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風次郎の世界旅
 西欧の春の旅
(10)

music by TAM Music Factory

                
        昼食をとったキンデルダイクのレストラン               風車群落     

     10.オランダ(1)キンデルダイクからデルフトへ     

                               11.デン・ハーグ
 
 デン・ハーグは、北海沿岸に位置するオランダ南ホラント州の州都、国会議事堂のほか
に、王室の宮殿、中央官庁、各国の大使館などが置かれ、ほぼすべての首都機能を持って
いる政治の中心都市、事実上はオランダの首都である。また、アムステルダムとロッテル
ダムに次ぐオランダ第3の都市でもある。国連の常設機関である国際司法裁判所や国連が
特別に設置した旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、国連から独立した国際刑事裁判所等の重
要な国際機関が複数置かれ、『平和と司法の街』とも呼ばれている。
 
 八十年戦争では城壁がなかったためにスペイン軍に容易に占領を許したが、1588年
にはネーデルラント連邦共和国の政府が置かれた。1608年よりこの地で八十年戦争の
和平交渉が行われ、翌年にアントウェルペンで休戦条約が成立。ナポレオン戦争後、ネー
デルラント連合王国が誕生すると、その首都はブリュッセルとハーグの2年ごとの持ち回
りとなったが、政府は常にハーグに置かれた。
 1830年、ベルギーが独立したことによってオランダの首都はアムステルダムとなっ
たが、政府はハーグに置かれたままであった。
 今、ハーグには150もの国際機関が存在するが、平和・司法の国際都市となった基礎
は1899年と1907年に開かれた万国平和会議である。この結果、世界初の国際紛争
処理機関として常設仲裁裁判所が出来、米富豪アンドリュー・カーネギーの資金供によっ
て平和宮が建設されたのである。
 国際連盟が出来るとハーグに常設国際司法裁判所が置かれ、第2次大戦後は「国際司法
裁判所」となった。

 デルフトとハーグは隣町である。街続きと言ってよい。
 既に陽は傾いており、私たちが「国際司法裁判所」のおかれる平和宮の着いた時は午後
4時を回っていた。残念なことに曜日の関係で4時に閉館とのことであり入館が出来ず、
外観を眺めただけだった。建物の内部装飾品はすべて世界各国が寄贈したものとのことで
あるが、入り口の道路側にも世界各国の石を集めたモチーフがあったり、カラフルなモダ
ン装飾のベンチがあって楽しませてくれた。

 デン・ハーグの北海に面した郊外に、行楽地であるスヘフェニンゲンがある。元は漁村
だったが今はオランダで1、2を競う海の観光地になった。そして、市街地中心部からそ
の海岸に向かう一帯は広大な「スヘフェニンヘン森林公園」である。私たちは平和宮の近
くにあった日本大使館を眺めながら進み、公園に沿って建っている市立美術館、オランダ
国際会議場の間にあるベルエアホテルに入った。ホテルの窓からは森林公園の緑が延々と
彼方まで続いて見えていた。

 この日の夕食はそれぞれに街に出て散策しながら自由にとる事になっていた。
ホテルの前は森林公園、右手に見える市立美術館との間にトラムの停留所があったので
仲良くなった仲間と駅の近くまでトラムを使ってみることにした。地図を持ち下車する停
留所名を書いたメモを見ながら、トラムの窓からハーグの街を眺めていると、建物は殆ど
が2〜3階で彫刻のような装飾を施した美しい街並みであった。それに加えて森林公園が
いつ終わったかも分からないほどあたりは森や林の見える風景ばかりである。
 停留所を降りたところは三差路になった広場と言った感じで、そこにも公園が見え、そ
の一方の通りにレストランが並んでいた。
 人だかりがしてくる6時を過ぎた薄明かりの通りは、既に街灯と、店舗の窓明かりが客
を招いているようだった。店の前は所狭しと置かれた駐車の列だった。
 私たちは「LEUK」とネオン看板が掛けられた店に入った。間口の見栄からすると中
は10ぐらいしかテーブルの無い狭い店で、混雑していた。
 私たち4人が入った時に丁度席を立ったグループがあってラッキーだった。感じのいい
婦人がオランダ料理のお勧めは数少ないが、と「ズールコール」を勧めてくれた。キャベ
ツを千切りにして塩を振って醗酵させ酸味を出した上にソーセージを載せたもので、東洋
人に好まれると英語で対応してくれた。何と、シェフは中国人で彼女は夫人であるとのこ
と、そしてもう一人のウェイトレスは姉妹だと言う。そして「東洋人ともだちよ!」と、
時々私たちに話しかけたり、旦那もつれてきて紹介するなど盛り上がった。魚はタラをハ
ーブ風味で焼いてもらって食べた。
 楽しいハーグの夕食会が出来て良かった。

 翌朝、私はホテルから森林公園に沿った道を再び市街に向かい、日本大使館や世界最大
のパノラマ風景画「漁村スフェニンヘン」のあるメスダウ美術館の前を通って1813年
広場まで行った。広場には記念碑が建っていたがオランダ語が読めなかった。当時はナポ
レオン戦争の末期、1815年のウィーン会議でネーデルランド王国が設立される直前だ
けに、市民の意思結集がなされた銘記すべき地なのかもしれない。

 現代、万国平和会議のもたれたハーグの街は落ち着いた静かな佇まいばかりである。
 街路はどこも並木が植えられ散策に趣を添えている。イイブという落葉樹だと聞いた。
 ここでも、人類が争いを繰り返し、それによってつくられた長い長い苦難や忍従に耐え
た民族の平和が、知恵をもって生きようすることの大切さを、そのことが齎す落ち着きや
静けさを知らねばならないとの思いを噛締めさせているのであろうか。


 
                               オランダは、ヨーロッパ北西部の国、東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に
                              面している。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。カリブ海にも海外特別
                              自治体としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)を有する王国であ
                              る。
                               公式の英語表記は Netherlands (ネーデルランド=低地地方)。日本語ではオランダを用いる
                              が、これはホラント州(スペインの支配に対して起こした八十年戦争で重要な役割を果たした)
                              のポルトガル語訳である Holanda が、ポルトガル人宣教師によって戦国時代の日本にもたらされ
                              たことに由来しているらしい。
                               ヨーロッパの交通、交易の要所。リベラルな政策、気風で人口密度が高い。堤防により囲まれた
                              低地だが、天然ガス産出量を誇る資源産出国であり、エネルギーのロイヤル・ダッチ・シェルばか
                              りかビールのハイネケン、家電のフィリップス等有名企業がある。また、チーズ、チューリップも
                              特産。風車も有名で文化面ではゴッホやフェルメールなど優れた画家を輩出した。
                              なおベネルクス3国として欧州共同体の創設メンバーとなり、欧州連合に発展させている。

                               元来、現在のベネルクス地方は神聖ローマ帝国領土だった頃より毛織物産業や海上貿易により栄
                              えていた地域である。
                               15世紀末からハプスブルク家のスペイン領土として植民地化されたものの、宗主国スペインに
                              よる重税政策に対する反発とともに、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルランド北部地
                              方では利潤追求を求めるプロテスタント(カルヴァン派)が多数を占めていたため、カトリックを
                              強制するスペインとの間で1568年にオランダ独立戦争(八十年戦争)が勃発した。戦争は長期
                              化し、カトリック教徒の多かった南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)は、独立戦争か
                              ら脱落したが、結果1648年のウェストファリア条約で独立を承認されたのであった。

                               ネーデルラント連邦共和国は17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪
                              い、海上帝国を築いて、黄金時代に至る。が、しかし、3度にわたる英蘭戦争で大きな打撃を受け、
                              18世紀末にフランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立、間もなくナポ
                              レオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に変えられ、フランスの直轄領として併合
                              されたのである。

                               後、ウィーン会議で、これまでオーストリア領であった南ネーデルラント(現在のベルギー、ル
                              クセンブルク)を含むネーデルラント王国が成立したのが現在のオランダ王国の起源となる。
                               この間、ベルギーの独立戦争に対し、1839年にはオランダはベルギーの独立を承認した。

                               ナポレオン戦争後、海上覇権は地に落ちたものの、残されたインドネシア、(オランダ領東イン
                              ド)の領域支配を進め、過酷に支配を行っている。
                              第一次世界大戦では中立を維持した。第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずドイツに本国
                              を占領され、王家はイギリスに亡命、その後1941年に中立を破棄し南方作戦を展開する日本に
                              宣戦布告するが、東インド植民地は日本軍に占領される。
                               オランダ本土については、1944年月9月に連合国軍がマーケット・ガーデン作戦を実施して
                              アイントホーフェンおよびその周辺地域を解放するが、アムステルダム等多くの地域の解放は、1
                              945年春にドイツが降伏してからであった。

                                                            ○

                               バスはベルギー、オランダ国境沿いの道路をアントワープ迄行き、そこからは幹線のハイウェイを
                              北上した。走行距離約180km、国境を越えた最初のオランダの都市はBREDAであったが街を遠景
                              で眺めたにすぎなかった。
                               しかし、間もなくラインの河口近い水辺の多い風景に変わった。私たちは河口の大都市ロッテルダ
                              ムの南東訳16キロの地にあるオランダの南ホラント州ニーウ・レッケルラント基礎自治体内の地区
                              キンデルダイクを目指していた。
                               そこはレク川とノールト川に挟まれた地区で、風車網は1997年に「キンデルダイク=エルスハ
                              ウトの風車網」としてユネスコの世界遺産に登録されている。

                               今回の旅は4月の21日に華々しく行われる「花パレード」を観ることが何よりの狙いであるが、
                              オランダは子供の頃から「風車の国」と教えられ、荒涼とした中にその役割を凌駕して、時を急がず
                              大きな羽根が回転している何ともおっとりした風景こそオランダであった。心休まるものを感ずるモ
                              チーフであり、それに彼の国を支えた風車への造詣は頭から去るものでない。
                               私たちのスケジュールにはその風景を楽しみながら昼食をとるという趣向が入れられていた。
                               ハイウェイを離れて川沿いの土手を上を少し走ると風車村の風景が見えてきた。
                               風車群落の反対側の川岸には河口から入ってきたのであろう大きな観光船が停泊していた。ここに
                              は鉄道が来ていない。

                               暖かいワーテルゾーイ(クリームシュチュー)をすすりながら眺めるレストランの窓には幾つもの
                              風車が彼方まで続いていた。
                               昼食後、私たちは水辺に降りて水車小屋に歩き、眺めた風景の中に入っていった。

                               ここはアルブラセルワールト干拓地の排水を行うために、1740年代に19台の風車が建設され
                              たのであり、この風車網は、オランダ国内で最大規模のものである。また、今はオランダの観光地の
                              中で最もよく知られた場所のひとつになった。
                               国土の4分の1程が海面よりも低いオランダにおいて、排水システムは最も重要な問題であったか
                              ら、アルブラセルワールト地方では、13世紀から排水の問題が発生していた。
                               オランダ人は、干拓地に過度の水が入らないように大規模な運河を掘ってきた。それ故これらの運
                              河のことをオランダ語で、"watergang"と呼ぶのだそうだ。しかし運河は地盤沈下とともに、川の水面
                              が再上昇し、ポルダー内の水面を維持するための新たな方法が求められたのである。
                               そこに登場したのが「風車」であった。オランダ人は風車網を建設し、水面がある一定の高さに到
                              達した際に風車のポンプを利用することで水面の維持を図ったのであった。ポンプによって川に排水
                              された水は再利用が可能となるなど画期的ではあったが、人間の力では水面を完全にコントロールす
                              ることは不可能であり、オランダは過去に深刻な洪水の被害を何度も受けている。
 
                               「国土の1/4 もが海面よりも低い」、これに耐えて国を建設し、しかも商業は海路を経て世界を席
                              巻したこの国の民のエネルギーは何処に潜んでいるのだろうか。今でさえ並び居る国の中では安定を
                              保っている側にある。自然からもたらされる困難をも乗り越えて繁栄を保つ民力の源泉には憧憬の念
                              さえ抱かざるを得ない。
                               長閑な春の水車が廻っている風景を眺めつつ、人の力の逞しさを、また思い新たにしつつ、ライン
                              の水原地帯をバスは進んでいった。

                               「風車」を観てオランダに来た感を改めて意識した。
                               ライン川と2本の支流マース川とスヘルト川が北海へ注ぐデルタ地帯の街ロッテルダムを通過して
                              私たちはデルフトへ向かう。

                  デルフト
 
                               1572年には、八十年戦争(1568〜1648)の主導者であったオラニエ公ウィレム1世が
                              デルフトに居を構えて以来、オランダ独立の歴史が紐解かれた由緒ある街である。
                               私たちは市庁舎の近くにバスを止めて、マルクト広場に繰り広げられていた市民マーケットを見て
                              歩いた。マーケットには地域の農産物を始め日用品雑貨などが所狭しと並んでいたが、運河沿いに続
                              く旧教会方面の道路いっぱいにまでも花屋が並んで午後の光の中で楽しげな買い物風景であった。
                               市庁舎は17世紀のはじめ消失した旧い庁舎を再建したものであるが、くすんだ古めかしい3階建
                              ての上に14世紀に最初造られたときのままとの四角い塔が立っていた。それだけが焼け残ったと言
                              われる。
                               マルクト広場をはさんで対面の新教会に、ウィレム1世はじめ、子孫である現オランダ王室の代々
                              のメンバーが眠っている。新教会は200m程はなれた画家フェルメールなどが眠る旧教会に引き続
                              き1381年に完成したゴチックで、ロッテルダムまで一望できる108.75mの鐘楼は美しいカ
                              リヨンの音を響かせるとのことであった。しかし、なにせ379段の階段を登ることにはチャレンジ
                              出来なかった。
                               旧教会の隣には、フェルメールの傑作「デルフトの眺望」のモチーフにもなった独立戦争の記念館
                              「プリンセンホフ」の姿が運河に美しく写し出されていた。オランダ建国の祖、ウィレム1世(沈黙
                              王)はここに住み、ここで1584年刺客の手に倒れたのであった。
                               デルフトでは、何故か1654年10月12日には、弾薬庫の40トン以上もあった火薬が爆発し
                              デルフト市街の4分の1が破壊されて、死者100人以上、数千人が負傷するといった奇妙な大惨事
                              が起こっている。独立への道のりはいずれも陰惨な経路が残るものなのか――。
                               ただ、迫真的な写実描写で美しい風景や、美しい女性の画を遺したフェルメールはここで生まれ、
                               ここで活躍したのである。今年は彼の作品が幾つも日本にやってくる。

                               私たちはもうひとつのオランダ文化の名品デルフト焼きの工房を見学した。国が関与して、技術系
                              高等学校を併設したと言う総ガラス張りのモダンな建物はPRへの力瘤であろうか。デルフトブルー
                              と呼ばれる独特の綺麗な焼き物のデモンストレーションであった。
                               これは16世紀はじめにイタリアからマヨリカ陶器の製法が伝わり、それに17世紀、オランダ東
                               インド会社を通じて中国から磁器の製法が伝わって加わったこと、また、当時日本から輸入されてい
                              た伊万里焼の影響をも受けつつ独特の陶器が発展、生産が行われたのだという。
                               生産規模自体は昨今縮小したものの今日もデルフト焼としてその技法は日本でも知られている。

                               マーケットで賑わうマルクと広場で 、「国際法の父」と称されるフーゴー・グローティウスの銅
                              像を見上げてからバスに乗った。ハーグへ向かうのである。


        
デルフト マルクト広場の新教会                国立デルフト焼き工房の展示品

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