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暗い。午前5時を回ったばかりであった。
鳳凰木の影がホテルの前から、先の大きなロータリーに続いている。早朝の自由時
間(習慣的に早起きをして専ら自分の為にだけ使う時間)を海外で過ごすときは、ま
るで探検のようにホテルからの探索散歩である。
市民の集まる公園に行ったり、夜を徹して発散し切った人々の熱気にうな垂れている
ような街角の表情に眼を凝らしたりする事が多いが、その町に駅があれば、私は駅に
行く。
早朝の駅では、日に一番先のその地の民族の出入りを眺められ、旅に出て行く家族
や普段着姿の現地商人たちに紛れて行く遠来の旅人にも会うことが出来る。開店した
ばかりのコンコースの売店には、新聞が積み上げられ、処によっては数カ国の言葉文
字が、行き交う人にアピールしているような場面もある。
この朝、今日の勤務に向かう人たちが、無造作に置かれたスタンドテーブルにコーヒ
ー(ベトナムは急速に生産量を伸ばし今や世界一、厳しい香りで美味い)を持ち寄り同
じく店頭で求めたパンを立ったままでほおばりながら声を交し合う人の姿など、正に現
地民族そのものだと思う。少しでも解る言葉にありつければ尚更のこと、通じ難くても
空港などとは違う、駅は互いの生命を感じあえる庶民の場所だと言えるのではないか。
少し距離があるが、どうにか朝食までに帰れそうな場所に「サイゴン駅」があること
は地図で確かめてあった。
ホテルの前の大きなロータリーをぐるっと廻って「8月革命通り」を西へ向かった。
右は昨夕訪ねた統一会堂のある文化公園である。公園の垣に沿って進み、グエン
ティミンカイ通りを横切ると低層階の街並みがあり、タクシー会社の前には、日本の
プリウスに似た形の車が30台ぐらい並んでいた。始業前運転手が集まって来て配置
に付く時間のようだった。近寄ってみると車は韓国製(Hunday)だった。車もバイク
も日本製は高級品(値段も高い)でなかなか手がでないということは聞いていた。
白んできた空に向かってビル建築のクレーンが幾つも見えてきた。広い土地を囲っ
て地中を掘り下げている。建設現場の多さは、活発な復興の印し、発展の象徴と言う
に違いなかろう。
もう一本大通りディエンビエンフー通りを越すと2月3日通りとの分岐となるロー
タリーがあって、駅前の密集商業地へ通じていた。
6時前であったが、密集地を抜けた小さな駅前広場に面した屋台風の店のベンチで
は、幾つもの集団が朝食をとっている風だった。今日が始まる一つの典型的風景であ
る。
食事は言葉を交わしながら、が人間の憩う習慣だと思う。だから一人より複数が良
い。誰と無く近づいて、会話はそれとなく周囲に響き、それぞれの雰囲気を伝えてい
るようだ。
通りすがりに眼が合った一人は何かを語ったが、言葉は全く分からなかった。英語
で朝の挨拶をしたが、お互いに言葉が通じないことを確認したに過ぎず、私は立ち止
まって肩を叩き、「良い一日を」と告げ雑踏を抜けた。そして駅前広場の大きなスペー
スを占めて飾ってある機関車に近寄って立ち止まった。
芝で固められた盛り土の上に展示されているのはC型の蒸気機関車でとても古いも
ののようだったが、解説板は読めず詳しくは解らない。しかしこの車両が多くの人々の
夢を運んで北のハノイとの間を懸命に走ってきた歴史があったのは紛れのないことだ
と思う。
長い歴史を運んだあとに今がある。平和が来て国家がやっと統一され、外の人は帰
って行き自分たちの国がある。人々は貧しくも満足に暮らしを楽しんでいるのに違い
ない。
サイゴン・ハノイ間は今、統一鉄道で30時間の距離。メコンデルタからホンデルタ
へ南シナ海の海岸線をひた走っている。
もしこの鉄道に乗ってハノイを目指したなら、幾つの悲しみの街を通らなければい
けないのだろうか?もしその旅が私のように、他所から来た始めての人にとっての旅
であれば、悲しみの涙と今の平和を思う感涙で、車窓を並行して走る穏やかで美しい
その南シナ海の風景は霞んでしまうことであろう。せめて最後の無駄だった「ベトナ
ム戦争」など文明国がしなければ良かったものを。
駅舎は次の列車の出発まで間がある時間帯のようで、また朝の到着列車の時間も
過ぎていて人数は少なかった。日本と同じように切符を持たずにホームには行けない
ようだった。
大きな待合室のベンチはがらがらで売店の近くに10人程の旅行客の姿があった。
開札のホールには入線している次の列車にこれから乗る人たちが、荷物を整える
など三々五々固まっているようだった。
待合室の2階にホームを見渡すことが出来る廊下があったので、私はしばらく佇ん
でホーチミンの朝の駅の空気を吸って過ごした。
出発を待つ列車と乗って行くためにホームを歩く人影が時折見えていた。
風次郎
サイゴン駅改札口
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