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風次郎のColumn『東京楽歩』 (No703T−180)
福寿院 鳳林寺延命地蔵 長善寺観音菩薩石像
寺町・高円寺(2)
高円寺に降り立って、由来の宿鳳山高円寺と駅に近い処にあった長仙寺に立ち寄っ
たのであったが、あらためて地図を眺めると、この辺りにはたくさんの寺が集まって
いることが分かった。事の成り行き序でに日を改めてぶらりと寺巡りをしてみた次第
である。
*
寺は中央線の南側地域に多い。先に尋ねた高円寺から少し南に下ると、同じ曹洞宗
の福寿院、そこに並んで曹洞宗寺院鳳林寺、と長善寺があった。さらに緑地つづきの
ように南側には西照寺、松応寺、宗泰院、長龍寺が軒を連ねているのである。
とりあえずはこれらの境内を拝見する。
曹洞宗福寿院
開山年代に二通りの説があり、1591年(天正19年)または1614年(慶長19年)、天
正説は江戸時代の「御府内備考続編」を、慶長説は明治時代の「寺院明細帳」による
ものの由、開山は雪底春積。
元々は江戸麹町(現・東京都新宿区四谷)に位置していたものを、1907年(明治40
年)に現在地に移転したとされている。
*福寿院の名称は各地にとても多い。都内でもすぐ隣中野区には真言宗豊山派の寺
院があり、足立区には、近い所に三つの寺が名乗っているとのことである。
曹洞宗瑞祥山鳳林寺
当寺は牛込御門外舟河原(現新宿区市ヶ谷飯田橋駅周辺)に永禄元年(1558)の草
創で、駒込吉祥寺八世松栖用鶴大和尚(1630年歿)が開山、旗本荒川長右衛門重照が
開基したと伝えられている。
寛永12年(1635)牛込に移転、明治7年(1874)西早稲田夾山寺を合併、大正3年当
地へ再移転した。現在山の手三十三観音霊場21番を称している。
本尊は釈迦牟尼仏(宋朝風蓮華上宝冠の華厳会釈迦如来像)開基後中興は同じく旗
本で御蔵奉行をつとめた長田新右衛門房重。その後寛永12年(1635)寺域が幕府御用
地となったため、あらたに牛込七軒寺町(現新宿区弁天町)に拝領地を得て移り、更
に明治末年弁天町通りが拡張されることになって寺域が狭くなり、 280年を過した牛
込から大正3年現在地に再度移転したとされる。明治7年には現新宿区西早稲田にあ
った夾山寺(吉祥寺末)が当寺に合併した。
境内には、家庭和合を守る愛染明王と厄除け子育ての延命地蔵尊を安置する二つの
お堂がある。四メートル近い大石仏延命地蔵尊は行者晴雲が願主となり諸国の神社仏
閣巡拝でうけたお札を納めるため、元文2年(1737)三百余の施主を募って戸塚の夾山
寺に造立された。明治七年(1874)同寺がここ鳳林寺に合併されて移された由である。
墓地には幕末の医家多賀谷楽山、書家画家の多賀谷向陵・酔雪、その門人の金井莎
邨等の墓があり、太田蜀山人の師内山賀邸も当寺に葬られ過去帳に名をとどめている
との杉並区教育委員会の掲示があった。
日蓮宗長善寺
曹洞宗の集まっている処かと思ったが、訪ねて見るとこの寺は、日蓮宗の寺院であ
った。鳳林寺の一画に隣接しており、静寂な佇まいを思わせた。
1590年(天正18年)、円立院日義によって開山され、元々は「実蔵坊」という名称
で、江戸谷中(現・東京都台東区谷中)にあったものを、二世日行の時に「長善寺」
に改称し、五世日成の時に谷中本町(現・荒川区東日暮里)に移転、1926年(大正15
年)、線路拡張工事のため、現在地に移転したとされる由。
境内には法華経を守護する30体の番神が祀られる三十番神堂が建立されている。
本堂前の日蓮聖人の銅像をはじめ、数多くの石像を見ることができ、また、随所に
蓮の花が咲き、季節になればお墓参りの方の目を楽しませてくれるとのことである。
墓地には徳川幕府の鍛金打物師として有名であった、家城源七のお墓が知られてい
る由であった。
曹洞宗普明山西照寺
前掲の寺溜りから少し南に寄った一画にも寺の門が連なっていた。
曹洞宗寺院の西照寺は、天正2年(1574)日比谷村(現千代田区内幸町)の漁夫が
海中より拾い上げた阿弥陀如来像が安置された御堂を、文竜和尚が開創開山したと伝
えられている。その後慶長17年(1612)芝金杉(現港区芝1丁目)へ移転、寛文5年
(1665)に至って芝白金台町(現港区白金2丁目)へ移転した。明治維新の討幕派放
火など数度の火災の遭遇した後、明治44年当地へ移転した。
江戸西方三十三所観音26番、本尊は釈迦如来坐像。境内は広いとは言えないが、
門構え参道など、古刹の雰囲気が伺えた。
境内にはここにも石造地蔵菩薩立像(通称とろけ地蔵)があった。
曹洞宗万寿山松応寺
明暦2年(1656)浅草八軒寺町(現台東区寿2丁目)に開創、開山は大松寺(現北区
西ヶ丘1丁目)5世悦州舜喜大和尚、開基は雪岩長卯大和尚である。ここも大正7年6月
当地へ移転してきた。
門前の道路わきに杉並区教育委員会掲示による松応寺の縁起が掲げられていた。
現在の本尊は聖観音坐像(戦火で本尊釈迦牟尼仏を消失したため)で、寺伝による
と、山門に掲げる万寿山の山号は江戸時代の高名な書家高玄融の筆になるものの由。
江戸時代の当寺は、与力・同心など武家寺として栄えていたが、墓地が狭小なこと
から大正7年6月、現在地に移転して来たとされている。
当寺の歴史については、昭和20年の戦火で全焼し、本尊はじめ、寺宝・寺録などの
全てを消失したため、詳細は明らかでなく、よって現在の本尊は、禅宗様式の濃い仏
像で、藤原時代の様式を模したと思われるふっくらした円満なお顔に特徴があるもの
を選定された、と記されている。
なお、当寺には「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政
学者佐藤信淵(1850年歿)の墓がある。
曹洞宗富聚山長龍寺
文禄2年(1593)に心岩舜応和尚が麹町四番町に開創、元和2年(1616)市ヶ谷左内
坂(新宿区市ヶ谷左内町)に移転した。さらに、明治42年、当地に移転してきた。
江戸時代は、開基である幕府御使盤河野氏をはじめ多くの旗本を檀家に持ち、長泰
寺、長昌寺、松雲寺(廃寺)の3ヶ寺を末寺に擁していたとされる。
本堂、山門等は古い建物の貫禄である。
寺伝によると、元は「長隆寺」であったが、開山した玄室宗頓和尚が本寺である雲
松院境内の池に住む竜に、「カツ」を授け小蛇と化したところを捉えて当寺の寺宝と
し、寺名の隆を「竜」に改めたと伝えられている。
旗本名家76家の菩提所で、代々住職は朝廷より勅賜号を賜る隆盛を極めた由であ
る。
小僧に化けて豆腐を買いに行った地蔵が、木の葉の銭を使ったため切られたとの言
い伝えの「豆腐地蔵」の俗称をもつ地蔵が安置されてる。
曹洞宗永昌山宗泰院
天正12年(1584)嘯山春虎和尚が麹町表四番町(現千代田区四番町)に草庵を結ん
で始まり、文禄2年(1593)に小田原万松院の格峰泰逸和尚を勧請して開山したとさ
れている。幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えられた。当地へ移転したのは明
治42年。堂々たる山門である。
ここにも杉並区教育委員会掲示による縁起が掲げられていた。
当寺の本尊は釈迦牟尼仏、寺伝によれば、上記に加え、元和2年(1616)に至り、
寺地が旗本の屋敷地と定められたため、市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転の後、
寺院の取締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられている。
当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家 350家とその出入商人などで、本
堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など
十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれている。
明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰えたが明治20年代には復興し、明治42
年、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転した経緯がある。
移転の際、本堂(宝暦7年(1757)建立)、寛延3年(1750)建造の開山堂は、その
まま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)と
ともに区内有数の古い建造物である。
なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」
が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士すずきは無念流の始
祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがある。
*
この地域は曹洞宗の禅寺ばかり、しかも大半が江戸城に近い地に開山し武士の檀家
によって開基を為してきた寺が移転してきた経歴を持つ寺であることを知った。
それぞれの寺院の歴史を紐解けば、尚々納得のいく史話があるものと思う。
風次郎
西照寺とろけ地蔵 松応寺本堂
長龍寺本堂 宗泰院山門
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