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ポポロ広場は文字通り市民の広場として、またフラミニアからローマへの入口として人々に
親しまれ、周辺のショッピング街や、ピンチョの丘などとともに余暇を楽しめる市民の拠り所
のようである。バロックを観る散策の日にもここからツアーが始まり、サンタ・マリア・デル
・ポポロ教会でガルヴァッチョを堪能した。
その日、私は双子教会の西側S・M・デイ・ミラーコリ教会の脇から広場に入り、中央のオベ
リスクをもう一度眺めた。オベリスクは移動されたものが多い。これはエジプトのラムセス2
世のオベリスクである。ローマでは戦車競技のチルコ・マッシモに建てられていたが、ここに
移設された。ライオンに囲まれた噴水の音も響き、高さ36メートルの先の青空が汗を拭ってく
れてるようだった。
その日は中央のオベリスクからピンチョの丘よりにステージが設けられ、スピーカーで音楽
をバックに若い人の元気な声が響いていた。どうも土曜午後の市民参加のマラソン大会がゴー
ルを迎えるようでその準備らしい。
そういえばコルソ通りでは道路の中央にテープが張られ、警備員が大勢出ていた。
広場の西端にあるネプチューンの噴水、東側のピンチョの丘の麓のローマの神々の噴水にも
近寄って見て、それからピンチョの丘へ登ることにした。
道は神々の噴水の右手からジグザグにかなり急坂で、連れ立った若者たちもハアハア言って
いた。私は途中で休み、振り返ってポポロ広場を見下ろしながら登って行った。
頂上の展望テラスはナポレオン広場と呼ばれている。水飲み用の噴水があって助かった。
聞いていた通りポポロ広場を眼下に見るだけでなく、ローマを一望できる広々とした風景が
開けていた。南西にトラステレベのジャニクロ、南にクリナーレ、パラティーノ、カンピドリ
オ南東にエスクリーノそれぞれの丘が見分けられて良かった。
ポポロ広場を見下ろせる広場のテラスには多くの観光客が居たが、暑い日だったから広場を
囲む木陰のベンチにも大勢の人たちが涼を求めて群がっていた。
広場の真ん中にはここにもオベリスクが立っていた。ここのものは高さ9.24m、台座の部分
を含めると 17.26mのオベリスクはハドリアヌスによって作られたものである。帝はアレキサ
ンドリアに滞在したことがあり、AD2世紀初め、ハドリアヌスが自身の愛した男色アンティノ
ウスの記念碑として、もともとはマッジョーレ門外に建てたと言われる。だからこれはエジプ
トのオベリスクではなくローマのオベリスクである。しかし、これも教皇ピウス7世によって
1822年にバルベリーニ広場から現在の地に移されたのである。
ピンチョの丘からはボルゲーゼ公園まで並木道が続いていた。
そこには著名なイタリア人の胸像が並んでいる。これはジュゼッペ・マッツィーニ(イタリ
アのイタリア統一運動時代の政治家、革命家、カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一
の三傑」の1人)の希望で置かれたという。
ピンチョの丘はローマの七丘にも含まれない丘だったが、アウレリアヌス城壁の内側でもあ
る。現代には欠かせない丘となった。私は今回の滞在でいわゆるローマ起源の7丘を歩くこと
を試みたが、7つの丘にもいろいろな振り分けがあり一筋でないことを知った。ここは市民運
動を経た歴史の中では、カンピドリオ集中の次の時代に大衆がローマを(イタリアを)意識す
る場所であったのかも知れない。
*参考(ウィキペディアより※カッコ内は現代のイタリア語での表記)
初期ローマの七丘
都市ローマ成立前に人が定住したと伝えられる七丘で、
オッピウス(オッピオ)、パラティウム(パラティーノの東側)、ウェリア(ヴェーリア)、
ファグタル(オッピオの一部)、ケルマルス(パラティーノの西側)、カエリウス(チェリ
オ)、キスピウスの7つ
都市ローマの起源となったローマの七丘は、
アウェンティヌス(アヴェンティーノ)、カピトリヌス(カンピドリオ)、カエリウス(チ
ェリオ)、エスクイリヌス(エスクイリーノ)、パラティヌス(パラティーノ)、クイリナ
リス(クイリナーレ)、ウィミナリス(ヴィミナーレ)の7つ
現代のローマ七丘
アウェンティヌス(アヴェンティーノ)、カピトリヌス(カンピドリオ)、パラティヌス(
パラティーノ)、クイリナリス(クイリナーレ)、ホルトゥロルム(ピンチョ)、ヤニクル
ム(ジャニコロ)、オッピウス(オッピオ)の7つ
ボルゲーゼ公園
ピンチョの丘のオベリスコ通りを真っすぐ行くと掘割に突き当り、下にムーロ・トルト通り
が公園を横断していることが分かった。ピンチョの丘はボルゲーゼ公園と歩道付きの橋でつな
がっているが、その下の谷間をムーロ・トルト通りが走っているのだ。ムーロ・トルト通りは
アウレリアヌス城壁に沿って走る道で、ピンチアーナ門に続いている。2日前カンツオーネデ
ィナーへ行く時、ピンチアーナ門を通ったあとテベレ川を越えるまで、何処を走っているか分
らなくなったが、これで納得した。
ボルゲーゼ公園に入り、マニョリエ通りをひたすら真っすぐ歩きピンチアーナ門からまっす
ぐ伸びてくるフィオレッロ・ラ・グアルディア通りと合流するロータリー、カネストレ広場に
出た。車が少なく、木陰続きで助かった。
右手は広大な馬術競技場の緑地でスッキリした気分になれた。少し先に陸上競技のトラック
があったが、これは「シエナ広場」の施設らしく正規の競技施設ではないようだった。
その反対側奥の方に大きな池があり、これは「湖の庭園」奥の畔にエスクラピオの神殿が見
えた。
広大な公園はまだまだ続き、公園の西側には動物園、ピエトロ・カノニカ美術館、カルロ・
ビロッティ美術館、シルヴァーノ・トーティ・グローブ・シアターなどの文化施設がある。
現在ボルゲーゼ美術館となっている建物はボルゲーゼ家の別荘(美術コレクションを収める
家)で、80ヘクタールのおよぶ公園は「ピンチョの丘のヴィラ・ボルゲーゼの庭園」として造
営されたものである。
古代ローマの有力な氏族は、共和政ローマ後期、このあたりの丘の南斜面に次々とヴィッラ
と庭園を造成しており、ここは「庭園の丘」と呼ばれていたという。
広大な庭園は、17世紀に枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ(教皇パウルス5世の甥で、ベルニ
ーニの後援者)の構想を基に建築家フラミニオ・ポンジーオがブドウ畑だった場所をボルゲー
ゼ卿のローマ近郊のヴィラとして造営したものである。
この自然公園にはいくつかのヴィラが含まれており、隣接するヴィラ・ジュリア国立博物館
は、ユリウス3世が夏の別荘として1555年に建設させたものであり、ディエゴ・ベラスケスの
描いたヴィラ・メディチヴィラ・メディチは在ローマ・フランス・アカデミーが使用している。
ボルゲーゼの庭園自体は19世紀に大きくイギリス式庭園に改修されたとされている。
ヴィラ・ボルゲーゼの庭園は長い間非公式に公開されたのみであったが、1903年にローマの
自治体が買い取り、正式に公園としたのであった。
園内の主な樹木は、ヒマラヤスギ、モミの木、トキワガシ、クルミ、ナラ、ニレ、クリ、ポ
プラ、ボダイジュ、マグノリア、カエデ、など多種が採用され、草花もポピー、ヒナギク、ヒ
ヤシンス、ラン、シクラメン、アネモネなどが植栽されて今に続き保存されている。
庭園は、ボルゲーゼ美術館の両脇にも柑橘類の庭などが幾つも広がっている。ヴィッラの建
設当時この部分のスペースは、144の柑橘類の鉢が 24列に分かれて幾何学模様風に配置されて
いたという。
〇
ボルゲーゼ美術館へ入るのが今日の大事な予定であったが、まだ3時前であった。私は若し
やその時間に行けば3時でも入場させてくれるかもしれないと、淡い期待をして受付で掛け合
ってみたが駄目だった。
やむを得ず、美術館の裏に回って散策とベンチの昼寝で過ごすことにした、
朝から歩いていたので木陰のベンチでの昼寝は快適で当を得ていたように思う。欲張り行動
に対する神の恵みか――?
美術館の背後にある庭園は、カラタチの木に似た低木の垣根で通路を確保した散策路の中央
に噴水があった。まだ昼の暑さが残っていたがそろそろ終焉だろう。美術館の建物の長い影が
広い散策路に描かれていた。
外側の回路にはたくさんの大理石の立像が並んでいた。中には首から上が壊れたままのもの
もあったが、傾いた陽を受けて古い時代の豊かな時が偲ばれるようだった。
豪華なボルゲーゼ家のヴィラであった建物の庭園とはいえ、清楚なスペースを感じた。
私はその彫像たちの間に並べられたベンチでしばらくローマの空気を味わっていたが、横に
なることを思って、外の公園の木陰のベンチに移り、遅い午睡を楽しんだのだった。
5時少し前に美術館の地下の入場口に向かったが、その時は低い西陽に照らされた旧ボルゲ
ーゼ・ヴィラは輝いているようだった。
〇
ボルゲーゼ美術館
地下の売店と並んでいるクロークでカバンを預け1階の展示室から鑑賞を始めた。館内に持
ち込めるのはカメラ(許可される)など必要最低限のものだけである。
ボルゲーゼ美術館の建物は、建築家ヨハン・ファン・サンテンがボルゲーゼの依頼で建設し
たヴィラ・ボルゲーゼの建物がそのものである。
枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの幅広い美術品のコレクションは、古典美術、現代美術だけ
でなく、古代の彫刻も愛好していたと言われ、ヴィラには20もの部屋がある。殊にルネサンス
芸術やバロック初期の展示内容は、バチカンと並び世界屈指の作品があることで有名である。
1903年にイタリア国立美術館として公開されるようになった。
1階は彫刻ギャラリーであり、フレスコ、ローマモザイクの床の豪華さに目を見張ったが、
正面の部屋ではさすがに最も注目を集めるベルニーニの「プロセルピナの略奪」を見上げた。
1598年イタリア生まれのベルニーニは、ローマで50年以上に亘り、建築や彫刻作品など、様
々な分野で傑作を残している。作品はプロセルピナに恋をしてしまった冥界の王プルートが、
彼女を力づくでさらっていくところであるが、プルートは口元に微笑みを浮かべ、彼女の肢体
を抱える指先あたりは、大理石で彫られたものとは思えないほどしなやかでダイナミックな、
リアルな表現である。これはベルニーニがまだ22〜24歳頃の作品とのことだ。
隣に移ってダビデ像やアポロとダフネ像を観た。その部屋の天井画は、そのまま同じテーマ
の絵になっており、空間全体でこの神話の世界に取り込まれたかのような雰囲気をもたらして
いる。「アポロとダフネ像」は、天に向けてうねるようにからみあう男女の肉体の艶めかしい
質感や登場人物の表情、波打つ衣服など、見れば見るほどため息が出るほど美しい傑作と言わ
れている。まさに――。
ベルニーニは、ローマの“バロック美術”を代表するアーチストの一人である。
16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて、ローマでは、ベルニーニやボロミーニなど、バ
ロックの芸術家達が大活躍した。このことから、“ローマがバロックの舞台(バロックの都)
”と呼ばれるようになったのだった。
今日でも、街中の噴水やモニュメント、教会などの建築物にその素晴らしい作品を見ること
が出来る。一言で言うと、ダイナミックな動きや強烈なコントラスト、装飾の過多さなどが見
られるのがバロック美術の特徴で、人によって好みははっきり分かれる美術様式と言われるが、
視覚的に劇的な効果が狙える表現方法でとの説が強い。私は好もしく思う。
「アポロとダフネ像」 「プロセルピナの略奪」
ナポレオンの妹で、ボルゲーゼ侯爵と結婚した恋多き美女パオリーナ(ポーリーン)をモデ
ルとした ヴィーナス像があった。新古典主義の彫刻家、カノーヴァの作品である。
2階の絵画ギャラリーは、ヨーロッパの巨匠によるルネサンス美術が展示されていた。ここ
には、ラファエロ・サンティの有名な『十字架降下』があった。又、日本でも公開されたこと
がある、「一角獣を抱く貴婦人」や「キリストの遺骸の運搬」も鑑賞した。巨匠ボッティチェ
リはじめ、アントニオ・カノーヴァの作品、ティツィアーノ「聖愛と俗愛」や今回幾つも見た
光と影の魔術師カラヴァッジョの絵画「病めるバッカス」や「ダヴィデとゴリアテ」、「果物
籠を持つ少年」、などをここでも堪能した。
ラファエロ『十字架降下』 カラヴァッジョ 「果物籠を持つ少年」
風次郎
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