲ぶばかりで皆新装の建物に変わっていた。由緒や、風
俗を伝えようとの地元の努力は伺えるが、同じ地元民の私には、わざとらしさのように、又観光客目当てのように感ぜられて、吹く風が
馴染めなかった。
そんな中で、秋宮の境内だけは昔のままであり、安心した。大きな石の鳥居、石橋、拝殿、そして本殿。
諏訪大社の境内は上社も、下社もいずれもそう大きくはない。大きいのはご神体の山ばかりである。
拝殿にも、本殿にもお参りして、今年も無病息災をと願った。
境内ぐるりのお参りも、たちまちのうちに済んでしまう。それでも参拝者を掻き分けて、弟の為にお守りを求める。仰々しい挨拶と共に
俄か役者宜しき白装束の巫女から手渡されたお守りを、弟は注意深くポケットにしまった。
これで、霊験は新たかになった。
雪は時々激しく舞ったが、地面を濡らしただけで積りはしない。積れば雪景色が美しかろう。積らなければ、車の移動が楽でいい。穏
やかな良い正月だと思う。慌てず、悔まず静かに時の流れを追って行こう。
そう言えば、拍手を打った時、手に降りかかった雪が弾けるように四方に散ったのを、不思議だと思う余裕があった。
私も来年は還暦である。
そんな事が価値有る事のように思わされる年になったのだ。
舞い雪の初詣も悪くはない。
(2001.1.2)
夜半からやや強い風が吹いて、畑に枯れ残ったとうもろこしの葉の擦れ合う音が鳴っていた。
あたりは六時を過ぎるとどんどん明るさを増してきた。
この分だと今日は良い天気になるだろう。
庭に出た風次郎は、朝の澄んだ空気を胸一杯吸って、一渡り畑を歩く。すでに今年の後片付けも終わって,マリーゴールドの花ばかりが、彼方此方に
目だって咲いている。
「冬がくるなー」
夕べの冷え込みはきつかった。
久し振りに上諏訪まで行って、「山麓」で飲んだ。MとYが出てきて、相変わらず年相応の話をした。年相応とは還暦間近、定年間近、健康第一といった
話である。これだけ並べると、サラリーマン悲壮感集を連想したくなるが、いやいや、淡々と生活エンジョイの話だった。
風次郎のところは、妻の実家も含めて両親は既に逝った。しかし、MもYも高齢の年寄りと同居してうまくやっている。それだけでも、自分の経験からす
れば、大したものだと思う。両者共、心から「長生きして欲しいのだ」と、語っていた。
最初それを聞いたとき、(なにお、恰好つけて無理してやがるな、苦労してるのだろうに)といった批判的感情が、風次郎の頭のなかを走った。それが親
であってさえ、年寄りの面倒を見るのは容易なことではない。しかし、すぐにそれが彼等の素直な心の中のものだと解り,風次郎は敬意の裏で、現実ば
かりを見ようとする自分を恥じた。
そういう縛り中での、家族の楽しみが話題の中心であった。それこそ年相応と言うべきであろうか。
その後の酒は、抜群に美味かった。
だから梯子になった。
「昴」という、やはり他の仲間のつれあいがやってるカラオケスナックがある。
仲間の方は数年前腎臓で倒れた。仕事熱心な男で、風次郎は働きすぎたのだと思っている。本人は人一倍頑健な体の持ち主だと、勘違いしていたのか
もしれない。良く働いていた。諏訪では有名なホテルの支配人から独立してこの店を開き、やっと落ち着くかと思われた頃倒れた。可愛そうだった。
店は賑わっていた。MとYと団子になって入っていった。
「やー、お呼びじゃないね―、この繁盛じゃー」とこちらから喜びを表すと、
「今日はたまたま! こんな人出は10年ぶりよ。」と、かみさんはニコニコしている。
「元気?」
「だんなもお蔭様で。」と杓子定規な返事が返ってくる。
(その応えでいいのさ。良く頑張るえらいかみさんだもん。だれが普通でこんなにできるもんか。)
歌を唄おうか、ということで入ったが、他の客が休み無く、景気よく続けていて、風次郎達のナツメロ古典派は出る幕はなかった。「誰か一曲ぐらいやろうか」
と3人のうちの一人が言ったが、言った本人でさえ勇気が要るほど、あちらさんは景気づいていた。
しかし、これは経営者の友人である我々にとっても、気分の悪い事ではなかった。結局酩酊した。
結局、店には他の客ぐるみで貢献できたということか。
最終列車のなかで、乗り過ごさないよう最大の努力をして富士見に帰ってきた。降りたらやけに寒かったが、星が出ていたかどうかは覚えていない。その日
は一日中降っていたが、夜の諏訪の街では傘はいらなかった。
今年は天候が良くない。夏山は雲がかかってばかりいたし、10月は特に晴天が少なかった。だからついつい、朝起きて八ヶ岳を眺めようともしなくなった。
東京の家から電話が入って、「今日は、良い天気で山が見えるでしょう。」と言われ、「はっ」として“八つ”を見上げると、峰は雲が取り巻いていたが、中腹ま
でが白を塗したような初冠雪の姿だった。
紅葉は今がピーク。落葉松の黄色も混じって総動員。山の自然の名残の祭典を、今日は見に行こうと決めた。
カーテンを開け放って、朝陽を招きいれた。やや強い風は冷たさも伴って家の中を覗った。
「冬がくるなー」
そう言えば、今日の風は北北東である。初冠雪の山から来た“やつがたけおろし”である。
風次郎は、ヤッケと長靴姿で、“八つ”の裾野を目指して歩いた。
(00.11.18)
相変わらず天気予報はすっきりした好天を告げることなく、9月2日になってしまった。その日も富士見から見上げる八ヶ岳は厚い雲の中だった。
”やっぱり降っている”
今年はこんな風に、里は晴天なのに八ヶ岳のみ雲の中の日が多い。西山の方は比較的良く眺められたが、東の八ヶ岳は殆ど見えず、写真を撮るチ
ャンスさえ少なかったのである。
明日も「朝は曇り、昼は晴れ間もあるが午後には再び時々雨」と言うのが、南信地方に出された天気予報であった。
”仕方ない、夏山のうちに入らなければ、少し降ったら体力が不安だから”と自分に語り、”降っても耐えられる今のうちに山を歩いて来たい”と、風次
郎は願っていた。
”もう何回も稜線を歩くことは出来ないだろうからーー、よし!明日は行こう。”
2日は来客もあったが失礼して、一緒に来ていた姉に任せ、9時には就寝した。
朝の出発は3時半、4時過ぎから歩き出して、正午には下山を開始する。これが風次郎の既定である。
9月3日。随分長い間この日を待っていたのである。
3時半に起きて空を見上げると、月の無い暗い中に星が無数に散らばって晴天を示している。しかし、東側八ヶ岳の方向には星影は見えない。今年
の夏見上げる度何時もそうだったように、おそらく雲が全ての嶺を覆っているのだろう。油断は出来ない。
がしかし、今日は行く。
手袋、カメラ、磁石を確認。あらかじめ用意した山支度を身につける。首にタオルを巻き、端をシャツに押し込み、慣れた登山靴を履く。
美濃戸山荘迄は車で行くのである。立沢部落の脇を登り詰め、八ヶ岳鉢巻き道路を北へ、一般道路が行き止まりになる美濃戸登山口から、美濃戸
山荘へ向かう登山道へ車を入れる。
まだ何者も動かぬ、真っ暗闇の山中に音を発するのが少々後ろめたい。
風次郎は決まって美濃戸山荘の駐車場に車を置いてもらう。おそらく宿泊客のものであろう、10台ほどの車が眠っているように闇の中に置かれていた。
4時15分であった。
車のライトを消すと、原始林の中は全く光はなくなり、地上の石のほの白さを頼りに歩かねばならない。3〜 40b先の山荘から漏れ来る光は足下には
到底及ばず、慎重に手探りで歩く。
”目が慣れてくる頃に、丁度あたりも白むのかな”と思う。
そっと山荘の戸を開けてロビーに入り、駐車の断りと登山者カードを書いた。
まだ山荘も静寂のなかである。
ここからは行者小屋へ向かう南沢ルートもあるが、風次郎が採るのは、いつも小屋の脇をすぐ登っていく、赤岳鉱泉へ通ずる北沢ルートである。赤岳鉱
泉から硫黄岳を目指すのだ。
美濃戸山荘からしばらくは、北沢に沿って原始林の中を歩いて登った。
この林道には赤岳鉱泉へ荷物を運ぶ車が入るので割合に広い。30分程行って橋を渡った先の砂防堰堤まで林道は続く。途中「山の神」と称する小さな
石の祠が大木の下に祭られているのだが、真っ暗闇の中で素通りしてしまった。あたりはなかなか白んで来ない。大木の道を離れるところで、手を合わ
せて今日の無事を祈った。
堰堤の近くは河原が開け、2〜3台の車が野営した風に止まっている。作業兼で愉しんでいる人達が寝ているのだろう。
やっと空が白んできた。ガス一面だが雨は来ない。やれやれ。
いたどりの 花いちめんに 登山道
朝露がいっぱいの登山道をゆっくり進む。
”3年ぶりだ。なつかしい山へ来た。”
何回か橋を渡りつつ、右岸左岸、交互に進んでいく北沢沿いの道は全く変わっていない。
渓流も 緑うつすや 丸太橋
赤岳鉱泉が近くなると、沢の谷間の向こうに横に連なる八ヶ岳の稜線が見えてきた。丁度正面が大同心、小同心、横岳の峰である。ガスはまだ高い峰
に登り切れず大同心と横岳の間に猛る。
原始林を抜け出した橋の袂、明るくなって周囲の草花の形も見えてきた中で、”ああ、やっと山に来た!”と、稜線を見上げる。
ワレモコウ揺れる 彼方に大同心
赤岳鉱泉には若者のテントが無数に張られ、人々はこれから始まる一日の山生活
に備えて、活発に動き始めたようだ。昨日は雨で厳しかったとのこと、誰とはなしに
語り口は今日の天候への期待のようである。
風次郎は小屋脇の開けた場所から、一渡り峰の稜線を眺め、硫黄岳への登山道へ
入って行く。
6時5分であった。
沢を渡るまでの暫くは比較的穏やかな起伏であるが、峰の松目側の斜面にかかる
と登山道は右え左えとジグザグを繰り返し登りがきつくなる。しかし、ここまで来れば、
やがて樹の間に、同心沢を左にして、赤岳、中岳、阿弥陀岳の雄大な主峰連山が見
えてくる。
八ヶ岳は、こちら赤岳鉱泉、赤岳直下の行者小屋を含めた諏訪側の谷が、大きな爆
裂火口の中と言われる。風次郎が好んで歩く硫黄、横岳、赤岳、阿弥陀ルートは、そ
の大噴火口の渕に出来あがった山稜峰連山ということになる。それゆえに、美濃戸口
から登るこのルートは、直上に嶺と稜線を眺めて挑むこととなり、気持は常に前向きに
煽られる。さらに、晴れた日の早朝であれば、気流によっては猛烈なガスの吹き上げ
の中に、浮かぶ連峰の光景に感嘆を発しつつ歩を進めるのだからこたえられない。
峰の松目の尾根、赤岩の頭が稜線縦走への起点となる。それに向かって登る。2〜3回の立ち止まり休憩をして、南の方角、阿弥陀、赤岳を眺める。ガス
がかなり上がるのは好天の兆候か、阿弥陀の頭が朝陽に耀き出した。
”しめた!”と思う。
そして、”なんと言う美しさだろう”。
耀きの峰を包むように白くガスが上がり、右から左(西から東)へ流れて行く。
この斜面の楽しみは、この対面する大きな嶺の雄大な構えを眺めつつ登ることである。
赤岩の頭に立ったのは7時30分。
同心沢の谷からグングンと湧くガスが硫黄山頂に吹きつけている。
尾根は予想以上の風である。瞬く間に汗は吹き飛ばされるばかりか、体までが飛ばさ
れそうだ。しかし、そこからは、北方、諏訪盆地から、遥か北アルプスにかけて、すべ
ての雲がこの強い風に吹き飛ばされているように広々と見渡せるのであった。
”素晴らしい。久し振りのパノラマだ!”
”今日はついてる!”
白茶けた尾根に、先客である一人の男が、三脚に据えたカメラをあちこちに向けて撮り
まくっている。
風が強すぎて上着がバタバタ音を立てている。風次郎も登山帽を押さえていなければな
らなかった。
さて、いよいよ従走路。視界を遮るもの何もない、今日のこの山を歩いて行けるのは有
り難い。
目前のゴツゴツと構えた硫黄岳中腹の岩へ坂道を辿ることから始まる。風は行く手の左
夏沢峠から吹き上げる北風である。強いばかりか、予想以上に冷たい。
飛ばされないように風上側の道を歩む。ガスは諏訪側の同心沢から上がるだけで、北側
からは来ないから視界は良いが、小粒の砂利が雹のように飛んでくるのが痛い。そして冷たい。
”まるで冬だなあ”と、呟く。
しかし、岩を廻って南斜面に出ると、日溜まりのような夏の陽を浴びることになり”暖かい”を通り越して汗をかく。ほんの30分間であったが夏山と冬山、両方
の感触を味わうこととんなった。
風の中、石原の硫黄岳山頂には3〜4人の先客がいた。
丁度8時。
ゆっくりと登れば良し、としてきたが、いつもとほぼ同じ時間である。
”体力にはまだ自信をもってよいな”と、嬉しい自身の納得をする。
頂上(本当の一番高い処は、これより先100bの爆裂火口際にあるのだが)には、それらしくケルンが積まれており、その先に観測用の百葉箱が設けられて
いる。この峰は殆ど風を伴うので、それを避けるのに格好なその脇が、風次郎の毎回の朝食場所である。が、今回はそこへ止まるのを赦しそうもない風と寒
さだ。仕方なく、絶好の眺めを深呼吸と共に胸に納めて先へ向かう。
風は北と西から吹き付けている。風の冷たさは、晴れていてさえも素手を凍えさせる程であった。
南斜面を求めて石室まで朝食は延ばすことにした。
久しぶりの山稜である。風に気を付けて爆裂火口に近寄り、本沢を見下ろしつつ、北八つに向けてシャッターを切る。天狗岳と蓼科、その先の霧ヶ峰果ては
北アルプス迄見渡せる。
こんな光景はめったには見られないだろう。
ケルンを数えつつ下る崖沿いの道は、石室のタルミから横岳に通ずる稜線のカーブがすっきり眺められる。諏訪側は赤岳鉱泉の谷を覆うように切り立っ
て、風と共にまだ薄白いガスが吹き上がってくる。突き出した大同心の突起は下から見る仏拝の像とはうって変わって、天に向かって吠える熊のようにも
見える。風が唸るので尚更だ。
この稜線のカーブの美しさが際立っている。それが強風にさらされて、佇む我が身に和みをもたらしてくれる。歩を進めれば音楽でも聞こえてきそうに、道
は朝日に光っている。
石室でパンとジュースの朝食を済ませた。
古くから八ヶ岳を愛する者に親しみ深い石室は、歴史的な山岳人の拠り所でもある。こんな風の強い日は簡易に取り付けられた附属小屋の戸がバタバタ
と騒ぐのも又山らしい。硫黄岳から横岳へのタルミの、佐久側に向いた東斜面にうづくまるようにあって、いかにも大自然の難に耐えているようであるが、
一方で、日溜まりに静けさをかこっている姿は愛らしくもある。陽が射しているとは言うものの、今日の風は尾根を越えて吹き込んでおり、じっとしていると
寒くなってくるのだ。横岳を越えてきた一人が、
「すごい風だねー」と、隣のベンチに腰を下ろす。昨日から入ったと言う。
「昨日はどうでした。」と聴くと、
「駄目だったねー、風は無かったけど雨で。だけど、今日の景色は最高だねー。」
全くその通り。
風次郎は横岳を縦走する。
横岳の縦走は八ヶ岳登山の醍醐味といわれるもので、大同心をやや下に見下ろす稜線から、一気に頂上によじ登り。そして左佐久側の草付き斜面と、
右諏訪側のゴツゴツした石崖壁を縫うように進む。
岩を這うようにして越して行くから、穏やかな日であれば高山植物も沢山楽しめるのだが、今日は風から身を守るので余裕は無い。
連なる岩峰にはそれぞれ名が付けられている。その最後の岩峰、日の岳峰の右のガラ場から、覗き見るように富士山が眺められたので写真を撮る。
その幾つかには風に飛ばされぬように踏ん張った登山者が、ガスも晴れきった360度のパノラマを愉しんでいるようだった。
地蔵尾根との分岐をやり過ごし、赤岳展望荘に到着した。
ここも昔は石室であった。今はホテルと言っても良い程大きな建物に見える。
風次郎は、ここから赤岳を見上げるのが一番雄大だと思う。殊に朝の赤岳は最高だ。道と岩が続き、空が深く青い。見事な主峰である。9時30分であった。
”今年も来たぞ!”
好天に恵まれ感慨深い。なかなか上がってこれなかったが、待ちかまえていた日が素晴らしい晴天になった。予報が見事にはずれて有り難かった。山が、
”今日こそ、これほどのワンダフルビューをプレゼントするからもう来ないでくれ。”
と言っているような良い天気だと思う。
風次郎はジグザグの赤い坂を登り始める。
一歩一歩息を切らすが、その苦痛は言い難い憧れを手に入れるために課せられた過程にあるものと思えば快い。頭から、顔から、落ちる汗が時々吹いてくる強い風に飛ばされて散る。
それも心地よい。
いつも辿る、この主峰への30分は、八ヶ岳登山のメーンイベントとして、ひたすらに登るだけに、心静められる思いがする。
10時15分、頂上の小屋の前に到着した。
腰を下ろして休む。
今ここに居る人達は殆どが昨日から入っている人達である。歓声の中の話を聴き分けると、昨夜を過ごしたのは、青年小屋(編笠)(キレットは閉鎖中の由)、
オーレン小屋(夏沢峠)、赤岳鉱泉、行者小屋などそれぞれである。勿論赤岳頂上や石室であれば問題ないが、下から入ってくる人々は昼になってしまうので
赤岳の日帰りはやっとということになる。
風次郎のように、早朝車を使って美濃戸山荘に入るのは、一寸邪道かなと思う。しかし、今年もそれをやってのけた。そしていつもの通り、阿弥陀岳を越えて
帰る気力も十分ある。
”満足である。”
しばらくの間に、入れ替わりパーティーが上がってきて歓声をあげ、小休止をしたりして、少々離れた本ピーク(赤岳ピークは頂上小屋とは離れている)へ移っ
ていく。頂上ピークで再び歓声をあげるから、この峰は2度歓声をあげる峰の愛称でも欲しいものだ。風次郎も本ピークへ移っていく。
南側直下の竜頭峰を越えて、大キレットの先に連なる権現岳の連峰と、編笠、西岳、その向こうには、雄大に南アルプスの連山が、雄姿駒ヶ岳を中心に、あく
まで彼方に広がっていた。
我が町八ヶ岳山麓「富士見高原」も、今日こそは薄いガスさえ無く、すっきりした空気の漂う様を輝かせている。最早秋への態勢を整えて、稲田は黄色をおび
ているようである。
一度この峰でビールを飲んだ時はうまかった。しかし、そのかわり直下の岩場で危ない眼に合った。常に大勢の登山者がそばにいる夏山のこと、滅多な事故
は起きない。又起きてもすぐ手当が及ぶことになる。だから慎重に歩きさえすれば安全なのであるが、今日のビールは我慢した。
さすがに10時を過ぎると好天の夏山は人が沢山出てくる。昨今は老人の登山客ばかりという皮肉ともとれる言い方をする人がいるが、なんのなんの、若い人
が8割方である。カップル登山の格好良いのにも数組に行き会って、風次郎は山を愛する心を持った若者達に賛同のエールを送った。
それに、八ヶ岳にはゴミが無く美しかった。
山小屋や地元観光協会の努力に感謝する気持ちであった。
風次郎は赤岳南斜面の岩場を下り、文三郎道を右に見送って、中岳、阿弥陀岳の山頂を越て11時50分には下山にはいった。阿弥陀岳の山頂から視界いっ
ぱいに広がる今日辿った稜線を見渡し、喜びと感謝を神様に納めて、阿弥陀の摩利支天の鉄梯子をよじ登った。眼下は立場川の渓谷に続く我が富士見町で
ある。
”もうこのつぎはいつになるのか?来年もこれるだろうか?”
”体さえ云うことをきけば又来たい。”
こんな天候に恵まれたのは本当に良かった。
摩利支天からは急な西側のハイマツの斜面を下りる。この道はあまり整備はされていないが、美濃戸へ続く一本道。阿弥陀の斜面はきついが、御小屋尾根
は比較的平らだし、途中の御小屋から南沢にショウトカットすれば美濃戸山荘まで2時間で済む。
風次郎は御小屋尾根へ掛かると、キレットから権現が見渡せる小さな草原で小休止した。これから先は原始林ばかりになってしまう。そこは風次郎が「お別れ
展望台」にしている場所で、尾根の道脇にはまつむし草が盛んに咲いていた。
アキノキリンソウも咲いていた。
紫と黄色がすっきりと対比して風に揺れていた。
美濃戸山荘に帰ってきたのは丁度14時だった。
山荘は登山者の外、ここまでは車で楽しみに来る人も入ってくるので、家族連れの姿も見えた。望遠鏡を覗く従業員の若者が、赤岳の頂上付近のひとかげを
捉えてはしゃいでいる。知り合いが到達したところのようだ。久しぶりの好天に小屋全体が沸き立った賑わいの様子であった。今年のお盆はやはり雨で客足
は少なかったらしい。今、まだ太陽は燦々と輝いているし、ここは噴火口の中のような所だから、まわりを峰に囲まれて風も少ない。今日は久しぶりの賑わい
のようである。
いつものように駐車のお礼を言い、小屋前の広場に引かれた、山からの冷たくて美味しい水をたらふく飲んで、一日の山歩きを終える。
道路は登山者が歩いて山を味わっているのだ。申し訳ない思いもあり少々悪びれるから、ほこりを出さぬよう、そろりと車を走らせる。
思い焦がれた3年ぶりの八ヶ岳歩きであった。
楽しく、満足な八ヶ岳歩きであった。
***********
石原のケルンを越して眺むれば 今赤岳は朝の輝き
風つよし 白煙のごとガス涌きて 真夏の峰で手は凍えたり
岩山を 鎖梯子と越え行くは 今日も懐かし横岳の峰
阿弥陀岳振り向き眺む野原には マツムシ草の花が揺れ咲く
(00.9.3風次郎)
暑い夏が続いていた。
富士見高原でも天気は良く、昼間は暑さに扇風機が欲しいと思った程であった。
海抜1000bの高原でも、暑い日が続く年はある。
そんな時のために、昔から団扇が沢山本立てや壁脇のテレビの側に立てかけたりしてあるのだが、今年は出番が頻繁にあって、そのまま部屋に散らかったりテーブルの上に置かれたりしていた。
うまい具合に夕立が来る日が多かったのは幸いであった。
畑の作物の為には、このカンカン照りと夕立が最高だという。農協、丸一商店等日常の食卓の材料となる野菜を扱う店には、優れた出来のキャベツ、きゅうりもなすもトマトも潤沢に並び、びっくりするほどの安い値段で、毎日穫れたてのものに入れ替えられていく。それは土地の人々にとって、お盆前の恵みなのだろうかと、風次郎は思った。
12日の朝に国立の家を発った。妻ハナも一緒の筈であったが、11日の夜から、良く原因の解らない病状で医者にかかった次男の為に、大事をとって在宅することになったので、やむをえない。
5時に愛犬ナナを乗せて出発した。案の定、盆前の帰省ラッシュにつかまってしまった。最早高速道路は入り口料金所で渋滞が始まっていて、国道20号線の電光掲示板でその様子を知った時は、“やはり駄目か!”と思う諦めの境地になっていた。何時に発っても覚悟は必要かなと思っていたので・・・・。
しかし向かわぬ訳にはいかない。盆は13日に迎えなければならない。それに月末には母の3回忌を控えて、墓の掃除も重要である。
結局大渋滞の中を、5時間懸けて富士見へ辿り着くという、盆前の難行を余儀なくされてしまった。
後部座席の愛犬ナナは車に強くない。口から泡を吹いてぐんなりしていた。
墓は、13日の朝掃除した。とは言っても草を刈り取って芝生の状態を表すよう、体裁を整えたのである。明方ナナを連れ、南天寮から街を隔ててほぼ反対側に当たる位置の墓地に向かって、30分位歩いて行った。高等学校のグランドの西側に段段状につくられた共同墓地で、グランド越しの彼方に八ヶ岳が見える。
草刈をして見栄えのよくなった墓の前の石垣に腰を下ろし、八ヶ岳の右脇から日の昇るのを眺めていると、朝凪の時を過ぎて少々の風が清清しく伝わって来る。
無言でふとナナの背を撫でて、しばしの静けさを楽しむのであった。
お盆は13日の夕方、迎え火を焚いて迎える。
そして先祖と14日、15日を共に過ごし、16日に墓参りをしてまた送り火でおくるのである。
風次郎は、一人で新聞紙を細かく割いて迎え火を焚いた。
子供の頃は山へ行って、白樺の木の皮を矧ぎ、黒ススの多く出る炎を見ながら唱ったものだ。
「盆さん盆さんこの灯りできておくれ。」
その頃、兄弟も父母も、家中が顔を出してひと唱和終わらないと、盆は来ないのであった。盆が来ると家は賑わい、家中でおいしいご馳走が食べれて楽しかった。
一人で新聞を炊くのはあまりに寂しいので、愛犬ナナを連れてきて脇に繋いだ。犬が火を見るのを嫌がるのは、それこそ火を見るより明らかで、怯えているようだったが、当然わかっていながら、一緒の気分で風次郎は迎え火を見つめていた。
“そう言えば、今年はお寺の檀家廻りも来なかったかーー” この家は普通は留守なのだ。
「盆さん盆さんこの灯りできておくれ。」
「盆さん盆さんーーーー 」
やがてすぐに灯りはきえた。しかし、風次郎には、しきたり通りにやったという安堵感を得、それが盆が来た事の証拠のように思われた。
15日はお盆のお中日(オチュウニチ=中心の日)である。
松本の兄も、姉も、東京の弟も、風次郎が作った簡素な盆飾りを施した仏壇に焼香した。ハナも次男の状態が何とか出勤できる程になったので、弟の車に便乗して一緒にやってきた。病の弟も盆の外泊帰省をして皆共に食事をした。自分が手がけた畑のきゅうりやとうもろこしが丁度食べごろに実っていて美味かった。
たった一日の旧家における盆の賑わいは、廊下も窓も全部開け放した建物に、懐旧の木霊が飛び交っているようで懐かしいものだった。それは、旧家を囲む雑草の繁った畑を渡ってくる風の中で行事を営むと言うに相応しいと、風次郎は思った。
夜になって、虫が騒いでいるだけの暗闇を見つめても、風次郎はそう思った。なにか潤いがあった。
風を伴う静けさは、お盆のお中日といえ、寂しい雰囲気を含んでいるようだったが、風次郎はどこかで満足していた。
それは、旧家に人が出入りする事への喜びを増幅させた。
8月15日は亡き父の誕生日でもあった。そして、その父も日本人の一人として命がけで戦った太平洋戦争の終戦記念日なのでもあった。寂しさはそこえも関連づけられていった。
16日は、墓に詣でる。盆飾りをまとめて供え、焼けるものは墓石の脇で燃やした。
その火で線香を点し、南無阿弥陀仏を唱える。
“盆も終わりだ。”
相変わらず夏の強い日差しが照りつけるが、盆を過ぎれば涼しくなりそうな気がする。
“これで夕方の送り火を済ませれば、盆も終わりだ。”
送り火は妻ハナと共に、又少々怖じけている愛犬ナナを脇に寄せて燃やす。
火は、とろりとろりと、小砂利の中に吸い込まれるように消えて行った。
“盆さん盆さんこの灯かりで帰っとくれ―――”
南天寮は客も、兄弟も皆帰って、再び静かになった。
○
それから10日を過ぎた26日、母の三回忌を営んだ。
相変わらず暑い日が続いており、この日、各地では残暑の高温を伝えている。しかし、とはいっても、高原には着実に秋の気配を感じさせる風が吹き、草花も葉の色が褪せて倒れ始めたり、立っていても次第にその色の濃さが失せて行く。
夜に聴く虫の音は、奏音逞しく、この世界ばかりは次第に活力を増しているようだ。
やがてこちらも力を失って、すっぽり秋の空気に包まれていくのに。
法事は、兄弟と風次郎の家族を中心に、父母の兄弟の家に参列をお願いした。
2年前逝った母は85歳であった。長女であったがその兄弟といっても相当の年である。すでに九人のうち四人は鬼籍に入ってしまった。この日も、本人が参列できたのは2名であった。他はやはり健康に差支えが有って、連れ合いの方のみで来られた。父方の兄弟はすでに全員がなくなり、皆あととりの参列であった。
こうした集まりは、時の移り変わりを識るには良い機会だが、近しい者の集まりは必然的に楽しい思い出だけではない。悲しみや惨めな時代を呼び覚ますことにもなる。良きにつけ、悪しきにつけ、いずれ生きて語る者のいない此の世の寂しさを感ずる時がくる。
懐かしさは、心を和ませたり、暖めてもくれるのだが、それは決して互いに満たされるものではない。若しそれによって、先行きに自分の意とするものを見出したり、誓いが生ずれば良しとしなければなるまい。
法要と墓参を済ませ、位牌を前にして皆で食事をした。
過ごした年の量ほどに、父母と共に暮らした終戦直後からの我が家に関する思い出話が、多様に語られるのであった。常に、語られる材料は変わらぬものであろうに、その都度、其れなりの感慨を呼ぶのである。他愛なく、又必要に充分なストーリーがある。皆が納得している世界でのみ行われる、大事な儀式のようなものであろうか。
そこに苦痛は無く、和やかなのである。
やがて陽の光が斜めになる頃、老いた客達はゆっくりと腰を上げ帰っていった。
皆が帰り、全てが終わりしめやかな感を得て、風次郎はホットした。
この夏はとても暑い夏だったように思う。
まだ初夏の五月から暑いと感ずる日が多かった。6月は暦通り梅雨に入ったが、中旬には既に晴れ間が多く、時々は雨も降ったが梅雨が早く明けたような天気になった。気象庁の梅雨明け宣言は七月十六〜七日に出されたが、七月初旬の天気は台風一過から始まっており、私は梅雨明けを感じていた。
ちょうど七月四日には「南天寮」の草取りをしており、富士見から眺める八ヶ岳に夏雲がムクムクと登りあがって"ああ、これで夏が来る"と思ったのだ。
暑くて長い夏だった。
六月の雨も時々激しく降ったが、降り続くといった感じがなかった。
"晴れの合間にザーと降る"と言う風に感じたのは私だけだろうか。
だから夏は長かった。長かったから余計暑く感じたのだろう。
まだ夏がいってしまった訳ではないが、信州では盆が過ぎると"秋"と割り切っているように思う。現に東京ではまだ三〇度を越す日が続く。富士見で過ごした盆の一週間はまことに涼しく快適で、夜など窓を締め切り、きちんと布団を着なければ、むしろ体に良くない、風邪をひいてしまうようである。
久々、「南天寮」の菜園に、農業を体験した夏だった。ネギ、ささげ(いんげん)、枝豆ジャガイモ、キューリ、人参、大根、レタス、キャベツ、とうもろこし、を作った。
私も、協同作業者の妻ハナも農家の出ではなく、種や苗を買いに行ったときの、商家のアドバイスの外は、お互いに昔親がやっていた様子の"見よう見まね"の仕事であった。だから作物に満足な出来は期待しなかったが、それでもやり始めると欲もでるし、大袈裟に言えば作物や畑に子育てのような愛情が湧いてきて熱が入る。それ相応に楽しめたのである。
○
最も上手くいったのはジャガイモである。五月の連休に駅前の三好種子店から種芋を買って来て、ハナが包丁で半分に切って播いた。切り口に灰を着けて、播くというより畝に置くのである。それはハナが知っていた。灰の調達には一寸困ったが、庭で廃木を燃やした後の残り灰で済ませた。
実を言うとジャガイモは昨年俄か作りをした。種を撰ばなかったのと、播く時期が遅れて良い物が穫れなかったから、今年は失敗したくないと三好種子店に念を押したのである。
「素人でも良く出来るヤツを!」と。
「ほんなら、タイハクとメイクイーンずら。」の答えの通りその二種を一〇株×四畝程播いたのだった。
六月の梅雨の頃、木はどんどん大きくなって雨上がりに咲いた花は可愛いかった。七月上旬のカンカン照りで葉は虫だらけになって、やがて枯れた。消毒の始末も解らず、なるがままの姿を見るのはあわれだったが仕方なかった。
ところが、七月の終わり、草取りの合間に、ハナが"試しに!"と一株抜いたところ、何と10個ちかくもまずまずのイモが付いていたのである。
「ハハハ ……心配することなかったんだ。ずいぶんデカイのがついてるわ!」と。
結果良しであった。枯れ時と虫が併行していたらしい。
○
同じ日に種をまいた枝豆は、八月初旬に抜いたままの木を東京に持ち帰り、ビールのつまみになった。
○
ネギは昔から長く畑にその存在感のある作物だったように思う。
これは苗を買って畝に立てかけ、土をかけておけば良いぐらいに思っていた。
これも四月の終わりに五畝植えたが、苗が悪かったか、植え方が悪かったか、半分は育たなかった。後からご近所のネギ畑を良く見ると、畝と畝の間を広く取り、順々に土を寄せて、十分に茎を地中に育てていかねばならぬ事が解った。
決して苗の所為にしてはならない。来年は上手くいくだろう。
○
人参は種を播くだけで良かった。大根もそうだ。
大根は大きくなるにつれ、途中間引きのように収穫していくのがコツのようである。
自分の作った物は、さすがに葉まで大事に食卓に乗ることになる。勿論根は多少(かなり)形の悪い物でも十分収穫の喜びを味あわせてくれるのである。
○
レタスも種を播くだけで良かった。この野菜は虫が付かないので助かる。
発芽して混んだ状態から間引いて、株になるように広く植え替えてやると、丸く形良く、大きくなっていった。今でも畑から収穫、食卓直行できる量があり、生では勿論、私が富士見で自炊するには、他人伝に聞いてやっている、みそ汁に入れるのが、風味も歯応えも最高である。
○
キャベツは農協で苗を一本50円で買ってきて植えた。
案外な物が穫れたが、収穫して食べようと言うその日に農協の店頭で見ると、家のと同じくらいの物が50円で並んでいた。妙な気持ちになった。農家は浮かばれまい。
○
さて、キュウリである。
五月に農協から買ってきた5本の苗は3週間ほどの内に消えて無くなってしまった。
近所の人に聞くと、まだ寒さの来る朝があるから、そんな日の前の夕方は苗を保護する必要があるとの事だった。
日曜百姓では、この自然への手当が叶わないわけだ。すぐに追っかけて、今度は種を播いた。少々遅かったかなと思ったが、順調に芽が出て、8月の初めからは収穫が出来るようになった。
しかし、さて今度は、一週間に一度の収穫ではキュウリは大きくなりすぎて長さ30p太さ7~8pにもなる物が沢山出来てしまい、これは食するに不適だ。
お盆中の物は、毎日収穫して食べるから良かったが、それ以外結局は半数ぐらい捨てるはめになって残念だった。
朝市のおばさんに聞くと、大きくなっても身がしまっている品種があるらしい、店では売っていないから来年は分けてくれるとの事、お願いしておいた。
○
今、トウモロコシを楽しんでいる。これは一週一回の収穫に丁度良い。
暑い夏を思わされたのは、何といっても畑の草取りであった。
南天寮の畑は50坪程度であるが、ガッチリやると丸一日かかる。雨の日に作業する訳にいかないし、大抵はカンカン照りの炎天下に頑張ることになる。まあ草の伸びること伸びること、週末百姓とはいえ、只毎週草取りに通うような気がした。それに、土手や芝原の草刈り作業が加わるから、顔も真っ黒、6月からこの方、週末は腰まで痛むほど働いたように思う。
但し、青草の香にむせびつつ、流す汗の後の夕食は、自分の畑の収穫物と共に、ビールの旨さが格別である。庭先の風景というものが、次第次第に馴染んでくるといえるならば、このような過程の先にあるのだろうか。
高原の暑い夏は、お盆が過ぎると、一緒に去っていく。南天寮には今年もお盆中人の出入りが多くあり、迎える者にとっては嬉しい限りだった。人の集まってくるのは生気が漂って良い。
信州の短い夏に咲き誇る黄や紫の花々が揺れて、もう秋風を待つ心持ちになる。
毎日ムクムクと東西の山々に白く湧く雲は、やがて、その直立に立ちのぼる体を伴わなくなり、崩れてどんよりした雲が多くなる時期を経て、本格的な秋になるのだ。
8月は、早朝を除きすっきりした八ヶ岳の稜線をのぞむことが出来ない時ではあるが、が故に、山に近づき、山を歩きたくなるのである。
ついに、今年は一度も山に入っていない。ここから見る「八ツ」が何時もガスっていていいチャンスも無かった。
母の3回忌が月末に終わる。そしたら歩いてこようと思う。
風次郎が初めて見た時のカモシカ 1993.8 中岳頂上付近
この辺の山には野生の鹿がいる。日本鹿とカモシカである。雄鹿には角があって、枝別れしているのが日本鹿、前に短く突きだしているのがカモシカである。たいてい群をなしており、群には親も子もいるから、風次郎には良く区別がつかない。
野生の鹿に初めて会ったのは、中岳の頂上付近だった。8月の晴れた日、早朝から、硫黄、横岳、赤岳を巡り、阿弥陀岳を越えて、御小屋尾根へ下りるコースを辿っていた。午前10時頃だったと思う。竜頭峰の岩場を離れ、登っていく若い連中に励ましの声を掛けながら、文三郎新道を右に見やって、中岳を登り始めると、上の方で、"鹿だ!鹿だ!"と声がする。その声に絆されるようにして駆け上がっていった。
と言っても、山だから走る訳にはいかない。それでも、ふうふう言って、汗をかきながら急いだ。鹿を一目でも見たかったのだ。
"待ってくれ!""行かないでくれ!"と心の中で叫びながら、突起を越えると、頂上の手前の突起、左約30mのハイマツの中に、一頭の鹿が立っていた。願いが届いたのか、私を待つようにこちらを向き、体長2mがスックと立ちじっとしている。角があったから雄であった。かわいい眼をしていると思った。すぐにカメラのズームをあげてシャッターを2枚切った。
これがいけなかった。こちらに会釈するように、ハイマツを飛び越え、、谷へ下っていってしまった。せっかく会えたのに、もっと会っていたかったと思ったが、"待て!"という意思は伝わらない。耳がピンと立って、胸の毛が一寸長いところまで観察したが、あとは軽快に駆け下りていく姿をしばらく眺めるばかり。
いったい何しに頂上までも来たのだろう、と思った。
やはり、鹿もそこに山があったから登ったのだろうか。
それ以来、鹿を見ることは多くなった。と言うか、関心が高まったのだろうと思う。
富士見町にもゴルフ場が出来て、その周辺は別荘リゾートとして開発され、整備された舗装道路が走るようになた。鉢巻き道路(八ヶ岳ぐるりを巻いて走っているので地元ではこう呼ばれている)である。もともと八ヶ岳山麓は深山だから、鹿だけでなく、生息している野生動物は多い。道路が出来たため、鹿と自動車がぶつかり、路上で2~3頭の鹿が死んだ。最初は新聞記事になったりしたが、結局「鹿に注意!(鹿の通行優先)」の道路標識が立ち並んだ。
道を横断する鹿は子連れが多いという。ある人は道路が、鹿の水飲み場や餌場行く通路を遮断したのだと言った。
だが風次郎には鹿が人間の開発した遊び場所を、興味本位で散策しているように思えてならなかった。それとも、親が子に、自動車の通る道路の渡り方や怖さを教えていたのだろうか?
昨今は山中の鹿も、里近くにどんどん下りてくるようになった。群馬や栃木では、里の作物を荒らして困るという話しも聞く。しかも、鹿がこのところ人間が鹿を保護している事を心得ていて、横着にもなったらしいと、鹿の村の鹿達から聞いてきたようなことを言う人もいる。
風次郎の友人、動物写真家大高成元氏の話しによると、春先、山に食べ物が無くなる頃はどうしても餌を求めての活動が激しく、また、子育ての時期が近づくので行動範囲が広がるのだという。確かに山にはいると、人間の住む村落からかなり近い森に入ったとたんに、皮が剥ぎ取られた木々を見ることが多くなった。
風次郎も鹿は好きな動物の内に入れている。形もスマートで可愛いい、魅力的だ。そして、彼も陸上の選手だったことがあり、陸上の選手は"カモシカのように"と形容されてプレーする事が格好良さだったから。鹿は仲間のような気がする。 しかしこの木々の様は、確かに木々の方が可愛そうだ。荒らされた作物と、荒らされる農家の方々は、もっと気の毒だ。それを与えないで鹿達が死んでしまうわけではないんだろうから。
そんなことが、気になったからと言うわけではないが、今年の春は、暇つぶしに何回か釜無の鹿を観察に出掛けた。別に鹿を説得しようとか、対策を講じようと勇んだわけではない。自分がただ、"鹿君、駄目じゃあないか"と思いつつ眺めれば良かっただけの、遊び心であった。
八ヶ岳の方の山でも良いのだが、なんとなく、今まで八ヶ岳の方の鹿を見る事の方が多かったので、もっと釜無側(富士見では町を挟んで東が八ヶ岳、西が釜無と相対する山という事になる)も見なければというバランス感覚??のような気がしていることもあった。それに、釜無は川の脇の山に、必ず沢山の鹿が棲息していることを風次郎も知っており、広い八ヶ岳の麓で鹿との巡り会いを期待するより、遙かに会える率は高いと判断したからである。
釜無川渓谷は風次郎が子供の頃、川そのものや流域保護の為に作られた幾つもの堰堤を利用した公園のごとき観光地であったのが、今は川は砂利取り場、川沿いの山は削られて採石場となった。流域に憩いの場との雰囲気は、無くなってしまった。
僅かに古くから知る人ぞ知る名湯「武智鉱泉」の旅館と、その周辺に申し訳程度の公園らしき場所と釣り堀があるのみ。キャンプ用にテントを張る場所もあったり、竿を掲げている釣り人もいるが、大きな採石工場とそこへ通うダンプカーが唸りを立てて往来する、と書けばあまり優雅な風景ではない。源流は甲斐駒ヶ岳と鋸岳の谷間に水を集め、それが長野県と山梨県の県境を流れる釜無川となって甲府盆地へ向かう。鋸岳への登山道は秘境を極めると言われ、(風次郎は七つ釜迄しか行ったことがない)殆どけものみちを辿ることになるが、鹿ばかりか、猿や熊の天国だそうである。
採石場の先、つまり釜無川上流は採石場の出現で人足がシャットアウトされた為、却って静かだ。その山へ入る。
昨年の今頃、芽吹きの始まる頃下流から登っていくと釜無山に至る右岸の山で4~5頭のファミリーに会った。殆どが人の気配に驚いて一目散に去るものらしい。30度もありそうな藪の斜面を横列にドヤドヤと去っていった。だからこの辺にはたくさんいるはずだ。
上流の渓谷は切り立った崖と言っていいほどの斜面である。その山に降る雨が流れ、川へ下るからこの斜面には無数の小渓流が発生し雑木の藪となっている。山と言える程の樹木は2~300m登らないと現れない。
第一回目は夕方だったので、偵察に止める積もりであった。
鹿は、この雑木の斜面まで降りて来ていた。何と川縁から数10m程登ったあたりの木々(殆ど藪だから、10p位の太さの気しかない)の皮が剥ぎ取られ、ほの白く樹肉?を現している。思わず"こりゃ酷い"ともらしたくなる程だった。
さらに登っていくと、多少傾斜は少なくなって、造成した落葉松の林が現れた。樹下には枯れ枝が散らばり、ここも無数のけものみちがいっぱいだ。たしかに、けものみちは鹿のものである。見え隠れしつつ、山襞一つ先の谷川へと続いている。バキバキと落葉松の枝を踏みつけたり、手に持った木鎌で払い避けながら歩いていく。が、一寸おかしい。自分が出している音だけではない。バキッ、バサッと別の音が聞こえるのである。立ち止まって、木々の間を透かしてみると、2頭の鹿が山を登っているのである。今は角をおとしている時期なので雄雌の区別もつきにくい。
最早薄暗くなる今頃、どうして?何しに?居ないはずでは無いのか、と余計な事を考えながら見送る。寝ぐらへ急いでいるのかも知れない。ビックリさせないで良かった。
次の朝、早起きして山襞の谷ひとつ隔てた斜面を登る。やっと陽が登りはじめた頃だ。
動物写真家大高成元氏の話によると、鹿は腹が良くなると、水を飲みに川へ下るという。食事は何時でもするそうだ。だからこの小渓流や谷にけものみちは続くのであろう。
風次郎としては、ただ鹿を待つのも芸がない、出来れば渓谷を展望できる山歩きのポイント地点も得たいし、小渓流であれ、流域には山菜の王「たらの木」も生えているかも知れない。等と欲張りの眼力も働かせながら、登る。しかし、鹿が囓った木々を見るばかり
で目当ての鹿は見つからない。やがて大きな松の木が一本はえた岩の上に出た。そこへ
至ったのは、そこに陽が射していたからである。陽が射しているのなら、視界が開けて、或いは眺望のポイントになり、次に登る時の目安になるかも知れない。もう一時間も登った。この辺からだと、陽は八ヶ岳の右、雲の中からあがる筈である。
しかし、松の木のある岩場も大して視界は良くなかった。まだ鹿には会えない。
岩を降りて斜面を這うように横に進み、沢をひとつ渡って、次の山襞の尾根へ出てみた。陽は次第に高くなり、木々に遮られて直接陽の光の届かない山中でも、十分な明るさとなった。まだ新芽を出し始めた落葉松の間から見える5月の空が青い。
その尾根を越して、今朝はもうこの辺までかと、崩れそうな斜面に足を踏ん張っていると、遙か下の方からバキバキと音がする。はじめは誰かが登ってくるのかなと思うほどの微かな音だったが、どうもそうでもないらしい。こちらも降りはじめた。
谷川と並行した斜面を一歩一歩手応えある細木を頼りながら、結局は音に近づいて行く方向をとる。薮の中の木を弾く音は物の2~3分でかなり大掛かりになって、少々気味が悪い感じである。風次郎は立ち止まった。もしや熊の親子ででもあったら、当方も構えなければならない。危険だ!と思った時、50m程先を鹿が左から右に向かって群をなして渡っていくではないか。約20頭もいる。小枝など物ともせず、で、走りこそしないがかなりのスピードで、壮観に移動している。先頭の見るからにしっかりした(そう見えた)体躯の者に従って、行列で進んでいる。斑点のある者、首から下にやや長い毛のある者、無い者。角があるのが雄、無いのが雌。日本鹿であろう、角が単純でない。明らかな道がそこにあるように、どんどん行く。斜面であるから、足を掬われたり、滑ったりするが、人間のように苦戦しているようにも見えず、ほぼ平然と進んでいる。
上から眺めている風次郎には、全く気づいていない。斜めに走る木間の朝陽が数条、林に入り射して、ボウと照らされ、逆光の中に、この鹿達の体を浮かびあがらせている。
動物の美しさは、やはりこの野生味にこそあるのであろう。ほんの2~3分の光景であった。我が汗を癒しつつ一団の過ぎ行くのを眺めていた。
雄鹿はこの季節新しい角が生えるという。年を追って枝分かれが増えた新しい角が生えるのだという。雌は夏が来て、食物(ミズゴケや草木)が豊富になると出産すると言う。であれば、この一団のような一族の群れは一二ヶ月のうちに新たなる子育てに入るのであろうか。
朝陽の中の鹿の群れは、ひと時ではあったが、光と影の映像を見るようであった。しばらくして、最後の一頭も山襞をのっ越して消えて行った。どこえ向かって行くのか、美しい光景のラストシーンであった。
連休の鹿の観察はこれで終りにした。しかし、いかにも雑木林の剥ぎ取られた立ち木の印象は、強烈だ。木が可愛そうであるのは、枯れてしまうからである。木は幹一周の皮を剥ぎ取られると根から吸い上げた水養分を送れなくなり、やがて枯れる。鹿は見てくれが良く、昔から可愛がられてきた。これほど皮を剥ぎ取られた木の数が多くなったのは、人間が鹿を保護しすぎだと言う人もいる。人間が保護する事に加えて野生の天敵オオカミはその昔から印象が悪く、どんどん退治されて絶滅の危機にあるそうな。地方によっては、オオカミを人工で増殖して山に放ち自然のバランス原理によって、鹿の数を調整してはとの意見もあると言う。鹿の肉は美味しいと言うから、ドンドン捕獲して食用にも増やせば良いような気もするが、それもどうか?オオカミとの話もなんとなくどうか?
鹿は可愛いい。
複雑な心境である。 (00.5)
東京の桜が終わる頃になると、八ヶ岳山麓にも花の季節がやってくる。
四月九日 日曜日 晴天、 春の陽は野山に淡い緑を呼び、黒土の田畑に陽炎を呼んで暖かさを感じさせる。だが、枯草の中に、菫や、クロッカスの紫や白の花が、チラリと見えるばかりで、桜といわず、その時を待ち構えている梅も、レンギョウもユキヤナギも、土手の水仙もタンポポも、わっと咲き始めるのは三週間は先か。
暖かさに誘われて、農家の人達に負けじと、南天寮の庭先の整備や菜園の春仕事を始める。
昨年は春先から夏一杯、友人が頻繁に訪れてくれたが、この時期の庭の手入れも充分に行っていなかった為、夏になって草花が咲き始めるまで、荒れ放題だったように思う。それでも縁先に芝を張り、畑の半分は白樺や桜の木を植えたから、ここ数年のうちには庭らしい趣も出て来よう。しかし、今は庭に立っても、いかにも殺風景だ。今年も手入れを心がけておくことにする。
芝はアウトドアショップから調達して補完し土を掛け、長い冬を越してきた菜園の地表に生え出したはこべなどの草を取り除く。
何回も霜にさらされ、霜柱にデコボコになるほど持ち上げられた地表で、雑草は根を浮かしているので、この時期に処理するとすばやく綺麗になるのだ。風次郎の家は農家ではないが、この地に育ち、知らず知らず覚えた生活の中の知恵は、自ずと身についているものだと思う。女房の姉弟が昨年は大根や、きゅうりや、ネギ、トマトを沢山作ってくれて、我が方もあやかった。こちらはジャガイモときゅうり、モロヘイヤを作ろうと試みたが、モロヘイヤは全く姿を見なかった。きゅうりとジャガイモも良く採れたとは言い難いが、可愛さあまりの収穫物を感謝と歓喜の内に、何回も食卓に載せ楽しんだ。
女房は、今年はもっと良いジャガイモとネギときゅうりを、自力で作ると言う。自力と言うものの鍬を振うのは当方で、これを半日もやると大変草臥れるし、畑というのは草取り仕事が多く、好収穫の為には春から秋まで膨大な雑草を畑の隅に積み上げねばならないのである。まあ、それも楽しみ?(ゴチャゴチャ言い合うのが)と思える節もあるから今年もやる事にしたのだが。
本当の農家の方々は、こんな悠長な事を語るのを好まないかもしれない。しかし、素人の私達にとっても、土に近づき、土にまみれ親しむことは有難いと思う。
断然言える事は、自然はスピードアップを可能にしないこと。二〜三年前の風次郎は、今日、こんな事に没頭することなど重いも寄らない別の世界で、屹然として動いていた。
”よし!今年は山の春も十分見よう”と心に決め、農作業に励む。
南天の株分けもして、定位置に植えた。この南天も冬中眼を楽しませてくれる、紅い実をつけるだろう。
2000.4.9 (風次郎)
海抜950mの富士見高原から、東京多摩の自宅を結ぶのは、国道20号線である。最近は高速道路を利用が盛んで、いわゆる街道筋の情緒を味わいながらする旅は少なくなった。
が、風次郎は車での富士見と東京の往来を、天気を見ながら早目に発ち、のんびりと20号線走って愉しんでいる。上りは季節を追いかけ、下りは季節を振り返るのである。
この季節、上京の旅情を辿れば、一日のうちに、たった数時間で早春から新緑までの春景色を追いかけたり振返ったり出来るのは楽しい。
4月23日、午後。垂れこめたガス状の雲が割れて雨も上がり、日差しも明るく射し込み始めた頃を見計らって、この日本の春を追い求めるように一般国道を走った。海抜という言い方をすれば、本当は下っていくのである。
富士見はまだ春の端りだ。やっと人々は戸外での農作業を始めたが、囲まれた山々の斜面には、まだ白い雪が見える。昨日里に降った雨は、山では雪であったらしく、その白さも真新しい。
木々は里といえ、葉をつけるどころか、芽吹きを前に構えていると言った状態である。僅かに活気を見せているのは、土手のねこ柳、芝草のかすかな緑、それにクロッカスや水仙、早咲きのゆきやなぎが所々に見える程度で、桜も、ボツボツという感じである。これからの短い期間が、高原にとってこの春の息吹の面白さだ。全面的に展開を見るには、絶好の機会なんだがと、後ろ髪を引かれる思いでまだ仕事を持つ身を、東京へ戻さなければならない。南天寮を後にした。
国道20号線は富士川上流の釜無川に沿って下るのだが、富士見駅近辺が峠であり、山梨との県境に近い蔦木部落迄来ると100mも下がる。そこから釜無川にかかる国界橋を渡り、川に沿って甲府盆地に向かう。
この一帯は、東は八ヶ岳から続く富士火山帯と、西は南アルプス連峰とに挟まれた谷間で、北からの風を遮られた日溜りの渓谷であり、峠の町富士見に比べると余程暖かい。
白州町の教来石、武川村あたりは、東に八ヶ岳南面を望みつつ、西に巨大な甲斐駒ケ岳見上げる風光明媚なところである。大武川が釜無川と合流するあたりからの甲斐駒は、雪の残る春から夏にかけての壁面が、凄みのある高さを現し、脇に仙丈ケ岳ヘ渡る北沢峠の切れ込みと、鳳凰三山を従えた姿が雄雄しい(望岳参照)。いまその山懐の民家は、春風に運ばれた下流からの暖かい風気に育まれた花木が、活気づいて花春を告げている。
道路脇に車を止めて、家々の庭を眺める。里の山々には、桜咲き誇り、その山を越したやや中段の、まだ灰色がかった山にも、辛夷の白い花が輝いて見える。庭先の芝桜の紫、それにチューリップの赤、白、が黒土を背景にすっくと立つ。甲斐駒から下りて来ただろう風は、陽の光の中では心地よいが、未だ可憐な花達には一寸可愛そうな気もする程新鮮可憐な花々である。
韮崎市地籍に入り、穴山橋を渡る手前に、川沿いの公園がある。部落から多少の距離があって、人影もまばら。駐車場も広くて、川辺を眺めつつ、松の木々の中の散歩道を歩く小休止には格好の休憩所である。
風次郎は、折々ここで愛犬ナナも解いて遊ばせたり、自身も喉を潤したり往来の一時を寛ぐ。
今日は家内も一緒なので、暖かいお茶が嬉しい。
もう川辺のネコ柳は咲き終わって、黄味をおびた胞子をつけ、膨れ玉になってしまったが、やまぶきが花芽を膨らまし、風に揺れる松の緑にも、春への活気を感ずるのである。
20号線は、韮崎では川沿い一直線である。この一直線はフロント真正面に「富士」を見ながら進む。川も甲府の先で笛吹川と合流して富士川となるが、「富士山」は丁度流れの辿る先に位置し、甲府盆地の先の山々が重なるさらに上に、裾を広げてまだ純白のままである。
春の午後は霞のかかる日が多いので、盆地の先の山々は白がすみのボカシを施したようになり、余計に「富士」は浮いた姿と見えるのである。
ニセアカシアも川端の柳もここまで来ればもう、緑の葉をいっぱいにして、午後の風にそよぎ、富士川の流れの煌きを受けながら、「富士」を見る前景を見事に構成している。
甲府盆地は街の中を走る事になり、風光ドライブは叶わない。
風次郎はその渋滞を避けて中央道へ乗った。勝沼から笹子トンネルを潜り上野原、相模湖と来れば新緑も真っ最中。多摩地方の気候とも近い。只、この一帯は遠景に小高い山々が常に眼に入る為、自然への親しみは十分味わえる。厳しい冬の信州から戻る時など、見た目にさえ「ああ、暖かいんだな、帰ってきたな。」と感ずるのもこの辺からである。
ここ国立は多摩地区であるが、もう東京は花盛りだ、ハナミズキが満開で、桜はもとより、街路樹の銀杏も庭の紅葉も若葉が美しい季節となった。サツキ、ツツジ、花モクレン、クレマチスそれにハナズオウや藤も咲いた。住宅地の道路は花園と化して、朝の散歩を楽しませてくれる。そう言えば先日、関西に住む友人から、淡路島の花博覧会が素晴らしいとの便りをいただいた。
本州から新たに懸かった大橋を渡って見るのも悪くない。行って見たいと思う。春を辿るどころか、四季を辿れるかもしれない。 ( 00.4.25 風次郎)
南天寮の土手にやまぶきの花が見事に咲いて美しい。土手の傾斜に沿って、懸崖にこしらえた菊のような形で見事に咲いた.
連休の頃から、菜園に少々の農作業を始めた。草を取ったり、畝を立てたり、見よう見真似の農作業をして、土に紛れ親しみ、鍬を振ったりして、一生懸命になると、何時の間にか没頭し、一汗も二汗もかく。その汗が、日頃体に溜まった余計な鬱積を、体外に運び出してくれるようで、快い。
やまぶきは農作業用の出入り口、言わば勝手口に面した土手に咲いている。勝手口は丁度建物の東はずれにある。土手はその目と鼻の先、敷地の東側に沿って、一段と高い処にある横小路との間に菜園に向かって伸びている。やまぶきは、庭に出るに、履物を履いたり、脱いだりする時、農具を持ち出したり、入口の水道を使って用具の泥を落したりする時に、手の届くような場所に咲いており、出入りには、花を撫でるように近場を通る事になるが、輪を描くように丸みを帯びて大きく垂れたモールのような枝が、愛惜しいほど爽やかな黄色である。
風次郎の家族が居間に使っている棟は、建物の一番西にあって、カギ型に突出した造りになっているので、その居間からもよく眺められるのである。
居間から見るやまぶきは、濃くなった土手の緑の中に、ぽっかりと光を放っているようにも見える。しかも、となりに立つ松の枝が少々直射日光を遮ることになるため、この黄色はより鮮やかだ。
このごろまで、意識して眺めたことはなかった。
風次郎の子供の頃、その場所にはやまぶきの株はなかった。その場所には山桜の木が立っていた。その桜は農作業が始まる頃になると、この勝手口の軒先に花びらを舞い散らせた。小学校に入学した頃、まだ桜の木の幹の太さは10cmほどであったが、次第に生長し、風次郎が故郷を離れる頃は、20pもある貫禄十分の木になり、花も良く咲いて、誇らしげにも見えた。その後、虫もついたり、枝払い作業も必要になると、老父母にはむしろ煩わしい大木となってしまい、何時しか切られるはめになったようだ。ある帰省の折、その堂々たる桜株の切り口を眺めて、時の流れのあわれさを思ったものである。
切り株は50pもあったが、老木の桜は、往々にしてそうであるように、芯に向かって空洞が生じ、虫が巣食ったように穴があいていた。
あの桜の花を最後に眺めたのは何時であったのかを思い出せない。しかし、この地の桜は、四月の終わりから五月のはじめにかけて咲くので、連休で帰省の時に、花に巡り合うチャンスは多かったのだ。
その桜の木がなくなったのを知ったとき、風次郎は残念に思ったが、その頃は家に帰り住むことを考えていなかったので、何も言わないでいた。見事な大木だったから恐らく、その決断をした老父母は、周りの者がどう感ずるか相当気にしたに違いない。
それ以来時々この土手を見上げる度に、その古木を思い、一抹の寂寥感を持っていたが、昨年から又この古家に帰ってきて、黄色のやまぶきの存在を再認識した時、とても嬉しく思った。やはりこの土手には花が欲しかったのだと思う。
やまぶきは桜と違って大木にはならず、花も葉をつけてからである。しかし花の形が桜に似ている。色こそ黄色だがシンプルで、それに丈夫で美しい。
風次郎は、東京に家を持ったときにも、庭の隅に、この地の山から持っていったやまぶきを植えた。そのやまぶきも東京の桜に続いて咲くようになって、小さな庭の藤棚の紫との対比が良い。
富士見では、梅も桜も殆ど同時に咲くが、やはり,その続きで咲くのがやまぶきである。すみれ、サツキなどの,赤や紫とやはり好対比で調和する。少なくとも風次郎には、シンプルな色調は何処に在ってもバランスを崩さないとの観念があるが、白、黄色、青などは、正にその認識を逸脱しないと思う。
やまぶきは春の冷たい雨に当たっても、花も、枝も崩れないところが良い。むしろ枝葉は元気を増して、花を引き立てる緑は、雨露に光るように思われる。
大田道灌が狩の雨宿りに訪れた家の娘が、やまぶきを詩って蓑の言い訳を表した有名な話の材料になったのも、雨の中で健美に輝く美しき花、故の逸話であろうか。
さらにこの小木は、どちらかと言うと山中の土手のような場所、ひかえめな木陰を好むからなのだろうか。
誰がこの場所に植えたのか、それとも生えてきたのか、風次郎はこの屋敷にやまぶきの根が宿ったことを、嬉しく思った。
畑作業は、今日も好天に恵まれて、心地よい時を過ごす為の、恰好の仕事となった。
手拭を首に巻き、ゴム長姿の自分のサマもまんざらでないと思いつつ、汗の合間の水を使いながら、また、撫でるようにして、やまぶきを眺め、時を費やす。
黄の長いモールのような枝が少し揺れている。
桜の木を庭の西、小広い処に植えた。これは東京の家の庭に生えたものを、持ってきたのである。 (00.5)
夏冬、風次郎は、必ず訪れる。 ここは標高1350m、中央高原原村のペンション地域を上がり切り、八ヶ岳山麓道路から少し入り込んだ、静かな落葉松林のなかにあって清清しい。
この八ヶ岳山麓は、西麓であるが故に夕方、木漏れ陽の注がれる頃が一番風情を感ずる時である。創作者の演出であろうか。
雪の上に影を落す木々は、寂しさとの和みを呼び寄せ,心を静める。
地元の作家でもあり、清水多嘉示には親しみを感じていた。いつしか故郷を離れ、この山麓が開発され始めた頃の夏、ふと帰省の折、この八ヶ岳美術館の存在を知り、その後は、毎年通っている。
静けさだけでなく、ユニークな建物、そして館外にも配置された優しさ溢れる清水の作品は、好きだ。
清水の作品には、静けさの中の温もりを思う女性像に、時に逞しさを感ずる、全般にあまり力強さを感じないのだが、私は自分の,優しさ優先の感じ方と思っている。
「学童・生徒彫刻の森」として、開館の頃の作品であろう、地元の学生達の秀作が、十数点戸外展示されており、自由に観覧出来る。作者であるこの子等はもはや成人して、或いは一流作家として活躍しているのだろうかと思うと、胸がドキドキする。「館内は勿論だが、館外の散策を是非楽しまれるよう」、風次郎は、他人を案内する時は勧めるのである。
鳥のさえずり
季節の山中花
風のわたる音
木漏れ陽
その中にたたずむ清水の作品は、その時々に語りを変えて近寄って来るのである。(00.03)
**八ヶ岳美術館には、清水多嘉示の彫刻をメインに、絵画も展示されている外、津金雀仙の書、諏訪郡原村の遺跡からの出土品も展示されている。 tel 0266−74−2701
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