☆☆☆
*歴史遺産を訪ねるのには、ある程度時代の流れを頭に入れておくことが肝要です。殊にローマでは
BC500年時代に王制から前期共和制(ルキウス・ユニウス・ブルータスが実施)に変わり、次にカエサ
ル、アウグストスの時から帝政が始まります。帝政は39代ヌメリアヌス(283〜284)迄続きますが、以
後はキリスト教に影響されたり、分割統治など、いわゆる終わりの始まりが見えてきます。西ローマは4
76年、最終東ローマ帝国のコンスタンチノープルが落ちたのは1453年でしたので、その間約2000年
の時が流れるのです。
同じような名前の人物や、同じような遺跡・施設が地上地下に散在しているのがローマですから、見え
ているもの一つ一つの生きた時代がかなり離れている(例えば、建国主の王とマクセンティウスの息子
は同じロマノフです。またフォーロロマーノで見る凱旋門にしても300年の幅があります)ことがありま
す。只鑑賞するにしても、混乱しないように対処する必要があると思っています。
6. テルミニ駅の朝とコロッセオ
(1)テルミニ駅の朝
9月20日の朝になった。窓の外は滴る雨模様のようであった。
傘を持ってカヴール通りへ出る。朝のテルミニ駅へ行ってみようと思った。
緩い上り坂道のカヴール通りを地下鉄カヴール駅の入り口を過ぎたあたりで左に
曲がって、真っ直ぐテルミニ駅へ向かう。先の右手にサンタ・マリア・マジョッレ
教会の広場の灯かりが道路まで届いている様子がうかがえた。
雨はそう激しくなかったので滑らないように歩道を進み、教会の広場を通過して
500人広場を見渡す駅前に出た。たくさん並んでいるバスの停留所から、生活の
始まる朝の風景そのもののごとく人々が繰り出している。何処の国へ行っても私は
朝の駅の風景が見たいのである。
駅の重い玄関ドアを押して中に入ると勤め人らしき人、旅行者らしきカバンを引
いて歩く人などターミナル駅らしい様子が目に飛び込んでくる。変わったのは、ド
アー近くに武装した兵士が立っていることか。
ヨーロッパの駅は日本のような改札がなく、ホームに自由に立ち入ることが出来
たのだが、しっかりと改札口が設備されていた。ここも治安の警戒が敷かれたよう
で、テロの影響は大きい。今まであちこちで駅へ入って見て歩くのには好都合だった
のだが、今回は当てが外れた。
1階の2本の通路のあるコンコースも、2階のアーケードも数年前とあまり変わ
っていなかったが、朝の5時を過ぎたばかりだから店はほとんど開いておらず、1
階のスタンドフードの店や乗客のために新聞や小物を提供する店だけが賑わってい
た。
煌々と明るい駅のすぐ外の道路越しにあるマックがあったので入ってみたが、中
国人の若者が溢れるほど並んでおり、「世界中同じ風景か――!?」と仰天、コー
ヒーを飲むのも諦めた。
昔寄ったスーパーがあるのかな?と地下に降り、北側のはずれに行って見ると、
こちらはもう営業していた。中へ入って地元野菜などを眺め御愛想にキャンデーを
買った。レジはセルフで要領は大体わかっていたが、説明がイタリア語で書かれて
いるので文字を見つめていると、警備を兼ねた黒人の従業員が来て、親切に預けた
お金を投入しお釣りをくれた。
1階に上がったところは駅の北東の角で、そこには、紀元前4世紀に築かれた「
セルウイウス城壁」の跡が少し残っている。その右手の狭い道路の向こうに、懐か
しさを感ずるホテル「ロイヤル・サンティ―ナ」のネオンが光っていた。10年も
前に泊ったことがあり、5階の部屋から五百人広場や国立博物館が見渡せる、印象
の良いホテルだったのでよく覚えているが、入り口が当時は駅側ではなかった。フ
ロントに寄って聞いてみるとフロントロビーを建て直したとのことであった。
雨の中、五〇〇人広場を周って共和国広場に行き、「ディオクレティアヌスの浴
場跡」入り口の前に立ってみた。
昨日はカラカラ浴場を見て「古代ローマの時代、民は、愚民政策のパンとサーカ
ス(娯楽)で、政治的にはぐらかされ平定されていた」との評のあることを改めて
思い、そのテルマエや競技場の多さに、現地での納得を促がされるのを覚えるので
あった。
所得の増加と、闘争心を昇華するハイレベルな興行競技が、ローマ帝国の市民
の政治的な関心を奪っていたと言えるとも思うからである。現代に通じるものもある
かもしれない。
ディオクレティアノスの浴場は、カラカラから時が下ること約100年、ローマ
帝国皇帝ディオクレティアヌスが 306年に建設した。主にマルキア水道からの水を
受けてお、ローマ帝国でもカラカラ浴場と並ぶ最大豪華な浴場と言われ、浴場が南
西に面していたため太陽エネルギーで暖める仕掛けまでもあったという。
ゴート族が 537年に水道供給を絶つまで使われ続けていたと言われ、長い歴史に
も耐えた。
浴場の建物はその後教会などに流用され、現在はサンタ・マリア・デッリ・アン
ジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂(16世紀ミケランジェロの作)、サン・ベル
ナルド・アッレ・テルメ教会、ローマ国立博物館などにそれなりの部分がそのまま
保存されているが、もともと広大な施設であり、テルミニ駅の前一帯はテルマエ・
ロマエであった。駅の名称もそこに由来しているのだ。
灯かりに照らされる入り口のレンガ壁が朝の雨で濡れて光っているのだった。
私はナッツィオナーレ通りをイタリア銀行まで下りセルペンティー通りからホ
テルへ戻った。
*
ホテルの朝食はビュッフェ方式で6時30分から自由にとることが出来た。
7時過ぎに1階のレストランへ行くと3室あるテーブルがほぼ満たされるほどの
混雑であった。
私はコーヒーポットから注いだコーヒーを持っていちばん奥の部屋で、道路寄り
の席へ座った。朝の道行く人が見え、それなりに視線を送りながらちょっとの時間
を贅沢そうにコーヒーを飲むことを、私の朝のスタートの楽しみにしたのだ。
その部屋のほとんどはヨーロッパの英語を話す老夫妻のように見えた。
彼らも豊かに旅を楽しんでいるのだろう雰囲気を感じた。このホテルはそんな人
々の利用者が多いのだろうか、エレベーターで行き交ってもエレガントさを感じて
いた。
私の朝食はなるべく家にいるときに近いように心がけようと決めていたので、ス
クランブルエッグ、スライスハム、それにレタスの生野菜、ヨーグルトだけである。
ただ日ごろは食パン1枚なのだがそれはビュッフェになかったので、クロワッサ
ンとイタリアらしい菓子パンをいただいた。デザートに毎日豊富に出ていたパイナ
ップルを食べたがこれは特別の追加だ。
食事を終わってロビーを通るときに、添乗員の上谷さんに会った。昨日、22日の
フリーデイに使いたい「ボルゲーゼ美術館」の入場券入手をお願いしてあったのだ。
ボルゲーゼは予約が必要とのことでご無理をお願いしたが、インターネットを使って
クレジットカードの使用が必要の由である。その場でパソコンに向かい何とか2人
で予約受付を終えてホッとした。
(2)コロッセオ
8時30分に内山さんが、フロントに現れた。今日は市内を公共機関を使うなど
歩いて見学していくのである。
ホテルを出てカブール通りの信号を渡り、アニバルディ通りを真っすぐ行ったすぐ
先が「コロッセオ」である。少し雨があるが、傘をさしてみんなで出発した。入場は
8時30分からだが、その時間を待って毎日長い行列ができるので一段落の時を狙
う由である。内山氏は読みが当たったと言っていたが、それでも入場に30分はか
かった。
私はコロッセオには2回入場したことがあるが、今回は内山さんの解説を慎重に
聞いて見学を怠らないようにした。
通路の天井・ここにもローマ建築の粋が、 4層の観客席・身分は厳格に分けられた
「コロッセオ」は、フラウィウス朝の皇帝達(帝政、共和制以前のローマが王朝時代
に皇帝たちの属したフラウィウスの氏族。ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌス
の三人が属する)が建設者であることから「フラウィウス円形闘技場」が本来の名前で
ある。
今から約2000年も前の古代ローマ時代、ウェスパシアヌス帝(9代69〜79)
が即位した頃のローマは、大火( 64)や内戦(68-70)の甚大な被害から完全に復興し
ておらず、ネロ帝(5代54〜68)が行った放漫財政を正し、財政の均衡を目指
しつつ首都の再建を進めている時期であった。緊縮政策を取りながら市民を懐柔す
るための娯楽施設の目玉として、円形闘技場が建設されたのである。
ここはネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地で、
人工池の建設時に地表は10m近く掘り下げられて一部は岩盤に達していたため、
基礎工事をいくらか省略することができたのであった。工事はウェスパシアヌス治
世の70年に始まり、ティトゥス(10代79〜81)治世の80年に、北側隣接
の「ティトゥス浴場」と同時に完成・落成している。
現代の巨大スポーツスタジアムとほぼ同じ大きさである。ローマの街中に巨大な
廃墟が堂々と建つ姿は圧倒的な迫力で、古代ローマの栄華と驚くべき建築技術の粋
を今に伝えている。
コロッセオの構造は、地下、アリーナ、そして全4階の観客席となっている。
長径188m、短径156mの楕円形で、高さは48m、約5万人を収容できた。アーチは
各層で様式が変えられており、1階はドリス式、2階はイオニア式、3階はコリント
式。天井部分は開放されているが、日除け用の天幕を張る設備があり、皇帝席には
1日中直射日光が当たらないように設計され、また一般席についても1日に20分以上
日光が当たらないように工夫がされていたという。また、円形闘技場に入るアーチ
は全周で80箇所あり、入退場は非常にスムースだったという。ローマの建築技術は
非常に優れたものであったのだ。
レンガの円形組上げの跡 地下の部屋と作業用通路
まずはアリーナ。ここはまさに見世物としての闘いが行われていた場所。現在こ
の部分はほとんどが壊れているが、一部半月型に再現されたアリーナを見ることが
できた。地下には猛獣たちの檻、剣闘士たちの待機場所があった。そして、人々を
楽しませるべく生み出された驚くべき仕掛け、ゾウやライオンなど巨大な猛獣の入
った檻を地上に持ち上げる巻き上げ機、剣闘士を登場させる跳ね上げ式の出入り口
など、なんと80機もの大掛かりな機械が仕組まれていたという。
復元されたアリーナの一部
ローマ帝国のキリスト教化に伴い剣闘士競技は禁止されたと言われているが、4
43年に地震で破損したコロッセオの修復を行ったことを記念する碑文が残されて
おり、また次第に帝国の支配が崩壊していく6世紀にも修復の記録が残っているこ
とから、古代末期までは競技場として使用されていたと考えられている。
初期には競技場に水を張り、模擬海戦を上演することさえ可能だったようだが、
後には「迫(せり)」や「人力エレベーター」といった機械による舞台装置が使わ
れ、その為に地下ではここでも奴隷が走り回っていたという。猛獣の檻、剣闘士の
部屋、奴隷の仕事場と、危険と不衛生で環境は最悪だったとも言いわれる。
コロッセオはさすがに、ローマは言うに及ばずイタリアの象徴的遺産、国際色豊
かに観光客がどんどん増えてきた。
私たちは次の見学場所、隣のフォロ・ロマーノへ向かった。雨が上がって良かっ
た。コロッセオを出ると左にコンスタンティヌス凱旋門があった。
(3)コンスタンティヌス凱旋門
西ローマの副帝であったコンスタンティヌス1世が、ミルウィウス橋の戦いで正
帝マクセンティウスに勝利し、西ローマの唯一の皇帝となった事を記念して315
年に元老院と市民によって建てられたローマでは最大、一番新しい凱旋門である。
高さ21m、幅25.7m、奥行き約7.4m。3つの門を有する。又、フランスのパリに建
設されたエトワール凱旋門のモデルにもなっている。
構成は、フォロ・ロマーノにあるセプティミウス・セウェルスの凱旋門のものを
踏襲している。が、因みにセウェルスの凱旋門が創られたのは203年だから、そ
の間110年の時の流れがある。さらに、装飾は古い建築物からの転用材で、南北
面の円形浮き彫りはハドリアヌス帝の時代(130年代)の建築物から、最上層(
アティック)の8枚のパネルは 176年に建設されたマルクス・アウレリウス・アン
トニヌスの凱旋門からはぎ取られた寄せ集めのものである。やはり最上層にある8
体の彫像と南北面のパネル、中央の門の両側にあるパネルは、トラヤヌス帝(100
年代)が建設したトラヤヌスのフォルムからの転用材である。
また、この一帯にネロ帝の黄金宮殿があった時代には巨大なネロ帝の黄金立像
が立っていたとのこと、元老院の死刑宣告を受けていたネロは自分の奴隷に殺して
くれと頼み、生涯を閉じる。黄金宮殿は破壊され、黄金像は首を切られ、池の跡に
コロッセオが建てられたのであった。コロッソ(巨大なネロの像を指す)からコロ
ッセオと呼ばれるようになった。
小高い丘の上のサンタ・コズマ・エ・タミアーノ教会と考古博物館の下、いわゆる
「聖なる道」を歩き、荷物検査を受けてフォロ・ロマーノに入場した。
コンスタンチヌの凱旋門・後ろはパラティーノの丘(コロッセオ2階の窓から)
風次郎
* 『風次郎の世界旅』ローマ2018(7)へ
* 風次郎の「東京ジョイライフ」ホームページのトップへ
* 『風次郎の世界旅』 トップページへ戻る
* 風次郎の『八ヶ岳山麓通信』へ
* 風次郎の『善言愛語』へ