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「ブリュッセル」の名は、オランダ語で「沼の村」の意味。ブルークゼーレに由来する。
この地には新石器時代の紀元前2250年ごろから農耕民族が住んでいたと言われる。そ
の後ローマ人を受け入れたガリア人がセンヌ渓谷の沼沢地に定住してローマ帝国の属領とし、
荘園を増やしていった。12世紀には、地理的な利点を活かし、商業や手工業で栄え、職人
や貿易商たちは事業を確立し、貴族たちが要塞や城を築いて土地の所有権を宣言する時代に
移っていく。
1383年ブラバント公国の宮廷がルーヴァンからこの地に移されると、この地はその後
4世紀間にわたって変転するヨーロッパの政治の中心地として繁栄したのである。同時に、
宗教改革の波が徐々に寄せ、民族間の受け止め方に複雑さを増していった。
1430年、ブルゴーニュ公国の支配下に置かれると、ついで1477年以降神聖ローマ
皇帝を戴くハプスブルク家の領地になる。そして、ハプスブルクの王位がフェリペU世に変
わった時、ブリュッセルの市民は、スペインに住むこの新しい君主に反発していく。
カトリックを信奉するスペイン・ハプスブルク家は厳しい弾圧を加えてこれに向かったが、
対立は激化して続いた。宗教、文化、階級の違いからくる市民のことごとくの反発は、次第
に激しさを増すのであった。
以後、ここはスペインの圧制、ネーレルランド支配、フランスによる支配など曲折を繰り
返した地である。
現在のベルギーがネーデルランド連合王国から独立したのは、1830年ブリュッセルの
王立モネ劇場でオペラの上演中に観客が暴動を起こし、革命の引き金が引かれたことに始ま
ってのことであった。
ベルギー王国、通称ベルギーは、隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクス
と呼ばれる。
現今は欧州連合の主要機関がブリュッセルに置かれているためEUの首都とも言われるよ
うになっている。
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外は暗いが、部屋の窓から見る立ち木の様子では雨は降っていないようでホッとした。
フロントのカウンターでは制服を着た男が何やら書類の整理をしていた。駅に近く、広場
に面しているから、夜も人の出入りに対応しているのだろう。
4時を廻ったばかりだった。
街を見に外に出る。街歩きにヒルトンはとても好都合だった。
独立の引き金が引かれた「王立モネ劇場」が近くに在るので、先ずは外観を拝したいもの
だと思っていたが、ホテルの隣にある北駅に足が向いた。
ロジェ広場の北側は鉄道のガード下に続いていた。真っ直ぐ進むと駅の東側で、庶民的な
駅裏通りの感じがする家並みであった。店は閉まって人通りも無くうら寂しい時間だが、何
となく東京の神田辺りを思い浮かべた。勤め人が夕方の時間を賑わす処なのかも知れない。
駅の構内に入ると、出札所などオフィシャルな窓口は閉まっているが、売店はもう開いて
いて商品を搬入したり新聞を並べたり、最早往来の客足も見えている。
ブリュッセルの街には空港から15分の北駅をはじめ、中央駅、南駅と中心部(いわゆる
5角形のインナーリング)にある3つの大きな駅が、この国際都市を訪れる人々を捌いてい
る。5時近くには列車の発着もありそうなのでプラットホームに上がってみる。綺麗な車体
の急行列車が丁度出発して行った。が、ホームにも待合室にも人影が見えない。
私は西側の正面玄関に周り、街の中へ向かうことにした。中央のコンコースで、今や近代
都市の目抜きの場所では殆ど見なくなったホームレスを見た。
駅を出て振り返り見る北駅は横長にどっしりと国際駅貫禄十分である。前に目を向けると
先50m、そこには正面道路を挟んでワールドトレードセンターのビルの前を中央に、グリ
ーンベルトを配した大通りBoulevard
E.Jacqmainが走っている。ワールドトレードセンター
はEU内の名立たる企業が事務所を構えているらしい2棟のビルである。
私はその角を左折して、インナーリング内へ10分ほど歩いてブルッケール広場に出た。
北駅からくるもう一本の道路との合流地点で、由緒あるメトロポールホテルがこれに面し
ている。三角の間に建っている映画館UGC
Brouckere にはアールヌーボーからデコに引き継
がれた「Eldorado」の部屋があるが、建物もメトロポールと居並ぶに相応しい豪華な彫刻ず
くめの正面が街路の照明に浮かび上がっていた。広場の先に中央郵便局があり、これはモネ
センターの巨大なビルの一角であった。その後ろ側、奥に「王立モネ劇場」があった。
ベルギーの独立革命には多くの要因があり、カトリックのベルギーとプロテスタントのオ
ランダという宗教の違いが主に挙げられる。だが、最も大きな要因は、経済的、政治的、連
合州の社会施設全てにおいてオランダ人による支配が行われていたことであると言われる。
伝統的な交易による経済と初期の産業革命は、現在のオランダ、特にアムステルダム港が
中心で、アントワープが大きな貢献を果たしているにもかかわらず、ベルギーはこの経済的
効果を少ししか受けられず、オランダの支配に不満を隠せなかったのである。
そして人々は、フランスにおける七月革命の展開を興奮と共に見ていた。革命の詳細は新
聞によりすばやく報道されていたのであった。その様な状況の元、反乱のきっかけは183
0年8月25日の夜であった。
この劇場ではダニエル・オベールによる感動的で愛国心を刺激するオペラ「ポルティチの
娘?」が上演されたのである。このオペラのストーリーは、17世紀のナポリで起こったス
ペイン人の総督に対するマサニエッロの反乱を題材にしたもので、これが観客の愛国心に火
をつけた。
テノール歌手のアドルフ・ノリットの"Amour
sacre de la patrie"「祖国への神聖なる愛
」の二重唱が観客の情熱を燃え立たせたのであった。群衆は公演が終了した後、愛国的な声
をあげながら通りに押し寄せ、素早く政府の建物を占領してしまったのであった。
白い建物、端正なデザインのオペラ劇場の前に立つと、その静けさは革命のドラマに信じ
難さを覚え、想像することも出来ないが、史実と思えば神聖にさえ感ずるのであった。
歴史は1831年7月21日、ベルギーの王としてレオポルド1世を迎え宣誓を得るが、
しかし、その後1839年4月19日、ヨーロッパの列強(オランダを含む)がロンドン条
約に調印する時まで、独立は完全には認められなかったのであった。
その時から、ベルギーは独立した中立国となったのである。
美しい劇場の建物は1819年に建てられたのであるが、ブラバン公の時代(1420)
同じ場所に造幣局(仏語でモネという)が造られてあったためその場所の呼名を受け継い
でいるとのことである。
ブルッケール広場(左:)UGC (右)メトロポールホテル
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