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風次郎のColumn『東京楽歩』 (No665T−169)
国分寺史跡樂歩(10)
史跡周辺(2)尼寺北域
伝鎌倉街道 国分尼寺跡及び北辺地域
国分尼寺の西側には伝鎌倉街道が走り、北側に広がる国分寺罫線に上っていく。
街道を挟んだ先は市民の桜の憩いの場である黒鐘公園から武蔵台の森林公園が広
がっている。
尼寺の北側はなだらかな山になっており、鎌倉街道はそこに掘割を入れて、切り
通しで作られた故、今日に当時の姿を顕に見せているのであろう。
そこを上り切ったあたり、丘上に伝わるのが祥応寺跡と塚である。
4、伝祥應寺跡(祥応寺とも表記される)
この伝祥應寺跡は切り通しで作られた「伝鎌倉街道」の西側の丘上にある。
この寺院跡は国分尼寺の一部とも考えられていたようだが、近年の調査によって、
鎌倉時代の末期に建てられた寺院跡と判明し、市内にある黒金山祥應寺(黄檗宗=
禅宗)の前身であると考えられるようになった。
土塁と溝で区画され、現存する礎石の分布から東西9メートル、南北18メートル
ほどの規模の建物があったと考えられ、出土品に鉄製風鐸、板碑、銭貨などが見つ
かっている。また府中市の善明寺にある鉄仏はここの寺にあったものとも伝えられ
ている。(善明寺の鉄仏は恋ヶ窪の阿弥陀堂にあったとの説もある。)
* 鎌倉時代中期、ここ伝祥應寺跡地(黒鐘公園北方)に起こった祥應寺は、開
山由緒が不明であるが、跡地から発掘された板碑から阿弥陀信仰の盛んな寺院であ
ったようである。
江戸時代の地誌(武蔵名勝図会)によると、地元の住民が跡地から鉄の阿弥陀像
二体を掘り出し、のちに府中の六所宮(大國魂神社)に阿弥陀堂を建てて祀った由。
鉄(くろがね)の仏が掘り出されたことからこの地を「黒金」と呼び、祥應寺の
山号はこの地名に由来するといわれている。
享保2年(1717年)、国分寺村名主本多家が廃寺となっていた祥應寺の再興を発
願、黄檗宗の僧恢門道頂禅師を懇請し再興した。江戸幕府八代将軍徳川吉宗の享保
の改革にともない、国分寺村名主本多三左衛門の子、儀右衛門と仲右衛門の兄弟に
よって本多新田(現・国分寺市本多)が開拓され、享保11年(1726年)、住民の菩
提所を設けるにあたり祥應寺の引寺が許され、祥應寺は万葉植物コノテガシワの古
木とともに跡地から現今の地に移されたのであった。
5、塚
街道跡の切り通しの東側に上ったところには、「塚」と呼ばれる広場がある。
古墳のような、底面一辺約22m高さ3m、頂部一辺約7mの方錐体をしていて、
国分寺に関係した土塔とも考えられていた、しかし、二度に及ぶ調査の結果、中世
種々の祈祷のための修法壇跡であり、伝祥應寺との関係を有するものと推考される
とのことになった。
北側の敷地が民地に掛かり整備が行き届いていないが、今後さらに究明されるこ
とであろう。
風次郎
伝祥應寺跡と伝鎌倉街道を隔てた処の塚
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