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ヴェトナム航空の客室内では、ふと気がつくたびに若い男性歌手の歌う哀愁の漂う
曲が流れていた。
アテンダンスに丁寧に頭を下げられて機を離れるとき、「この曲は?」と訪ねると
「今ヴェトナムではとても流行っているし、他の国でも人気が高まっている」とのこ
とだった。歌詩は現地語なので意味はわからないのだが、静かなやさしい愛の曲らし
く、女性のアテンダンスが「BI-EN CAN "The
sea runs out of water"」と
書いたメモをくれた。ホーチミン市のボンコイ通りでも聞こえていたが、帰ってきて
からユーチューブでも聞くことが出来た。
ベトナムもカンボジアも、鬱陶しいほどガサガサと途上国が経済発展を貪る雰囲気
ばかりが旺盛だっただけに、エキゾチックな流行歌に違和感を覚えた。が、トルコの
イスタンブールを歩いたときも流行の曲を聴いて同じようなフィーリングを味わった
と思い返した。――これは若者たちが訴えるインターナショナル、愛のグローバリゼ
ーションなのであろうか――。メモをくれた民族衣装「アオザイ」の良く似合う、若い
アテンダンスの笑顔を思い出す。
ホーチミン市は元の名は「サイゴン」、と言えばすぐに世界を駆け巡ってヒットし
たミュージカル「ミス・サイゴン」を思い出す。ベトナム戦争末期のサイゴンの売
春バーで働くベトナム人少女とアメリカ大使館で軍属運転手との悲恋が描かれた切な
い物語である。
ベトナムには「ベトナム戦争」があった。
私はJFK(米国ケネディー大統領)の信奉者である。彼の生い立ちから悲劇の結末
まで、ワシントンやボストンにも出かけ、いろいろ資料集めまでしたほどのファンを自
認している。アメリカが世界の覇者である現実から眼をそらすわけにはいかない前提
で、彼の功績は絶対に賞賛されるべきであると思う。
にしても、未だに何故彼がベトナム戦争に当初の決断を下したのかは理解すること
が出来ない。
戦争に理論に則ったものが在ろう筈も無いが、アメリカの驕りを若い大統領が勢い
余って実践してしまった禍根と言わざるを得ない。国内では公民権を認める運動の旗
を振りながら、他方アジアの地ベトナムでは、多くのアメリカ兵ばかりか、いたいけ
な子供の命や、ささやかに営む家庭の平和を守ろうとする大勢の現地人を痛めつけ命
を奪った戦争を指揮したのであった。結果からしても、無くてよかった不幸であった
のである。
○
そもそもベトナムの先史文化は、北部タインホア省のド山で発見された30万年以
上も前の石器に痕跡を見つけることが出来るとのことである。と言うことは現生人類
の祖先ホモサンピエンスも由来する地であり、数多くの遺跡が発見されている。
その後年代が下るに連れ各地に文化が起こった。
やがて支配される国として中国史(秦)に登場するようになり、北部ホン川のデル
タ地帯はクメール族等他民族との交流も加わる南方交易の重要地域と化していく。
一方南部メコン川デルタ地域は扶南、クメール、チャンバとそれぞれの族に入れ替
わった。
907年唐が滅んだことによって、呉権(ゴーケン)による独立の戦いが起こり、
938年中国支配から独立が成った。しかし黎桓(レホアン)がチャンバを破り、や
がてベトナムを統一する。以後李朝、陳朝の後、動乱の時代へと続く。
そして阮映によるフエ入城によって阮朝のフランス志願兵、並びに宣教師の助力受
け入れがフランス進出を許すことになった。
以下仏領インドシナ時代が始まって近代の混乱期を歩むが、不平等関税制度による
生活破壊から立ち上がるため、日本軍の「大東亜共栄圏」構想の取入れなどへと進ん
だこともあった。
しかし、第二次大戦終結(1945.8.19日本の無条件降伏)によって、フラ
ンスの再侵略、南北分断国家となり、ジュネーブ協定の存在があったにもかかわらず、
アメリカの南部への弾圧介入から北部ホーチミンの南部進出、いわゆる「ベトナム
戦争」へと発展していくことになる。
ベトナムは若い国のようだが、実は長い古い歴史の積み上げを持っているアジアの
同胞である。その近代史はインドシナ半島諸国と同じように、占領下民族の歴史でも
あった。
○
空港からホテルへ向かい、部屋に荷物を納めて再び街に出る。短い1泊2日の日程
でこの街の何を感じ取ることが出来ようか?せめて近い過去の戦争を体験した人々が
ヴァイタリティーに満ちて経済復興に勤しむ姿を見ていこうと思っていた。そして戦
争に残した民族の根城、「クチのトンネル」は一体何たる様相かに大きな興味を持っ
て臨んだのであった。
ホテルのロビーに集合して薄暮の街に出る。ホテルの前は道路を挟んで公園になっ
ていた。陽の落ち加減の公園は寛ぐ人々というより道路から道路を渡る中心街の通行
人がショートカットで行き交う場所のようにな感じだ。樹木は椰子の木のほかは殆ど
が街路樹としても並んでいる鳳凰木であった。ホテルを出るときにガイドに「鳳凰木
」を教えてもらい日本にもアカシアと間違うほどたくさん見る木のように思ったので
質問してみたが、日本のものが鳳凰木かどうかはわからない。ただ街のあたりに緋紅
色の花が咲き乱れて私にとってベトナムの印象の一つになった。
鳳凰木は原産はマダガスカル島。熱帯地方の木だから日本でも沖縄に多い。樹高は
10〜15m。樹形は樹冠が傘状に広がり、葉は細かい羽状複葉。直径10cmほどの
5弁で緋紅色の蝶形な花が、総状花序につくとのこと。緋紅色は南国の美の象徴のよ
うに思う。
バスを統一会堂(旧大統領官邸)の前で降りた。ベトナム戦争の末期、1975年
4月30日人民解放軍が正面から戦車で鉄柵を突破して入城し占拠したという、いわ
く因縁つきの名所である。ゲートを入った右の林の中に、突入した戦車そのものが展
示されていた。
旧大統領官邸、これこそ米国傀儡政権(ゴジンジエム大統領)の象徴であったが、
今当時のまま公開されている。外からは見渡す程の白い横長の建物で、何事もなかっ
たように平和を語っているような、清楚に映った。
ワンブロックを隔てたすぐ近くに19世紀の終わりフランスの統治時代に建てられ
た当時を偲ばせる一角があった。目立つのは赤レンガ造りで、二つの尖塔を持つサイ
ゴン大教会(聖母マリア教会)、そして中央郵便局は、建築文化財として大切にされ、
今も郵便局そのものの営業中に観光客が案内されている。アーチ型デザインに大時
計が飾られたの正面玄関を入るとこれまた内部天井もクラシックなアーチ状になって
おり、窓口が奥に延びて並んでいる。窓口に向かうホールの天井に、大きなベトナム
国花「はすの花」のレリーフが端正に飾られ、ホールの右側に1892年のサイゴン
とその付近の地図、左側には1936年の南ベトナムとカンボジアの電信網が描かれ
ていたので、写真に収めてきた。
これらはいずれもこの国の近世占領下を物語る遺産である。
夕暮れの街にあかりが灯り、ネオンが輝き始めると繁華街は一段と活気を呼び覚ま
す。何処の国の夜の賑わいも旅人にエキゾティックな夢を掻き立てる不思議な時間帯
だ。日本から到着した私たちには暖かな気候の漂いが、夜のイメージでさらに柔らか
に気分をほぐしてくれる。
国際的なみやげ物店の連なるドンコイ通りを歩いて行く。
ディナークルーズの出る港までは約1km、その中ほどには、大きなドームつきの
バルコニーの下に正面玄関が設けられた市民劇場が、白亜の建物をブルーで浮かび上
がらせる照明で、通りからの眺めは幻想的であった。付近にはインターコンチネンタ
ルなど世界の一流ホテルがこれも華やかな照明を浴びており、こんなに利用者がある
のか、との驚異が走った。私の第一印象は、市民生活の貧しさだったから――。
ガイドの勧めで入った小さな土産品店で、はなは孫たちへの土産に民族人形を買っ
た。私も友人たちにこの地の銘木で造られた靴べらを買った。そして黒く塗られた板に
卵の殻で描く手法だという珍しい風景画の飾りを自分たちの記念品として買った。素朴
な土産品に出会って良かった。
通貨は全て米$、日本円も流通しているようだが、自国の「ドン」はむしろ好まれ
ていないようである。しかも物の値段はほぼ我々認識の半分で安い。店内に椰子の葉
で作られた日傘、銘木で造られた魚の飾り物、女性の民族衣装「アオザイ」など、手
にして物色を楽しむ旅行仲間たちの様子を眺めるのも良い風情であった。
私たちは1日の旅程を終えてサイゴン川の岸に待つ船に乗り込み、民族音楽に誘わ
れて岸を離れるクルーザーに揺られつつベトナム料理を楽しむひと時を得た。
ナイトクルーズの桟橋と船内の民族音楽団
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