過ぎゆく夏

 BGM by Kaseda Music Labo

お盆を過ぎたら台風が日本列島に近づいて雨を降らせた。その雨で高原はすっかり猛暑を拭い去られ、涼しさを通り越し、秋半ばを感ずるような日が続いた。

南天寮ではかねがね8月の最終週末に納涼収穫祭(単なるバーベキュー大会だが)をやろうと決めていて、24日の土曜日には風次郎の家族とごく親しい友人が集合してきた。急に涼しくなったし、“午後はぐずつく”と告げる天気予報に気をもんだものの予報ははずれて、総勢14名のガーデンパーティーはにぎやかに楽しく過ごせた。

翌25日は絶好の快晴に恵まれて、当に8月の名残を惜しむ最後の日曜日に相応しい夏日となり、庭の草木も再びさんさんと降る陽光を浴びて、思う存分ゆく夏の輝きに浸るように見えた。

夏の陽は眩しかった。風次郎も外に出て陽を浴びると、昨日までの涼しさの前、連日の強烈な夏の太陽に焼かれた暑さの中で感じたと同じような、痛さをともなうほどの日射しであった。

そして午後の陽の中、子供や孫たちは帰っていった。

笑顔で手を振って車に乗っていく孫たち。彼等にとってこの夏のひとつの思い出になったのだろうかと、静かになった表道路の脇に佇んで見送った。

夏の陽の光は、さらに眩しく射し込んでいた。

寮の庭に引き返しても、風次郎はしばらく人気のない庭の椅子にもたれ、思いに耽っていた。静かになった庭に孫たちの歓声ばかりがこだましているような気がした。
子等が駆けめぐった庭の端に、すすきが真っ直ぐに伸びて高い穂を立て、大きな株になったその根元に、遅咲きの桔梗が小さな紫の花をいくつか咲かせている。
庭にはゆく夏を惜しむ紫や黄色の花がたくさん咲いている。
桔梗は、7月の終わりからお盆にかけてベランダの先につぎつぎに花をつける。暑い夏だった今年は、もうほとんど結実してしまっているのだが
-----ここにも夏の名残を思う。

足早の夏だった。

桔梗は母が大切に育てていた花だった。そしてお盆にはそれを仏壇に供えるのが常だった。

強い光の中、ある夏の日だった。

子供の私はなぜか表道路に立って泣いていた。それもわめくほどに泣いていた。表道路の、白く続く砂利道に出て、ただただ泣いていたのである。
家には誰もいなかったのだ。

たった一人でなぜ泣いていたのだろう。

7〜8歳だっただろうか?小学校にも通っていた。もう赤ん坊泣きする年齢ではなかった。白い砂利道には涙が落ちた。
その涙の痕をたしかめてふと顔を上げると、遠くに母の姿があった。
駅の方から家に続いている道にはいくつかの角があり、その最後の角を曲がってくるところだった。
私は泣いた。
さらに大きな声を張り上げて泣いた。

理由はわからない。
ただ、母は小さめな日傘をさしていたことを覚えている。
そして白っぽい絣の着物を着て、特徴ある足どりで家に帰ってくる姿が次第に大きくなってくるのを見ながら、私は泣いた。

私はただ泣いていた。

絣の着物は小さな桔梗の花柄だったように思う。
そして、夏の陽の光が眩しく母の姿を浮かび上がらせていた。
母が近づいてきて私は泣き止んだのだろうか。
母が近づいてきて私になんと言ったのか、そして私がなにを訴えたのだろうか。
それは覚えていない。
母が日傘をさして、花柄の絣の着物を着ていて、美しく輝いていたことを覚えている。

私は母の出かけるのを止めたのだろうか。

庭の椅子から立ち上がって近所を散歩した。
よく晴れた夏の日はいつもそうであるように、午後の山は頂に白雲を連ねている。
西山の上にかかった雲にも、いよいよ夕暮れの太陽が沈んでいくのだ。
夕陽はどこの家の庭をも美しく照らす。そして、どこの家の庭も今、花で満ちている。

すずらん、つゆ草で始まった初夏の頃、そして山にさつきやつつじ、続いてやまぶきや卯の花の咲くころは、庭のあやめや百合も大輪を見せてくれた。

夏は芙蓉や槿、さるすべりなど庭木の紫で終わるような気がする。
今がそのとき。

槿の花を見て“打ち上げ花火のスターマインのようだね”と言った人がいる。
“そんなら芙蓉は尺玉の花かな”と言った人もいる。
諏訪湖の花火大会も終わり、お盆が過ぎると、こんどは足早に秋がやってくる。
足早であるがゆえに、感情が迫り寂しくなってしまうのかもしれない。
高原の夏は短い。

斜めの陽が、咲き始めた萩の小さな紫を照らしている。
遅咲きの桔梗が隠れるように咲いている。

母は夏のおわりに逝ったのだった。

子供や孫達は帰っていった。

私の子供たちの夏は埼玉や秋田にあった。
私の孫たちの夏は都会にあるのだろう。
私の子供の頃の夏は、この地にあった。                                                (020825風次郎)