「喜望峰」標識は記念撮影で大賑わい
30分程バスが走ると海岸の草原の彼方に喜望峰が見えてきた。この旅の最後の観光地である。
喜望峰がアフリカ大陸の最南端といわれることが一般的だが、実際には東南東へ約 150km離れている
アガラス岬が最南端である。バスの中でベンさんのそんな説明があった。私達は先ず喜望峰を訪れ、そ
の岬の先端ケープポイントの灯台に登るのである。
外は強い風が吹いていた。風はここの地名にも関わりのある名物だ。
風を受け止めながら、ケープタウン建設の草創期を思う。
1488年、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスは到達したものの、アフリカの南は断崖ばかりがあり、
そこで海が断絶していると恐れられていた時代のことである。彼は、どうやらインドの方に抜けている
らしいこの岬を見つけたのであったが、彼が岬を見つけたときは嵐で周辺があまりにも荒れる海域で
あったため、ここを「嵐の岬」と命名されたのだという。
しかし、この航路の発見は香辛料貿易のルート短縮につながったため、後にポルトガル王ジョアン2
世によって「希望の岬」と改められたのである。
世界を探検したヴァスコ・ダ・ガマは、1498年、この希望峰を経由してインドに到達した。さらに1517年
には中国の広東にまで入港到達している。
インド洋とペルシア湾での海上ルートは、ポルトガルの独占となり、アジアとポルトガルを直接結び
つける海上交易路が完成。シルクロードに代わる海の道が開けることに繋がっていく
。
のち1652年、オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが植民、ケープタウン建設の草分け
となったのであった。当時、周辺に居住していた先住民族は「ホッテントット」とオランダ人から呼ばれ
た(現在はコイコイ人)。
しかし、1806年のナポレオン戦争でこの地はイギリスに接収され、1814年の英蘭協定でイギリス領と
なっている。
風は強いが快晴の空は何処までも澄み、綺麗だった。
だが、「希望峰」の海岸はごろごろ石や岩だらけであった。そのごろ石の中にある標識板の周りは観
光の人で溢れるほど。皆競って断崖の下のこの標識のところで記念撮影をしていた。
ベンさんが指さす方を見ると、何と水打ち際に巨大なクジラの死骸が打ち上げられていた。この海域
はザトウクジラ、ミナミセミクジラ、ニタリクジラなどが回遊するため、時にはこんなこともあるのだ
と言う。遺体は燦々とした陽に照らされながら、野鳥が啄まれつつ、波に洗われていた。痛ましいが生
きとし生けるものの必然、悲しい一面ではあった。
私たちは、少しバスで移動してフライング ダッチマンと名の付いたケーブルカーに乗り、200 m の高さ
がある喜望峰の崖の上に立つた。
風で帽子を飛ばされぬように抑えながら、砕ける波と渦巻く潮の流れを、かつてインドを目指す船乗
りたちがこの海岸を航海した時に感じた恐怖を想像しつつ見下ろすことができた。
そこには古い灯台があり、ここから南極まで海のほかに遮るものはないという大西洋の広大な眺めが
広がっていた。北東側はインド洋であった。
ツー オーシャンズ ( Two Oceans) という名のレストランがにぎわっていたが、食事をしながら海を
眺めた。時にはクジラの回遊する景色にも会えると誘いがパンフレットに書かれていた。
眼下に岬の突端=ケープポイントに続くハイキングロードが見えた。岬はかなり細く、両側はかなり
切り立った崖であったが、2〜3のグループが歩いて行くのが見えた。
風が強く少々危険そうだが、天候は申し分なく、気持ち良く汗をかいているように見えた。私達が先に
訪れて来た喜望峰の標識板に通ずる散策路も見えた。こちらは比較的なだらかで広い緑の半島丘に
なっており、歩いている人も多かった。
私はケーブルの出発点までの散策路を歩いて下りた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
観光を終えて、私達のバスはケープタウンへの帰路をとった。
ごつごつとした岩原の景色が続いたが、時々野生動物の姿が眼に飛びこんできたのにはビックリして
眺めた。アンテロープ(日本のカモシカに似ていた)とシマウマが見えた。私達が見たのはケープヤマ
シマウマでダチョウやバブーン (ヒヒ)、なども現れるとのことであった。
7,750ヘクタール の広さの岬には、多くの野生動物ばかりか、数百種の鳥類と1,100 種を超える植物が
生息しており、自然を愛する人々にとって理想の場所のようである。ハイキングを楽しみつつ、草原では
トカゲや、ヘビ、カメなどに遭えるのは必定とのことである。
風次郎
アフリカ南部の旅(15)へつづく
打ち上げられていた憐れなクジラ 下のケープポイント
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