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良い天気に恵まれた朝、ホテルの前を発ったバスは、市内の目抜き通りをラッシュ
の他の車と並行して走って行く。と言うか、道路は車よりも圧倒的にバイクの数が多
いからバイクの洪水と競争しているような騒然とした道路風景だ。
先進国の車に匹敵する庶民の足としてバイクは欠かせない生活の道具なのだと聞い
た。
やがてホーチミン市の賑わいを離れ、周囲は田や畑の景色ばかりになった。
所々で背が低い木の繁った中の道を進む。ゴム、椰子等は戦後持ち込まれた樹木と
のことである。古くから木を切って開墾したり、焼き畑農業を主たる生活基盤とした
地域であったのだろう。木の背丈が低いのはベトナム戦争によってその一帯が全て焼
き尽くされて、その焼け野原が甦ってここまで生長したことを現しているのだった。
あちらこちらに水牛が草を食んでいた。見たところとても長閑である。
行程のほぼ中間点あたりには2〜30戸を有するクチの町が、閑散とした雰囲気で広が
っていた。
ホーチミン市からクチの民家集落までは約30Kmを離れた地域、さらに40Km
を行ったサイゴン川に近いジャングルの中に「クチトンネル遺跡」があった。
ホーチミン市が文化歴史事業として総体的に広大な地域の博物館化を進めており、
私たちが見学したベンジュオック博物館だけでも70000uを有する中にゲート、
石碑館(戦死者名等の碑)、9階建てのビルディングが完成していた。
地下トンネルはベンジュオックの他にベンディンの地区も公開されているとの事で
ある。
ベンジュオックの駐車場から長い行列に従って入場口を入ると、やや広めの(人が
5人並んで歩ける)50mほどのトンネルを抜けた。これも軍事施設だったようであ
る。その先に休憩所とビデオ解説の建物があった。英語館と別になんと日本語館があ
ったので、私は日本人の関心の高さを知ったように思った。
そこからは全てがいわゆる民族統一戦線『ベトコン』=反共勢力による呼称=(
1960年12月米勢力と南ベトナムのゴディンディエム政権打倒に向けて結成され
た、その後北ベトナム政府軍とともに1975年4月、南ベトナムの解放を成し遂げ
た。)のサイゴンジャーディーン司令部だったのである。
アメリカ軍はこの地下トンネル網によって構成された基地の存在を知ったが、その
複雑性を具体的に掌握できず、大量の枯葉剤投下と空爆を施したが結局敗退を余儀な
くされたのである。
素朴ながらも激しい戦闘を、強い結束力で耐えて挑んだ民族側に勝利の旗があがっ
たのであった。
その跡形である、落とし穴、ベトコン参加市民の兵器改造風景(人物模型)アメリ
カ軍が落とした爆弾、それをベトコン兵器と改造した爆弾、生々しい実像がジャング
ルを巡る見学ルートの所々に展示されている。機動的に動く為の塹壕はトンネルのル
ートと微妙に方向を変えられ、3m、6m、8mの3層に構成されたトンネル内は窪
みがあり、所々曲がるなど、細い川砂土質で狭いところは這って泥まみれにならねば
ならない。そしてこれらは、万一侵入した敵を成敗できる完璧な対応が施されている
故のことがよく解った。
又、トンネルルートは蟻塚を偽装した通気口によって守られ、作戦会議室から台所
に及ぶ指令部施設の機能を備えた部屋を繋いでいる。総距離約250kmに及ぶとの
事である。
悲しいかな、半ば観光的な域を出ない短時間の見学では、トンネルは一部が体験入
坑を許されるのみであったが、正に素朴な戦いの実感を呼び覚ます現地の様子に凄ま
じいものを感じた次第である。私は夢中になってトンネル内をさまよっていた為、仲
間のグループにはぐれ、迂闊にもメンバーの顰蹙を買ってしまった。
それにしてもベトナム戦争は単純に語れぬ統一国家設立に向けての過程であった。
大きな禍根を残した根本には、19世紀に世界に蔓延した東西冷戦が具体的に衝突し
た東西陣営の傀儡戦争という背景があったのである。
結果的にベトコンによる持久戦が、物量と覇権を振りかざす米軍に勝利したことが
、大きな布石となって現在の統一国家「ベトナム社会主義共和国」のスタートに至っ
たのであるが、辿る経過には民族に関与する関係国の罪は計り知れないと思う。
風次郎
落とし穴の復元展示(落ちたら無数の槍に見舞われる)
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