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風次郎のColumn『東京楽歩』 (No701T−179)
高円寺本堂
寺町・高円寺(1)
善福寺公園を歩いて、今ある善福寺は由来の寺とは別物とのことが解り、そして近くの吉祥寺
を訪ねると、吉祥寺に吉祥寺という名の寺はないと知った。沿線には私の住む国分寺の他に高円
寺という寺の名がついた駅があるが、その「寺」に関心が及び、訪ねることにした。
果たして高円寺には高円寺があった。
高円寺は、かつては高円寺村と呼ばれていたというが、それ以前の江戸時代初期には「小沢村
」であったそうな。
経緯を紐解くと、江戸幕府三代将軍家光が鷹狩りでしばしばここを訪れたことに始まる。村内
にあった宿鳳山高円寺を休憩に利用して寺院を気に入り、ついには境内に仮御殿が作られること
になって、その経緯から寺の名前が有名になり、さらに正保年間の頃に当地は小沢村から寺の名
前に因んだ高円寺村に変更されたのだと伝わる。
現在の高円寺はJR高円寺駅を中心に、高円寺北と高円寺南にわかれる。これは戦後の町名変更
に基づくもので、それ以前の高円寺は、宿鳳山高円寺を中心に駅の南北共に「高円寺」(旧高円
寺村)であったそうだ。
高円寺とその西側阿佐谷の間には馬橋(旧馬橋村)があり、馬橋が町域変更によって高円寺お
よび阿佐ヶ谷(阿佐谷)に併合された際、南北に町名が分かれたのである。馬橋三丁目は文士小
林多喜二が昭和初期に母や弟と共に暮らした処である。馬橋は小学校名、神社、バス停留所の名
として残されている。
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駅の南側を出て、ビルの間の坂道を7〜80m下ったところに宿鳳山高円寺はあった。
弘治元年(1555)中野成願寺3世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺である。本尊は観音
菩薩像で、室町期の作と伝えられる阿弥陀如来坐像も安置されている。
かつてこの地は、周辺に桃の木が多くあったことから桃園と称され、本尊は桃園観音、寺は桃
堂の名で呼ばれ、門前を流れた川は「桃園川」と呼ばれていた。
当寺が広くその名を知られるようになった家光の知遇の名残は、現本堂裏の高台を「御殿跡」
と呼ばれる茶室跡に由来するといわれる。境内にある茶園も家光の寄進と伝えられ、宇治から取
り寄せ、自ら手植えをしたとされる「お手植えの茶の木」は今も境内に見ることができる。
史跡録によれば、今日まで寛保2年(1742)、弘化4年(1847)、明治33年、昭和20年と4度も
罹災し、堂舎と共に古記録類の多くを焼失した。現在の本堂は昭和28年(1953年)に宮大工・中
村青雲により再建されたものである。
徳川家ゆかりの寺であることから「三つ葉葵の紋」を所々で見ることができる。
思ったより立派な参道を構えた境内であった、脇には開運子育地蔵堂があり、門柱に龍の細工
が施された石鳥居「双龍鳥居」を構えた稲荷社もある。双龍鳥居は西に1kmほど離れた馬橋稲荷
神社にもあり、さらに、品川区にある品川神社にある礎石に同じ石工の名が刻まれているという。
この鳥居はそれら東京三鳥居の1つといわれているとのことである。
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高円寺はさすがに寺町であった。駅の南口から中央の通りを挟んで西側には「長仙寺」という
寺があった。山門を入ると見事な庭が広がり、寛ぎを覚える寺院であった。
長仙寺は、中野宝仙寺の住僧であった真秀(享保6年1721没)が、宝永元年(1704)に創建さ
れ、日王山阿遮院長仙寺を名乗る真言宗豊山派の寺で不動明王が本尊である。
ここも、寛政8年(1796)本堂を焼失し、嘉永3年(1850)に再建された。昭和10年に本堂を
新築したが、同20年4月戦災のため堂宇を全焼、現在の本堂(寝殿造り)は、昭和44年に建立さ
れたものである。
本尊の不動明王像は室町時代の作といわれている木像55センチメートル程の立像である。また、
境内に安置されている如意輪観音(石仏)は、享保9年(1724)の造立で、裏に「高円寺村観音
講中同行男女百人」という銘文が刻まれている。観音様がほほを押え、いかにも歯が痛むような
お姿をしているので、誰いうともなく歯が痛むときお参りすれば、痛みを代わって受けてくださ
るとして近在の信仰をあつくし、人々から親しまれた。との、区教育委員会の掲示があった。
風次郎
長仙寺本堂
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