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風次郎の世界旅
 ロシアの旅
(6)

music by MUSIC CAFE

        
               血の上の教会    

           6.ペテルブルク歴史地区巡り―1― 

                  昼食を終えてサンクトペテルブルク市内へ向かう頃には、晴れ間が見える程天候も回復し
                 てきた。
                  バスは再びエルミタージュ美術館近くのサンクトペテルブルク歴史地区に戻り、私たちは
                 幾つかの観光を試みることになっていた。

                                ○            ○           ○

                  ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通
                 じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれた交易ルートに位置して
                 いた。
                  古い時代、キエフ公国が分裂するとノヴゴロド公国の辺境地帯となったが、ノヴゴロド(
                  ロシア語で新しい町を意味する)はここから発するネヴァ川水路でバルト海と繋がっている
                 ことから、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれた処である。
                  一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯であり、
                  1240年には両国の間に、現在の中心部東端に当たる場所でネヴァ河畔の戦いが起こる。この
                 戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド側が勝利し、アレクサンドルは
                  ネヴァ川の勝利者という意味のネフスキーという名を加えて以後アレクサンドル・ネフスキ
                 ーを名乗るようになったのである。
                  アレクサンドル・ネフスキーはロシアの英雄の一人となり、ピョートル大帝はサンクトペテル
                 ブルク建都後に彼を記念して、古戦場にアレクサンドル・ネフスキー大修道院を建てている。
                  その後はノヴゴロドを併呑したモスクワ公国領となっていたが、1617年にスウェーデンが
                 ここを奪取し、以後ピョートル時代に至るまでこの地域はスウェーデン領となっていたので
                 あった。

                  ピョートル大帝は大北方戦争(1700 - 1721)の過程で、スウェーデンから奪取したここ、
                 バルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都を人工で造営するとしたのである。
                  造営前の一帯は荒れ果てた沼地であり、河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行
                 で建設されるなど、建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われ、その数は1万とも言わ
                 れる。築かれた1703年5月27日は建市記念日として市の祝日となっている。
                  建設後は、ロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう歴代の皇帝により整備がおこ
                 なわれた。
                  1725年には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬宮が完成。ネフスキー大通りが整
                 備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られていった。1757年には演劇アカデミーが
                 創設され、エカチェリーナ2世時代の 1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元と
                 なる展示室も開設され、1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設されている。
                  後、ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボ
                 リシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こる。そして、ソヴィエ
                 ト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転、1922年に正式に
                 それを定めたことで、この町は政治の中心地から外れていく。しかし、その後もレニングラ
                 ード(レーニンの政権で呼称改め)はソ連第二の都市として、その歴史的経緯や地理的要因
                 からモスクワとは違った文化や風土を維持しているのである。
                  レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占める
                 ことと同義と言われるが、ロシア革命以降でサンクトペテルブルク(レニングラード)出身
                 者がトップに登り詰めたのはソ連崩壊後、21世紀になって大統領や首相に選ばれたウラジー
                 ミル・プーチンが初めてである。

                               ○            ○           ○

                  血の上の教会
                  先ず眼を向けたのは「解放皇帝」アレクサンドル2世の終焉の地、グリボエードフ運河の河
                 畔に建設された血の上の教会である。
                  ヨーロッパ全域が巻き込まれたナポレオン政権に崩壊的打撃を与える程の威力を示したアレ
                 クサンドル1世(1801-25)であったが、その後のロシアは内外に軋むこととなる。
                  黒海の制海権を失ったクリミア戦争のあとを率いて、アレクサンドル2世(1855-81)は、
                 農奴解放を初めとする「大改革」を行ったが、民衆の反動化は治まらなかった。同時にナロー
                 ドニキ運動も急進化し、ニヒリズム、テロリズムに走る傾向も見え、1881年3月1日ついに皇帝
                 もテロの標的となったのである。
                 行幸先から帰る皇帝の乗った御料車が運河に沿って通る中、女性革命家ソフィア・ペロフス
                 カヤに指揮されたテロリストが投げた手榴弾は2人のコサック衛兵を負傷させたのだった。皇
                 帝は無事であったが、現場を見るために御料車を降り、別のテロリストが転がして爆発させた
                 爆弾浴びたのである。瀕死の重傷を負った皇帝は担ぎ込まれた冬宮で崩御した。
                 教会は、アレクサンドル2世の跡を継いだアレクサンドル3世によって、先帝を弔うためその
                 終焉の地に建立されたのである。
                  建設資金は、帝室であるロマノフ家のほか、広く一般の献金によってまかなわれ、工事は18
                 83年に着工されたがアレクサンドル3世在位中には完成せず、教会の完成を見たのは次のニコ
                 ライ2世の治世に入って13年目の1907年である。
                  ペテルブルクの主な建築物が、主としてバロックおよび新古典主義様式であることに比べて、
                 この教会の建築はロマンチックなロシア・ナショナリズム、中世のロシア建築の影響を色濃く
                 受けていると評されている。玉ねぎのような形状の屋根や無数のモザイク画に彩られた壁面を
                 見ると、一般にモスクワの聖ワシリイ大聖堂(生神女庇護大聖堂)や、17世紀のヤロスラヴリ
                 の教会建築を思い起こさせると言われる。
                  ピョートル大帝以来、西欧化を推進してきたロシアにおいては、建築においても伝統的なロ
                 シア様式が否定され、ヨーロッパの建築様式が主流となっていた。その西欧化を体現してきた
                 ともいうべき都市ペテルブルクにおいてさえ、聖ワシリイ大聖堂のようなロシアを象徴する建
                 築が無意識的に望まれてできたと考えられる。が、一方で、聖ワシリイ大聖堂と比較すると、
                 全体の構成のより自由な点や優美さなどはモスクワに代表されるロシア的なものとは異質であ
                 り、やはり、ペテルブルクの建築であるとの評価もある。 

                  ロシア革命による社会主義体制は、教会に大打撃を与えた。教会はソビエト政権によって略
                 奪され、教会内部も損害を被った。ソ連政府の指令で1930年代初期に教会は閉鎖され、第二次
                 世界大戦中は野菜倉庫として使われている。レニングラード包囲戦で損害を被った教会は、戦
                 後近くのオペラ劇場のための倉庫として使用されたこともある。
                  1970年 7月、血の救世主教会の管理権は聖イサク大聖堂(同聖堂も、この時点では、公共博
                 物館として使用されていた)に譲渡された。そして聖イサク大聖堂の収入は血の上の救世主教
                 会の復旧へ集約され、27年に渡る修復工事を終えた血の上の救世主教会は、1997年8月およそ
                 60年ぶりに一般公開されることとなった。
                  しかし、血の上の救世主教会は、ロシア革命以前から公的な礼拝としてではなく、暗殺され
                 たアレクサンドル2世を慰霊していたロマノフ家の施設であったという理由で、正教会の大聖
                 堂としての完全な復活はなされず、公的な奉神礼は殆ど行われない、麗々しいモザイク博物館
                 として再開されたのである。

                  聖イサク寺院
                  私達は、宮殿広場を眺めながら旧海軍省側に向かい、世界で4番目に大きい大聖堂、「聖イ
                 サク大聖堂」を見た。聖堂はピョートル大帝の守護聖人の名前にちなんで名付けられ、四十年
                 かかって建設されたといわれる。工事が長い間かかったのには、ある伝説がある。
                  大聖堂の建築家のオーギュスト・モンフェランが占い師からある予言を受けた。その予言は、
                 「大聖堂の建築が終わると、モンフェランはすぐ死ぬだろう」といものであった。だから建築
                 家は工事を意図的に長引かせたというのだ。それが本当かどうかはともかく予言は当たったと
                 いう。
                  又、大聖堂を飾っている彫刻にも面白い挿話が付き纏う。いろいろなキャラクターが聖イサ
                 クの方へおじぎをして丁寧に挨拶しているが、その中にはモンフェラン建築家の彫刻もあり、
                 でも誇り高い建築家はおじぎをしていない。皇帝はそれを建築家が自分の業績を誇示したいが
                 ためのものだと理解し、大聖堂の建設に際し感謝の言葉も挨拶もなく建築家のそばを通り過ぎ
                 たという。建築家は皇帝に無視されたことを非常に悲しく感じて病気になり、一ヶ月後には亡
                 くなったという――。

                  この教会もロシア革命後の教会閉鎖では博物館になったが、その時、大聖堂のドームにパリ
                 のパンテオンの例にならってフーコーの振り子を吊るしたそうだ。それは世界で一番長い93メ
                 ートルの大綱に、54キロの錘をつけた振り子だったとか。 1992 年代に解体され、今は博物館
                 に保存されている由である。聖イサアク大聖堂は今、博物館としても存在し続け、ペテルブル
                 クに住んでいる人々は、まだ懐かしんでいるという。
                  私達はこの大きな聖堂をイサク広場から眺めたが、金色に輝く丸屋根の周りは展望台になっ
                 ており、街を一望にする事が出来る。

                  イサク聖堂の正面を眺めるヴァスネセンスキー大通り側は芝生の広がりとイサク広場である。
                 広場は道路を跨ぎ、その中央にニコライ1世の馬上像が立っていた。
                  ニコライ1世(1825-55)は兄アレクサンドル1世の急逝で即位した。民衆化前のロシアに対峙
                 し、非ロシア民族のロシア化とキリスト教化を強行しつつ農奴解放にも努めた王であった。一
                 方、「ヨーロッパの憲兵」としての役割も発揮したと言われる。予期せぬ運命に導かれて登壇
                 した帝王の思い描いた世界ははかり知れない。
                  しかし歴史の波はこのあたりからクリミア戦争へと下ったと言わざるを得ないであろう。勢
                 力拡大は時として野望の誘いを正当化し、理想を外れることが多いように思う。
                  聖堂を背景に台座も整って聳える像は、馬上凜として空を見据えており感慨深い。
          
                                                                   (風次郎)

           
               イサク聖堂とニコライ1世の馬上像   


 

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