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風次郎のColumn『東京楽歩』 (No696T−176)
                                                                                                 

                                  
                                                荻外荘T

             荻外荘

                         荻窪にある荻外荘は太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇
                        に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた近衛文麿の邸宅であ
                        った。近衛は戦争末期には、成らなかったが、独自の終戦工作も展開していたという。
                         永らくここ荻外荘に居住していたの次男・通隆が2012年(平成24年)、逝去すると、地
                        元の町会長の連名で要望書が区に提出され、2013年2月、杉並区が敷地6071.69平方mと
                        木造平屋の邸宅409平方m)をを買い取ったのであった。
                         その後、邸宅の建物の無い部分が芝生広場に整備された簡易な公園として公開されて
                        いる。芝生は邸宅にあったものではなく、邸宅の池のあった部分を整地の上移植された
                        ものとのことである。
 
                         私はそこを訪ねるのは初めてであったが、平成28年(2016年)3月には、「荻外荘」
                        は昭和前期の政治の転換点となる重要な会談が数多く行われた場所として、国の史跡に
                        指定されており、足を運んでみたいと向かった次第である。
                         芝生では近隣の幼稚園児たちらしいこどもが陽を浴びて遊んでいた。公園の先奥に当
                        たる高台に、彼の御仁が好んだと言われる見通しの良さそうな平屋の邸宅が伺えた。
                        近く本格的に整備されると言うから、歴史の跡を偲ぶにはさらに興が増すであろうと
                        思う。

                          「荻外荘」の名で知られるこの邸は、東京帝国大学医科大学教授(現 東京大学医学部)
                        や宮内省侍医頭(大正天皇の侍医頭)などを歴任した入澤達吉の荻窪別邸として昭和2年
                        (1927年)に建てられたものだとのこと。設計を担当したのは、義弟の伊東忠太で、日
                        本における建築学、とりわけ建築史学の開拓をおこなった人物として知られている。
                         入澤の荻窪別邸は建築当初、休日を過ごすための別荘として建築されたのだが、昭和
                        11年(1936年)、入澤は小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)にあった本邸を売却して、
                        ここを本邸とした。漢詩を好んだ入澤は、同邸宅を「楓荻荘(ふうてきそう)」、建物
                        を含めた一連の敷地を「楓荻凹處(ふうてきおつしょ)」と名付け、好んで居住したと
                        言われる。

                         内閣総理大臣就任に伴う訪問客の多さから逃れるため、東京郊外に邸宅を求めていた
                        近衞文麿は、入沢を口説き落として1937年(昭和12年)、この「楓荻荘」を購入したので
                        あった。南に斜面をもった高台に立地し、近くは善福寺川から遠くは富士山までの景勝
                        を一望のもとに見渡せるこの別荘に惚れ込んだという。
                         近衞入居後、「楓荻荘」は近衞の後見人であった西園寺公望のよって「荻外荘」と名
                        付けられます。1938年には邸宅の北側に蔵と別棟が増築され、住まいの「書斎」と「寝
                        室」は同年から1944年頃に改修をされたものとのことである。
                          「荻外荘」は近衞家の生活の場であると同時に、第二次近衞内閣の基本方針(ドイツ
                         ・イタリアとの提携強化を含む)を話し合った「荻窪会談」(昭和15年(1940年)7月19
                         日)や「荻外荘会談」(昭和16年(1941年)10月12日、対米開戦を回避するべく開かれ
                         たが、アメリカの要求する中国大陸からの陸軍撤兵を陸相の東條が拒否したため、第三
                         次近衞内閣は総辞職することになった。)の場となるなど首相官邸に準ずる政治空間と
                         して機能したのであった。
                          昭和20年(1945年)、太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣し、
                         大日本帝国憲法改正に意欲を見せた近衞であったが、戦犯容疑によってGHQによりA級戦
                         犯に指定され逮捕命令を受け、出頭期限の同年12月16日早朝にこの「荻外荘」の書斎で
                         自決したのであった。
                           「荻外荘」はその後も近衞家の生活の場としてあり続けたのである。

                          昭和35年(1960年)、多くの政治会談の場となった「荻外荘」の玄関棟・客間棟は豊
                         島区に移築され、荻窪に残った部分は、近衞家による小規模な改修が繰り返し行われて
                         現在の姿となっているとのことである。

                          近衞文麿の人間性や、生き方については、現代に至って理解、同情を得られる点があ
                         るように思う。史跡として整備され、邸の公開を待つばかりである。
 
                          *(参考)指揮者・作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、大山柏は妹婿、徳
                            川家正は従弟にあたる。また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細
                            川護煕と、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務めた近衞忠W、島津家
                            第32代当主・島津修久は外孫に当たる。

                                                                         風次郎

    
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