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*歴史遺産を訪ねるのには、ある程度時代の流れを頭に入れておくことが肝要です。殊にローマでは
BC500年時代に王制から前期共和制(ルキウス・ユニウス・ブルータスが実施)に変わり、次にカエサ
ル、アウグストスの時から帝政が始まります。帝政は39代ヌメリアヌス(283〜284)迄続きますが、以
後はキリスト教に影響されたり、分割統治など、いわゆる終わりの始まりが見えてきます。西ローマは4
76年、最終東ローマ帝国のコンスタンチノープルが落ちたのは1453年でしたので、その間約2000年
の時が流れるのです。
同じような名前の人物や、同じような遺跡・施設が地上地下に散在しているのがローマですから、見え
ているもの一つ一つの生きた時代がかなり離れている(例えば、建国主の王とマクセンティウスの息子
は同じロマノフです。またフォーロロマーノで見る凱旋門にしても300年の幅があります)ことがありま
す。只鑑賞するにしても、混乱しないように対処する必要があると思っています。
パラティーノの展望台からフォロ・ロマーノを望む ロムルスの住まいだった小屋の跡
7.フォロ・ロマーノ
ロムルスとレムス兄弟に率いられたラテン人がローマを建設したのは紀元前 753年頃
とされる。フォロ・ロマーノの整備は紀元前6世紀頃に始まるが、それ以前は周囲の丘
から流れ込む小川が合流し、増水したテヴェレ川の流水で水没することもある沼沢地で、
一部は墓地として利用されていた。
このような土地がローマの中心となったのは、それぞれの丘にあった村落が徐々に連
合を形成するにつれ、会合や会談の場として中立な原野が選ばれたことによるらしい。
タルクィニウスの時代(BC6世紀)に大下水溝クローアカ・マクシマが着工され、沼
地の水をテヴェレ川に排水出来るようになった。それにより谷にはマラリアの心配がな
くなり、地面が整備されてフォロ・ロマーノが形成され始めたのであった。
ローマの発展に伴い、人口も増え続け、前1世紀の後半にはすでにフォロ・ロマーノ
は政治経済の中心としては手狭になっていく。三方を丘に囲まれ、唯一の平地は住宅や
スラムに占領されて拡張は困難であった。(ローマの法は国家が公共使用の目的で土地
を接収することを禁じていたのである)
それをカエサルが打開し、元老院の外側に私財で「カエサルのフォロ」を造ったのだ。
アウグストスもこれに倣ってフォロを造るなどローマの中心地区はフォーリ・インペ
リアーリを形成していく。
その後、ローマの進展に伴い、繁栄のシンボルであったフォロ・ロマーノも、たび重なる
蛮族の侵入などで破壊され、中世には放牧の原となり、遺跡は持ち去られるなど、19世
紀になって考古学的な発掘が行われるまで眠った地となっていたのである。
大戦時代のイタリアを率いたファシズム総統ムッソリーニは帝国の首都に相応しい大
通りとして現在のフォーリ・インペリアーリ通りの建設に着手する。大通りは完成した
が、遺跡の大部分は再び埋め戻されてしまったのであった。
(1)ティトスの凱旋門
コロッセオ側から入場してまず見上げるのはティトスの凱旋門である。整った美しい
形の凱旋門で他の凱旋門の見本にもなっているが、ほとんど教皇ピウス7世による1
9世紀の修復である。
皇帝ドミティアヌス(11代)が先代皇帝で兄でもあるティトゥスのエルサレム攻囲戦
等での戦功を称えるために建てたのだ。
70年にウェスパシアヌスとティトゥスがユダヤ人に対してあげた勝利を記念するレ
リーフ(浅浮き彫り)で飾られていたが、現在ではほとんど残っていない。ローマ軍が
神殿から七本の腕のついた燭台(ユダヤ教のシンボルとなっている)を持ち出す様子を
描いた有名なレリーフは、この凱旋門のアーチの内側にある。
*
パラティーノの丘へ
私たちはそこから先ずパラティーノの丘に登った。私はほぼ20年振りである。当時
はまだ発掘も進んでおらず、展望台も整っていなかったのでまるで山の中だったように
記憶している。ファルネシアーニ庭園の先、一番南側まで歩き「アウグストスの家」と
「リヴィアの家」を見た。
(2)アウグストスの家、リヴィアの家
初代皇帝アウグストスはここで40年暮らしたというが、元の家はAD3年の火事で焼
け、再建されたものが残っている。皇帝好みの6室並ぶ小さな居室には、寝室、2つの
図書館もあった。大広間は天井も高く、大理石の床である。「アウグストスの書斎」も
ガラス越しに公開されていた。壁、天井共に赤、黒、黄に彩られ繊細な装飾である。
妻「リヴィアの家」は遺跡発掘(地下に広がっているため)が進んでいるので建物全
体が覆われた格好になっているが、全11室の優雅な暮らしの邸宅である。午後には
マッシモ宮で別邸の装飾画を観た。
私たちは外から眺めるだけで先へ進んだ。
(3)ロムルスの小屋
すぐ左手は傾斜地であるがそこに小屋根をかけた場所があり、初代王ロムルスの小屋
であるという。ロムルスは、ローマの建国神話に登場するローマの建設者で、双子の兄
弟レムスと狼に育てられた神話が伝えられ、最後はレムスも殺めて王位に就いたと伝え
られる(BC753)。最初の国王として元老院や軍団、七つの丘の城壁など古代ローマ
の根幹となる概念を整備し、他のラテン都市やサビーニ都市を征服して国を豊かにした
といわれる。
私は小屋に近寄って覗いてみたが、洞穴のような部分しか見えなかった。
*
フォロ・ロマーノの展望デッキであるパラティーノの丘のテラスが奇麗に整備されて
いて、カンピドリオからエマニエル2世記念堂まで見渡すことが出来た。これから歩く
フォロ・ロマーノの概要を頭に置くには格好な場所である。
そこから公園の林の中を通り、階段を下りてティトスの凱旋門を右に見ながら大きく
構えるように建つ「マクセンティウスのパジリカ」に入る。
展望台からマクセンティウスのパジリカ ヴェスタ神殿とラプタリウム 聖なる道
(4)マクセンティウスのパジリカ
この頃使われなくなっていたと思われるウェスパシアヌスのフォルム(平和の神殿)
と、ウェヌスとローマ神殿の間に建てられたという。
フォロ・ロマーノでは最も目立つ巨大な三連アーチが印象的なこの遺跡には、ブラマ
ンテ、ラファエロ、ミケランジェロといったルネサンス期の芸術家たちもたびたび足を
運んで構造を学んだとされ、再建されたサン・ピエトロ大聖堂の設計にも活かされとさ
れている。建物中央の身廊は幅25m×奥行き80m×高さ39mという大きさであった。
マクセンティウスが308年に北側部分より建設を始め、ミルウィウス橋の戦いでマク
センティウスを破って帝国を再統一した皇帝コンスタンティヌス1世が、312年に完成さ
せたのでコンスタンティヌスのバシリカと呼ばれることもある。西端部のアプス(礼拝
堂=アプスの状態は外側、インペリアーリ通り側からの方がわかりやすい)には、高さ
12mという巨大なコンスタンティヌス1世像が置かれていたとのこと。(木造の胴体は失
われているが、石製の頭部と手足は現存して、カピトリーニ美術館にある)また身廊の
天井を支えていた高さ20mの8本の円柱のひとつは、教皇パウロ5世が手がけたサン
タ・マリア・マッジョーレ大聖堂に運び、現在でも広場に立っている。
現在残っている北側の側廊部は茶褐色を呈しているが、破壊される前の色は白であっ
た。フォリ・インペリアリ通り側の壁面には、ムッソリーニが作らせた時代別のローマ
帝国の全体図が4枚掲げられているが、ムッソリーニの夢であった「新ローマ帝国想定
図」は取り外されている。
ここにもロムルスの神殿があった。前日アッピア街道沿いのマクセンティウスのヴィ
ッラを眺めた時もロムルスの墓があったが、皇帝マクセンティウスはよほど幼くして死
んだ息子を愛しんだのだろう。
(5)アントニヌスとファウスティーナの神殿
アントニヌス・ピウス帝(15代)が皇后ファウスティナ(大ファウスティナ・娘を
小ファウスティーナと呼ぶ)を偲び、 141年に建造させた。が、アントニウス・ピウス
が死去した後、後継のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(16代=ピウスの息
子)によりアントニウス・ピウスと大ファウスティナを共に祀る神殿とされた。
コリント式、6本の柱で飾られた前柱廊式の神殿で、基壇がほぼ完全に残っている。
11世紀に神殿を利用して教会が建てられたためファサードはその後改修されている。
この神殿の入り口にBC9〜6世紀の共同墓地が見つかっている。下に眠る墓は今後の
発掘に興味をそそられた。
(6)レシア(ヌマ・ポリピウスの王宮の跡)
初代王ロムルスのあと、2代目王としてここにローマの基礎をつくった者の館があったと
される点大いに興味があった。現実には石が散らばっている場所に過ぎないものの、5代
目のタルクニウスが大下水溝を完成することによって、ここはフォロ・ロマーノとなり、
カピトリーノの丘にはユピテル神に捧げられた神殿の建設が始まったのである。共和制
の時代には大神官の住居となった処だという。感慨深いひとときであった。
(7)ヴェスタの神殿とヴェスタの巫女の家
古代ローマ王政期に建造されたかまどの女神の神殿があった。その東側にはヴェスタ
の巫女の家があった。神殿には神像はなく、そのかわりに国家の永続性を象徴する聖火
が燃え、ウェスタリスと呼ばれる4人(後に6人)の女祭司(巫女)がこれを守ってい
たという。巫女は任期30年の間に純潔を汚すようなことがあれば生き埋めの刑にされ
たという。神殿のそばには2階建ての住居があり、柱廊で囲まれた中庭は巫女たちの像
や壺などで美しく飾られていた。
巫女の家の中庭の群像 聖なる道と古代王宮の跡
(8)カストルとボルックスの神殿
BC 495年の王制時代、レギッルス湖畔の戦いに臨むローマの独裁官ポストゥミウスは、
戦いに勝ったら神殿を建立することを誓った。伝説によれば、カストルとポルックスと
いう2人の有能な騎手が戦場に現れ、ローマ側に加勢したという。また、ローマが勝利
の後にもフォロ・ロマーノのユートゥルナの泉に現れ、馬に水を飲ませたという。
ポストゥミウスの息子が彼らが現れたと言われている場所に神殿を完成させたのはBC
484年のことだった。
ヴェスタ神殿側にあるそのユトゥルナの泉は先時代のものが最近修復されていた。
王制時代の美しいまま残っているパロス島の大理石で造られた3本の柱はBC6年にア
ウグストスが修復した時のものであるという。
(9)カエサルの神殿
BC29年、アクティウムの海戦に勝利したオクタヴィアヌス(アウグストス)が養父で
もあった神君カエサルを記念して建てた。フォルム(中央の広場)の東に面しており、
暗殺されたカエサルの遺体が火葬された場所である。カエサルが火葬された後、アント
ニウス(アントニー)が有名な追悼演説を行った場所と言われる。この演説で一時はブ
ルータスらの元老院支持だったローマ市民が、アントニウスやオクタビアヌス支持に回
り、大きく歴史が動いたのであった。
今は、ほとんどその場所を示すだけの遺跡ではある。
(10)ユリウスのパジリカ
カエサルの神殿の左手は、宗教的な行列や凱旋の行進が行われた「聖なる道」と広場
に沿って、ユリウスのパジリカ跡である。バシリカ・ユリア(ユリウスのバシリカ)と呼ばれ、
5廊式の巨大建築物で、ここは帝政初期の司法・行政中心であり、4つの裁判所もあった
という大きな遺跡である。
土台石ばかりが整然としているのが寂しい。バシリカ・ユリアは火災によって消失し
たバシリカ・センプロニアの跡にカエサルが手掛けて造営され、アウグストスによって
完成された( AD12)。
(11)バシリカ・アエミリア
パジリカ・ユリアと聖なる道、広場の反対側に広がる遺跡がパジリア・アエミリアで
ある。バシリカ・ユリアとともに重要な裁判が行われた。フォロの歴史と共に古くから
正面には商店が並び、商取引にも使われたばしょであるが、現在は基礎部分以外、ほと
んど消失している。
劇作家プラウトゥスは、BC200年をはさんで「タベルナエ・アルジェンタリアエ」
と呼ばれていた商店が集まる地区の横に、最初のバジリカが建てられたという。
遡る BC179年、監察官マルクス・フルヴィウス・ノヴィリオルが新たなバジリカの建
設を始めた。建物が竣工したのは、彼の死後、後継者のマルクス・アエミリウス・レピ
ドゥス(BC187年、175年に執政官、BC179年に監察官、BC180年〜最高神祇官を務めた)
の時代である。
パジリカは、創建以来度重なる建て替えがあったが、現在遺跡として見られるものは
BC34年に建てられたものの跡。当時の建物の大きさは100m×30mの3廊式の美しい建物
があったという。
AD410年の西ゴート族アラリック1世によるローマ略奪でバジリカは破壊された。この
時の火災で溶けた硬貨の跡が、現在でも大理石の床に残っている。その後修復されたが、
847年の地震で倒壊し、石材などは他の建築物の資材として流用されたそうだ。
(12)ラスク・クルティウス
広場側には、フォロ最後の沼地であるという遺跡があった。伝説によれば、ローマが
窮地に立った時、ここに深い淵ができ、英雄クルティウスが馬もろともこの淵に身を投
げてローマを救ったという伝説の場所である由。難行を乗り越えてきた物語は美しくも
悲しい。
セヴェルスの凱旋門 右手はロストリ
(13)ロストリ
演説をするために凝灰岩で造られた高さ3m、長さ 12mの演壇の跡が残っている。ロス
トリとは船首を意味する言葉で、台の周囲に敵船の船首をはめ込んでいたことに由来す
る由。演壇の脇には「ローマの臍」と、主要都市までの距離を金文字で刻んだ里程票も
設置されている。
ローマの物語を映画などで見るときは、ここで市民に訴える勇気ある市民の姿や政務
官の様子が必ず現れる。私はトーガを纏ったエリート、それにこの演壇と議論の場となった
元老院を古代ローマの象徴的な図のように頭に浮かべることが多い。
やはりフォロ・ロマーノに立ち、演壇に近寄り、フォロを眺めることは感激的であっ
た。但し、ここはカエサルが行ったフォロの改修でクーリアの前にあった演壇が移設さ
れたのであった。以前来た時はその横に一段高い建物の一部跡があった(古い凱旋門の
跡かもしれない)のだがなくなっていた。
ロストリの広場側に比較的すっきりと立っているフォカスの記念柱は、東ローマ帝国
の皇帝フォカスによって、 608年に建設された記念柱。造営当時は柱の上に皇帝の像が
設置されていた。時に、すでに西ローマ帝国は滅びており(AD 476)フォロ・ロマーノ
に建設されたローマ帝国による最後の建築物となったのである。
(14)クーリア・ユリア
ロストリの左手が元老院議事堂である。共和制時代から帝政前期にかけて、ローマの
政治的中枢として機能した、いわば国会議事堂である。コミッツィオと呼ばれる特別な
区域の中枢機能を果たしていた古い建物は、ガイウス・ユリウス・カエサルによって再
建が起工され、アウグストゥスがBC29年に完成させたものだが、それを何と専制君主制
を始めた皇帝ディオクレティアヌス(284−305)が再建したのであった。さらに、
現在の建物は、中世には教会に転用されるなど紆余曲折をたどった後、20世紀に復元
したものである。
かといって古い歴史を語るに足る様相があり、ニジェール・ラピスと共に私にはロー
マ史を語る上で貴重に思えた。
(15)ニジェール・ラピス
クーリアの前に、黒い大理石が敷かれた区画があって地下に入れるようになっている。
ラテン語で書かれた碑文の石碑があり、BC6世紀の王制時代に遡ると言われ、「ロム
ルスの墓」だとも言われている。なかなか入ることが出来ないようだが、興味深い重要
な遺跡であろう。
(16)セヴェルスの凱旋門
皇帝セプティミウス・セヴェルス(18代)とその息子カラカラ(19代)とゲタの
第6次パルティア戦争(AD194年/195年、197年〜199年までの遠征)での勝利を記念して
203年に建設された。
セヴェルスの死後、カラカラとゲタは共同皇帝として即位したのであるが、 212年に
カラカラはゲタを暗殺し、ゲタを記念した彫刻は建築物や記念碑からことごとく削除さ
れている。当然ながらこの凱旋門でもゲタに関する部分は削り取られた。
白大理石の豪華な彫刻によって装飾されているこの凱旋門は、カピトリーノの丘に登
る、場外の道路からも近寄って眺められる美しい門である。
(17)サトゥルヌス神殿
ローマ神話の神サートゥルヌスを祭った神殿でアエラリウムとも呼ばれ、共和制から
帝政時代にかけて国家宝物庫として機能した神殿の跡である。ムナティウス・プランク
スによって紀元前 30年頃にも再建されているが、現在の神殿跡は497年に再度建設され
た3代目のもので、正面の8本の柱が残存している。
「国庫」とも呼ばれたこの神殿はカンピドリオの丘まで続く古い坂道クリヴス・カピ
トリヌスの起点に位置していた。
(18)タブラリウムからカピトリーノへの坂道
その古い現代の坂道をカピトリーノへ向かった。丘の上には古めかしい市役所が構え
るように建っているが、その下にあたる部分がタブラリウム(国家公文書館)である。
紀元前78年に、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラによって建立された。
タブラリウムが建てられる前にこの地に建っていたウェイオウィス神殿は、破壊され
ることなくタブラリウムの建物内に取り込まれ残存している由。狭く重なっているが、
東側に隣接してウェスパシアヌスとティトゥス神殿、コンコルディア神殿、さらにロス
トラと続きその先にフォルムが広がっていたのであった。
AD46年にクラウディウス(4代)により修復されたが、中世になると、上層階は取り
壊され砦として使われたりした。ルネッサンス時代になると、ミケランジェロが既存の
建物の上にセナトリオ宮殿を建てた。
それ以来、この建物は主に行政庁舎として使われてきたが、16世紀から17世紀には一
部の部屋が塩の保管庫に、19世紀には牢獄として転用されていたこともあるという。現
在はカピトリーノ美術館からのみタブラリウムに入ることができる。
フォルムの西端に位置する建築物で、フォルムのいわば舞台背景の役割を果たし、同
時にカピトリーノの丘にあったユノ・モネタ神殿(造幣局として機能)とユピテル・オ
プティムス・マキシムス神殿を接続している。
コンコルディア神殿
初代皇帝アウグストゥスが起工し、次代のティベリウスが完成させた神殿。現在は基
礎部分しか残っていない。ローマ神話の和合の女神コンコルディアを祭った神殿で、フ
ォロ・ロマーノの西端にあった。
長い間ローマ市民同士が争う時代の後、BC4世紀に平和への誓いをこめて建設された。
その後も何度も破壊と再建を繰り返し、最後に再建されたのは AD7年から10年のアウ
グストゥスの治世下で、ティベリウスが行ったと大プリニウスの『博物誌』に記されて
いる。 450年ごろ完全に崩壊し、石灰窯として使われ、大理石は建材に流用されたとい
う。
ウェスパシアヌス神殿
皇帝ドミティアヌスの死後、後継の長男ティトゥスが手掛けたが、在位2年で病死し
たため、完成したのは次男ドミティアヌスの87年に建設された神殿。
現存しているのは、玄関廊の角にあたる三本のコリント式の円柱である。タブラリウ
ムの直下、十二助言神の柱廊と基礎のみ残るコンコルディア神殿の間に位置していた。
創建時の姿はローマ建築特有の疑似周柱式神殿で、外装は白大理石製。幅22m×奥
行き33mの基壇の上に、列柱が並ぶ玄関廊と、付柱で装飾された箱型の祭室があった
という。
私たちは坂道を上り、フォロ・ロマーノを退出してカンピドリオの丘に登った。
風次郎
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