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風次郎の世界旅
 西欧の春の旅
(6)

music by TAM Music Factory

              
                フルン広場のルーベンス像(後背はノートルダム大寺院の塔)     

     6.アントワープ      

                                朝のブリュッセルを発ってアントワープへ向かう。
                               北駅前のワールドトレードセンターの間から美しいグリーンベルトのある通りをラーケン
                              王宮の方へ向かい、アムステルダムからこちらへやって来た高速道路へ乗った。この日の行
                              程はアントワープとゲントの街を訪ね水の都ブルージュまでのベルギー西部横断である。

                               市街地を出ると車窓には郊外の緑の多い住宅地が続き気持ち良かった。メヘレンを経由約
                              50キロ40分の道のりを走って私たちのバスはアントワープの街へ入っていった。
                               日本語のカタカナ表記では、英語名に由来するアントワープが良く用いられるが、オラン
                              ダ語では「アントウェルペン」という。フランデレン地域アントウェルペン州の州都で、ベ
                              ルギー第2の都市。スヘルデ川の右岸の港街。スヘルデ川はオランダ南西部ゼーラント州の
                              西部スヘルデ河口域の先は北海である。
                               言い伝えによれば、街の名称はスヘルデ川沿いに住む神話上の巨人アンティゴヌスと英雄
                              ブラボーの伝説に由来しているとのことだ。アンティゴヌスはスヘルデ川を渡ろうとする者
                              に通行料を要求し、それに応じなかった者の片手を切り落として河へ放り捨てたとされる。
                               しかし、若き英雄ブラボーがついにアンティゴヌスを退治し、その手を切り落として川へ投
                              げた。このことが、「Antwerpen」(オランダ語で「手を投げる」の意)という名称の由来
                              である。
                               港湾区から街寄り、スヘルデ河畔に設けられた観光客用の広い駐車場は豪華な観光船が停
                              泊している岸壁の隣にあった。歩いても近い場所、市庁舎前の広場に行くと「ブラボーの噴
                              水」に、この伝説に因んだブラボーの像が建てられていた。

                               歴史上、アントウェルペンの街はガロ・ローマ文明の集落にその起源があると考えられて
                              いる。
                               スヘルデ川付近の最古の集落がある地域では1952年から1961年にかけて発掘が行
                              われ、2世紀半ばから3世紀末の陶器や杯の破片が出土されている。その後、ゲルマン人の
                              フランク族が進出し、以来この街にはベルギーのルーツというべき歴史が流れる。
                               神聖ローマ帝国の時代からイングランド産毛織物がアントウェルペンに流入して街は栄え
                              たが、その毛織物をライン川沿いのケルン商人が購入し、南ドイツなどへ供給するようにな
                              っていった。そして15世紀半ばには、ニュルンベルクやアウクスブルクなどの南ドイツ商
                              人が、直接にアントウェルペンまで取引に訪れるようになっていく。これはドイツ経由で香
                              料がこちらに供給される事に繋がり、さらに商況は活性を増して近世アントウェルペン繁栄
                              の前提となったのであった。
                               これに加えて、中世後期におけるネーデルラント経済の中心であったブルージュ(オラン
                              ダ語「ブルッヘ」)が土砂の堆積によって衰退したことに伴い、代わってアントウェルペン
                              (当時はブラバント公国の支配下)が重要性を増すことになったのである。
                               この街の黄金時代は、「大交易時代」と密接に関連し、16世紀前半より成長を続け15
                              60年にはアルプス以北における最大規模の都市となっていく。
                               しかし、市政こそ地元の土地貴族らによる寡頭政がとられていたものの、彼らは原則上実
                              業に従事することを禁じられていたため、アントウェルペン経済は、ヴェネツィアやラグー
                              ザ(ドゥブロヴニク)、スペイン、ポルトガルなど各地からやって来た商人たちの手で支え
                              られていたのであった。
                               このことが都市内の多様性・コスモポリタン的性格を形成していく下地になった。多様性
                              は宗教的にも寛容であって、ユダヤ教正統派の大規模なコミュニティも形成されたほか、イ
                              ベリア半島を追われた「マラーノ(マラノス)」の亡命先や、プロテスタントの拠点ともな
                              り得たのである。
                               そして他方、コスモポリタン的性格の裏面として、海賊版の出版拠点となっていたことも
                              事実である。

                               しかし、スペイン王フェリペ2世の時代に至り、宗教的にはカトリックの強制を図るなど、
                              ネーデルランドの統制強化が行われるに及び、各地で集権化に反発する貴族やプロテスタン
                              トの反目が生ずることとなる。
                               その抵抗の収束に際しては、プロテスタントの市民はそのほとんどがネーデルラント連邦
                              共和国(オランダ)へと移住したといわれる。そしてこれがオランダが黄金時代を築いてい
                              く前提となったのであった。アントウェルペンに代わってオランダのアムステルダムが世界
                              商業・金融の中心地へと変わっていったのである。

                               一方で、その後のアントウェルペンにおける殊に銀行業務はジェノヴァ商人(血筋はユダ
                              ヤ人も含まれる)の支配下におかれることになる。
                               アントウェルペンには、戦前よりかなりのユダヤ教徒が居住しており、大きな正統派ユダ
                              ヤ人(ハシディズム)のコミュニティもあり、そこから「西のイェルサレム」との綽名さえ
                              ある。
                               大戦後には再び超正統派、正統派ユダヤ教の中心地ともなり、また、ユダヤ系ベルギー人
                              ローデウィク・ファン・ベルケンによるダイヤモンド研磨用の円盤の発明は、多くのユダヤ
                              人のダイヤモンドカット職人を養成することとなり、この町はダイヤモンド取引およびカッ
                              ト・研磨の中心としても著名になっていく。ユダヤ系の経済基盤は残ったのである。

                               第二次世界大戦において、アントウェルペンは港ゆえに戦略上の要所となった。
                               1940年5月、ドイツ軍によって占領され、この後、この港から連合軍が新たな物資を
                              荷揚げすることを防ぐため、ミサイルを使っての猛攻が行われた場所でもある。大戦を通じ
                              て港は守られたものの街は1944年9月4日、イギリス軍による解放まで深刻な打撃を受
                              けたのであった。

                                                       ○

                               マルクト広場から見上げる市庁舎は1560年代のルネッサンス建築4階建。その最上階
                              の屋根が東洋の斜めに片流れした甍屋根の感じで私には違和感を覚えたし印象的であった。
                              テラスには世界各国の国旗が飾られ風に揺れている。これは現今のベルギー的風貌であろう
                              か。
                               私たちは世界遺産に指定されているノートルダム大寺院を観る事になっていた。ゴシック
                              の高さ123mあるという大きな塔は、かつては港に入る船の良い目印だったという。街の
                              何処からも先端が見えているといわれる。
                               ノートルダム大寺院はいまこそ地域の最大の聖堂として世界遺産を誇っているが、20世
                              紀に入っての重なる修復によって、10世紀聖母マリアを称える小さな礼拝堂からの足跡は
                              見失われた。さまざまな災難に見舞われた長い歴史を経ているのだ。
                               正面の入り口から入っていくと広い礼拝堂には子供たちが大勢いて、ミサの行事のリハー
                              サルをしているところだった。主祭壇にはステージが設けられ悲しみのイエスが背負う十字
                              架のシャンデリアの下で、指導者の指示に従う子供達が登ったり降りたり聖歌の練習をして
                              いた。しかしここでの人気はアニメ「フランダースの犬」で有名になった主人公ネロ少年の
                              憧れであったルーベンスの祭壇画「キリストの昇架」「キリストの復活」「キリストの降架」
                              「聖母被昇天」が見られるということである。
                               子供達がオルガンの音に合わせてリハーサルを繰り返す主催壇の左に「キリストの昇架」
                              が、右手に「キリストの降架」が祭壇の右手通路壁に「キリストの復活」があった。そして
                              主催壇の最も奥まった正面に「聖母被昇天」が掲げられていた。いずれも三連祭壇画という
                              ルネサンス期の画家・彫刻家、が主に聖堂に用いた形式といわれる3枚組み(主画を中心に
                              折りたたみの扉絵を両側に描いたもの)であった。神聖さを強調した、あるいは奉納的な心
                              持を、と感じながら観た。
                               大聖堂を出ると隣にはもうひとつフルン広場があった。広場に面したヒルトンホテルが豪
                              華で、まるでそのホテルの前庭の観があったがここには中央にルーベンスの立像があり、そ
                              の風格も立派で大聖堂を背景に格好な図であった。
                               ルーベンスが画家としてばかりでなく、7ヶ国語を自由に使う外交官としても活躍し、こ
                              の町に住んだ家が街並みを歩いた近くに公開されていた。
                               やわらかな春の陽射しがあったが、風が冷たかった。私たちは近くを1時間ほど散策して
                              次の訪問地ゲントへ向かった。

                                                                                  風次郎
 

        
            長閑な車窓風景                  主祭壇でリハーサルする子供達

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