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青銅の騎士像
イサク聖堂からネヴァ川寄りは河畔までデカブリスト広場である。デカブリスト広場の中心
にはピョートル大帝の像、有名な「青銅の騎士像」があった。エカテリーナ2世により1782年
に完成したものである。
背景は、1682年8月モスクワのクレムリン、ウスペンスキー聖堂でピョートル大帝の戴冠式
が行なわれたに因み、そのちょうど百年後の1782年8月7日、ここサンクトペテルブルクに、
ピョートル大帝戴冠100周年を記念して「ピョートル大帝の騎馬像」を掲げ、開幕式が行な
われたとの伝えである。
ロシアの首都は1712年にピョートル大帝によってペテルブルクに遷都されるまでは、モ
スクワであった。大帝は1700〜1721年の北方戦争でスウェーデンに勝利し、バルト海
を我が物にしつつあったのであるが、この北方戦争中、1703年にサンクトペテルブルクが
建造され、遷都に及んだのであった。
首都はロシア革命後の1918年に再びモスクワに変わり現在に至っているが、ピョートル
の像は今もここで北の方角、すなわち、スウェーデンを睨んでいる。
この像は、この都市を創建したピョートル大帝の偉業を称えたアレクサンドル・プーシキン
作の叙事詩『青銅の騎士』(1833年に発表)が有名になったため、この名で呼ばれるようにな
ったといわれている。
像の制作者はフランス人ファリコネで、女帝エカテリーナに乞われて制作に打ち込んだという。
制作に12年間もかかり、また異例な銅像とも言われる。ツァーリの銅像には通常、王笏、マント、
王冠といった権力に付随するものがついているが、この像にはそのようなものがなく、馬に乗っ
だけの人物像で、すべてが簡素で厳格だったからである。
長い年月にわたる世情はファルコネによる完成を許さず、彼はフランスに戻り除幕式にも招
かれなかったし、ロシアの地に再び足を踏み入れることもなかった。ただ、エカテリーナ2世
は「青銅の騎士」像のついた金貨を、パリにいるファルコネに贈っている。ファルコネは金貨
を受け取ると、一生の仕事をやり遂げ、万感の思いがこみあげてきたのであろう、その場で泣
き崩れたという。
青銅像の台座は大きな花崗岩だが、ここにはその後落雷があり、破損している。巨大な花崗
岩は、フィンランド湾岸から約8キロメートルも運ぶためにほぼ1年もかかったとのことであ
る。また、馬の後ろにいるヘビを制作したのは、ファルコネではなく、ロシアの彫刻家だとい
われる。最初の計画にヘビは入っていなかったが、全体が崩れる可能性があったので耐久性を
上げるために必要だったのだとか。
花崗岩の台座にはロシア語とラテン語で「エカテリーナU世からピョートル大帝へ」と刻ま
れていた。また、ミニチュア版「青銅の騎士像」がペテルゴフのピョートル大帝夏の宮殿にあ
ると聞いた。
サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展
してきた。特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材と
しても扱われている。
『青銅の騎士』を物した詩人で作家プーシキンをはじめ、いわゆる「ペテルブルクもの」を
物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエ
フスキーなどがその代表である。また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように、帝
政時代のモスクワはひどい「田舎」といった扱いをされており、ペテルブルクで活躍すること
こそエリートの絶対条件であると看做されていたという。
音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で
活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派
ということ)。こうしたことから、ペテルブルク人は文化意識・水準が高いという誇りを持っ
ているとされるのが通説である。
歴史の悪戯と言おうか、ロマノフ時代を開いたピョートルの時代を受け継いだ3世は、その
妃エカテリーナU世との確執から処刑によって時代の舞台を妻に渡すことになる。プライド高
き女帝エカテリーナU世は、ヨーロッパに引けを取らぬ国威の発揮を芸術文化の高揚に託した
のであった。
ワシリー島
旧海軍省の前から大ネヴァ川に掛かる宮殿橋(ネヴァ川が航行できる白夜の季節などはこの
橋は船の航行の為に跳ね上がる由)を渡って行く。その先はヴァシリエフスキー島(ワシリー
島)である。
ピョートルは最初の計画で街造りをするのに、アムステルダムをモデルにして島の岬を政治
経済の中心にしようと考えていた。その名残で道路は碁盤の目状に整然としているし、当時証
券取引所や税関倉庫が建設され港は大いに賑わったという。迎賓館(メンシコフ宮殿)もここ
にあり、宮殿橋は島の先端から宮殿へ向かう構想で造られたものであった。
東から流れるネヴァ川はワシリー島の先端ストリェールカで北を流れる小ネヴァ川と南を流
れる大ネヴァ川に分かれる。私たちはストリェールカでバスを降り、両ネヴァ川を視する2つ
の「ロストラの燈台」の袂から対岸のエルミタージュ美術館を眺めた。観光案内の定番ポジシ
ョンであるだけに、晴れ間も見せる青空を映したネヴァ川と、大きく浮かぶように横たわるエル
ミタージュの宮殿は格別に美しかった。
只、燈台の名称「ロストラ」とは船首を意味するとか、敵軍の船首を切り取り、柱の飾りに
して勝利を記念した古代ローマの習慣に由来しているとは、あな、恐ろしや!
私たちは、さらに証券取引所橋で今度は小ネヴァ川を越えペテログラード側の街区へ入って
行った。河岸右手クロンヴェルク河岸通りからはペテロハヴロフスク要塞の壁が厳めしく続い
ているのが見えた。
ペドロパウロフスク要塞
正式名称はサンクトペテルブルク要塞である。(1914年から1917年にかけては、都市の名称
が「ペトログラード」であったため、要塞もペトログラード要塞を称した)
18世紀に発生した大北方戦争の過程で、スウェーデンから当地を防衛するために難工事を乗
り越えて築かれたもので、河口付近に在ったザーヤチ島を高い壁で取り囲むように構築された
のである。
後、スウェーデンの脅威が低下した19世紀には、政治犯収容所としても利用され、一時はバ
クーニンやネチャーエフ、ドストエフスキー、レーニンらも収容された場所であるが、ロシア
革命後には失脚した臨時政府の閣僚らも収容されたと聞く。
要塞の中央に、首座使徒ペトル・パウェル大聖堂(ペトロパヴロフスキー大聖堂)があり、
ピョートル大帝以降の皇帝が葬られている。
現在、造幣局として利用されているほか、施設の一部は観光客にも開放されており、金箔を
用いた豪華なバロック様式の内装などを見学できるとのことであった。
私達は周囲から見渡しつつトロイツキー橋を渡りエルミタージュ側の街へ戻った。
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ロシア西部に位置する輝ける都市「サンクト・ペテルブルク」、(露: サンクトピチルブー
ルク、英語圏ではセントピーターズバーグ=Saint Peters burg)この名は「聖ペテロの街」を
意味するが、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたも
のであるといわれる。今はレニングラード州の州都である。
この都市の名前は、1914年、第一次世界大戦が始まりロシアがドイツと交戦状態に入ると、ロ
シア語風に首都ペトログラードと改められ、さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立する
と、レーニンに因んで1924年よりレニングラードと改称され、1991年まで半世紀続いた。
しかし、ソ連崩壊を受けた住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻ったので
ある。
バルト海東部のフィンランド湾最東端に面するネヴァ川河口デルタに位置し、ロシア有数の
世界都市、港湾都市で、鉄道・国際航路の要衝であり、ロシアを代表する港湾工業都市でもあ
る。又、モスクワに次ぐロシア第二の都市として、行政上はモスクワとともに単独で連邦市を
形成しており、ロシア連邦83連邦構成主体のひとつである。人口は現在500万を超え、100万超
都市としては世界で最も北に位置する。
現在の首都、帝政時代は副都でもあったモスクワとは、直線距離で 600km(東京〜函館の距
離)以上離れている。
北方に煌めいた歴史の都は、今もネヴァ川のさざ波の煌めきと共に歴史を歩んでいるのであ
ろうか――。
(風次郎)
ロストラ燈台下から見る「ペドロパウロフスク要塞」と「トロイツキー橋」
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