滑走路側からのリビングストン空港建物 ヨハネスブルグ空港ロビー
強烈な日差しのリビングストン空港であった。空港建物の空調に体の汗が癒されて有難かった。
面倒な出国手続きや荷物預けも、慣れて来たのか億劫に感じないほどに済ませて、ひとつしかない搭
乗待合室が開くのを待った。ブリティッシエアー(BA)のヨハネスブルグ行はまた1時間も遅れた。
昼食は機内食を宛がわれることになっていたので、少し空腹を覚えたが、小さな空港でカフェやダイ
ニングも無く、ロビーの窓から陽に照らされる空港の舗装面を眺めながら待つしか仕方なかった。
やがて搭乗待合が開き、間もなくゲートの手続きも始まって、照り返しが眩しい路上を歩いてBA機に
搭乗した。ヨハネスブルグ行BA6292便は、来た時と同じB737型機であった。
1時間45分の飛行であったが、昼食のサンドウィッチとコーヒーで腹が落ち着くと、ついつい疲れ
に眠りを誘われ着陸態勢の案内で目が覚めた。ヨハネスブルグは雨上がりの様子だった。
ヨハネスブルグ・オリバー・タンポ空港に着陸した。
ここでの手続きもスムースに済ます事が出来、大型のバスに乗った時はゆったりした気持ちになって
いた。
いよいよ南アフリカ共和国での滞在である。
ヨハネスブルグは大きな商業都市であるが、首都機能は持っていない。南アフリカは首都機能をプレ
トリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させており、各
国の大使館をプレトリアに置いていることから、国を代表する首都はプレトリアと認知されている。
バスは夕暮れのヨハネスブルグから首都プレトリアに向かって行った。
この国は、10月から 3月は夏期、冬期は5月から8月の由。地域による差はあるのだが、一年を通じて
比較的温暖で日照時間が長いところとのことである。東部の海岸は暖流のモザンビーク海流が流れてい
るために暖かく、西部の海岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらないという。
そして、金やダイヤモンドの世界的産地で有名である。民主化後の経済発展も注目されていて、2010
年の GDPは3544億ドル(約30兆円)、アフリカ最大の経済大国である。私達が今までいた国々とは規模
も異なり、アフリカ唯一のG20参加国でもある。
かと言って、日本から遠い国への疑心も過ぎる。エイズの蔓延、教育水準の低い非白人の貧困、治安
の悪化など懸念材料も多い。かつては有色人種に対する人種差別で知られ、それはアパルトヘイトと呼
ばれる1994年までの合法的な政策によるものであったのだ。
人口は約5000万人。エイズによる死者や白人層の国外流出が多いため、他のアフリカ諸国に比べ
ても人口増加率は低く、人口が減少する年もあるようだ。平均寿命も年々低下しており、かつて60歳代
であった平均寿命は、2009年の統計で49歳であった。黒人層に限ればさらに低くなるという。
歴史を紐解いてみると、
このあたりには、紀元前数千年頃から、狩猟民族が居住していたが、ヨーロッパで大航海時代が始ま
った15世紀末の1488年、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し
た。さらに、1652年、オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがこの地に到来して中継基地
とした喜望峰は、航海上の重要な拠点となったのであった。気候も比較的ヨーロッパに似ていたから、
以後オランダ人移民は増加し、18世紀末にはケープ植民地が成立した。
そこへ金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来、1795年にイギリスのウィリアム・ベレス
フォード将軍がケープタウンを占領し、配下に置くことになる。
イギリスは奴隷制度を廃止したが、奴隷制に頼っていたアフリカーナーの農業主はこれに反発。さら
に先住アフリカ人諸民族とも争うこととなった。そして、イギリスが南アフリカ全土の領有を求めるに
至って、二度に亘るボーア戦争に発展したのであった。
1910年 5月31日、ケープ州、ナタール州、トランスヴァール州、オレンジ州の四州からなる南アフリ
カ連邦が統合され、イギリス帝国内のドミニオン(自治領)としてアフリカーナーの自治を確立してい
く。
だが、それからも人種差別法の制定は続いた。1948年にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を
基盤とする国民党が政権を握り、ダニエル・フランソワ・マランが首相に就任すると、国民党はアパル
トヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していく。国際連合の抗議やアフリカ人民評議会などの
団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかったのである。
1958年にマランに続いてヘンドリック・フルウールトが首相に就任すると、南アフリカは1960年代か
ら1980年代にかけてさらに強固なアパルトヘイト政策を敷いた。
他方、人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議 ( ANC) による民族解放運動が進みつつあった。
しかし、アパルトヘイトは執拗であった。1961年にはイギリス本国からも人種主義政策に対する非難
を受けたため、イギリス連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリ
カ共和国と定めたのであった。(この際日本人は白人ではないにも関わらず白人であるかのように扱わ
れる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深い繋がりを持つことになっ
た)
1980年、隣国ローデシアはローデシア紛争の末に白人政権が崩壊し、新たに黒人国家「ジンバブエ」
が成立したことから、南アフリカ国内でも反体制運動が激しくなり、さらにそれまでの反共的姿勢から
南アフリカを優遇していた西側諸国からも国際的に経済制裁を受けて、南アフリカ内外で反アパルトヘ
イト運動が高まって行く。
1994年4月に、同国史上初の全人種参加の総選挙が実施され、アフリカ民族会議 (ANC) が勝利。ネル
ソン・マンデラ議長が大統領に就任する。副大統領に、ANCの ターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラ
ーク元大統領が就任。アパルトヘイト廃止に伴いイギリス連邦と国連に復帰したのであった。
マンデラ政権成立後、新しい憲法を作るための制憲議会が始まり、1996年には新憲法が採択され国民
党は政権から離脱した。アパルトヘイトが撤廃された21世紀になっても、依然として人種間失業率格差
が解消されないでいた。しかし撤廃後20年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡して、白人・黒人
間の失業率格差は縮小しつつあるといわれている。
アパルトヘイトはこの国(アフリカ南部と言い換えても良い)の歴史上の汚点と言わざるを得ないで
あろう。
バスのフロントに大きな白いビルが見えてきた。それがプレトリアが誇る南アフリカ大学であった。
建物の上部に "UNISA"の文字をかかげた偉容である。1946年、大学通信教育のカリキュラムを取り入
れ、現在総学生数30万人を擁するアフリカ最大の大学に成長している。
アパルトヘイト政策を実施していた当時においても黒人の入学も可能で、現ジンバブエ大統領のロバ
ート・ムガベもここで学んでいる。
1873年、『喜望峰大学』(英語: University of the Cape of GoodHope)として開校され、1916年に
「南アフリカ大学」に改称された。当初はオックスフォード大学とケンブリッジ大学へ入学するための
予備教育機関に過ぎなかったとのであった。
夕闇が迫っていた。街路にも灯りが灯される頃、バスはシェラトンプレトリアホテルに到着した。
19時を過ぎていた。
夕食をホテルのビュッフェで済ませ、早めに床に就いた。
風次郎
アフリカ南部の旅(9)へつづく
プレトリア シェラトンホテル ホテルの窓から大統領官邸が見えた
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