☆☆☆
フォーリインペリアル通りは好天の土曜午後の人出で溢れているように見えた。
アウグストスのフォロからトライアヌスの記念柱脇を通って、ベネチア広場に出る。ローマの各方
面へ延びる道はここに集中しているから交通量は多い。毎朝のランニングを欠かさなかった頃は
ローマに来ても駆け巡ったが、その都度このエマヌエル記念堂の下へ来ては、方向を決めていた
のだった。
正面のヴェネツィア宮殿の敷地内にはサン・マルコ教会が建っている。もともとここはこの教会に
任命された枢機卿(伝統的にヴェネツィア出身者が任命されてきた)の住居が起源である。
15世紀に館の主となった枢機卿ピエトロ・バルボ(のちの教皇パウルス2世)らによって大規模な
拡張が行われ、ルネサンス初期の特徴を有する複合建築物に発展、以後ヴェネツィア共和国、オ
ーストリアの大使館として使われた。今はパラッツォ・ヴェネツィア国立博物館となっているが、ファ
シスト政権期のベニート・ムッソリーニが官邸として用いたことで世界に知られている。
陽が西寄りになり、白く輝き、デザインも新しいエマヌエル記念堂と並ぶと、古びたルネッサンス様
式のヴェネツィア宮殿の壁は、日陰になって、とても古びて見える感じだった。
わたしはコルソ通りを渡って、その日陰の舗道を歩くことを選んだ。
コルソ通りを少し歩くと昨日来たコロンナ広場であった。コロンナ広場の名称は、マルクス・アウレ
リウス帝のゲルマニアとサルマシアの戦いでの勝利を記念して、AD 193年に建てられたこの大理石
の記念柱から採られているという。円柱には後に、シクストゥス5世によって取り付けられたパウロの
ブロンズ像もある。ここは円柱とデッラ・ボルタが創った噴水である。
マルクス賢帝の柱の下で小休止した。
コルソ通りで次に行きたかったのはアウグストスの廟であった。
アウグストゥス廟
アウグストス廟 復元図
ここへ来たのは今回が初めてである。
アウグストゥスが、BC31年にアクティウムの海戦に勝利し唯一の統治者としての地位を確立
して、ローマ市内の再整備に取り掛かった最初の施設である。長い期間放置されていたため内
部の大理石の壁面は略奪され、建設当時の美しさは失われ廃墟のように見えた。
当時の霊廟は、同心円状の建物に円錐形の屋根が被せられ、その上には糸杉が植えられ、中
央にはアウグストゥス像が乗っていたと推測されている。屋根で覆われていた下の部分が埋葬
室で、アーチ屋根に覆われた入口の左右には、バラ色の花崗岩で造られたオベリスクが建てら
れていたという。これらは現在はエスクイリーノの丘のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖
堂北西横(エスクリーノ広場)と、クイリナーレ広場の噴水の所に移設されている。
今回の滞在では私は7つの丘を巡る中、記念柱を見上げて馴染んだが、ここにあった二つの
オベリスクの元の場所を確かめたかったのだった。そこはスペースのみで、形跡はない。
霊廟は、高さ42メートル直径90メートル。現在は非公開で入ることはできないが、入口を入
ると、まっすぐ中央の埋葬室に通じており、遺灰の入った黄金の骨壷を納める3つのニッチが
あり、アウグストゥスを始めユリウス・クラウディウス朝の人々の遺灰が納められていたとの
ことである。
410年の西ゴート族によるローマ略奪で霊廟の屋根は破壊され、黄金の骨壷に入った遺灰は
散逸してしまったものの、中世には城として改築され、有力貴族コロンナ家の持城となったの
だった。12世紀、コロンナ家が教皇庁に敗れたため、城は廃城となり破壊され、現在のような
外観となったのある。
隣接するBC9年に造られた平和の祭壇(アラ・パキス)と共に1930年代、ムッソリーニが、
イタリアのファシズムをローマ帝国の輝かしい歴史と結びつけようという意図をもって整備し
公開した。ムッソリーニは自身が「アウグストゥスの生まれ変わり」として新しい偉大なイタ
リアを作り上げることを想定していたという。
この整備で、周囲に立ち並んでいた住宅を取り壊したため現在は空堀に取り囲まれた遺跡と
なっている。
廟の周囲には由緒展示があった
参考(霊廟に納められた人物)
*アウグストゥスの埋葬以前にここに埋葬された人々
マルクス・クラウディウス・マルケッルス(アウグストゥスの甥)
マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ
ネロ・クラウディウス・ドルースス
小オクタウィア(アウグストゥスの姉)
ガイウス・カエサル(アグリッパと大ユリアの子で、アウグストゥスの養子)
ルキウス・カエサル(アグリッパと大ユリアの子で、アウグストゥスの養子)
初代ローマ皇帝アウグストゥス
*アウグストゥスの埋葬以後にここに埋葬された人々
リウィア(アウグストゥスの妻で、第2代皇帝ティベリウスの母)
ゲルマニクス
大アグリッピナ
Julia Livilla
ネロ・カエサル(ティベリウス帝の後継者候補)
ドルスス・カエサル(ティベリウス帝の後継者候補)
第2代ローマ皇帝ティベリウス
第3代ローマ皇帝カリグラ
小ドルスス(ティベリウス帝の後継者候補)
大ドルスス
小アントニア(クラウディウス帝の母)
第4代ローマ皇帝クラウディウス
ブリタンニクス(クラウディウス帝の子)
ポッパエア・サビナ(ネロ帝の妻)
ユリア・ドムナ(カラカラ帝、ゲタ帝の母。後にハドリアヌス廟に移される)
第12代ローマ皇帝ネルウァ
アラ・パキス
テレベ川寄りの平和の祭壇(アラ・パキチス)に入ってみる。
アラ・パキス
アラ・パキスはパークス(平和の女神)の祭壇。ラテン語で「アウグストゥスの平和の祭壇
」の意である。
BC13年ヒスパニアとガリアで大勝利を収め帰還するローマ皇帝アウグストゥスの栄誉を称え、
元老院が BC9年に「アウグストゥスの勝利によってローマ帝国に平和がもたらされたことを祝
って」奉献し、祭壇はローマ市民の宗教観を視覚化したものとされている。
また、ローマ帝国の軍事的優位による「パクス・ロマーナ(またはパクス・アウグスタ)が
もたらした平和と繁栄の象徴」とされ、それをもたらしたユリウス・クラウディウス朝の記念
碑ともされたのであった。
祭壇は本来ローマの北の郊外、フラミニア街道の西側でカンプス・マルティウスの北西の端
に置かれたが、テヴェレ川の氾濫原にあり、4メートルの沈泥に埋まってしまった。
イタリア政府はアウグストゥス生誕2000年記念事業としてその発掘を宣言し、1938年、ムッ
ソリーニはアウグストゥス廟の近くにアラ・パキスを収める建物を建設させ、「テーマパーク
」としてファシスト党の権威を示すべく推進したのであった。
現在の建物はアメリカ人建築家リチャード・マイヤーが設計した建物(アラ・パキス博物館
)で2006年に公開されたが、その現代的外観がローマの風景にそぐわないとして議論を呼んで
いる。
なるほどと思わせるガラス張り、スロープのファサード、とモダンな建物の中に午後の陽射
しを浴びて――祭壇のみが厳か――と言った感じだった。
アラ・パキス側のアウグストゥス廟の塀にはイベントの展示で廟の状況を開設したパネルが
数枚掲げられていたので、私はそれらを読み、廟をぐるりと眺めてからリペッタ通りをポポロ
広場へ向かった。
風次郎
* 『風次郎の世界旅』ローマ2018(15)へ
* 風次郎の「東京ジョイライフ」ホームページのトップへ
* 『風次郎の世界旅』 トップページへ戻る
* 風次郎の『八ヶ岳山麓通信』へ
* 風次郎の『善言愛語』へ