到着したHilton CapeTownCityCenter
ケープタウンは南アフリカでもっとも人気のある観光地である。
テーブル湾に面する同市はその港が世界的に有名で、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年に喜望峰回りの欧
印航路を開発して以降、ここは欧州と東洋とを結ぶ主要航路となった。もともと東アフリカ・インド・東アジ
ア貿易に携わるオランダ船の食料基地として建設された処で、それはスエズ運河が1869年に建設される
200年以上も前からのことであった。
オランダ人ヤン・ファン・リーベックが1652年に到達し、南アフリカで初めてのヨーロッパ植民地を
設立するのであるが、急速に成長した結果、ヨーロッパの前哨基地(キャッスル・オブ・グッドホープ
)という元々の目的を超えて人種差別問題等に至るなど、その後の歴史を辿ってしまったとの評価も
ある。
1795年、フランス革命の余波を受け、イギリス艦隊がケープタウンに上陸し、イギリスの占領下に置
かれた。
その後一旦オランダに戻されたが、1806年には再びイギリス軍がケープを占領し、1815年のウィーン
議定書によって、ケープタウンは正式にイギリス領となったのであった。
イギリスは移民によって占領政策を進めたが、やがてボーア戦争を経ることとなり、1902年にボーア
戦争が終結。のち、イギリス領となった4植民地に大同団結の動きが起きる。やがて1910年にはイギリ
スの自治領であった南アフリカ連邦が成立すると、ケープタウンには南アフリカ連邦の首都機能の一つ
「議会」が設置されたのである。
現在、ケープタウンはヨハネスブルグ、プレトリアについで南アフリカ第2の経済規模を持つ大都市
圏でありつつ、世界の海上交通上の要衝である。船舶が多く集まるため、造船会社や海運業者のオフィ
スも多く、船舶の修繕も主要産業の一つとなっている。
また、ケープタウン周辺は温暖な気候と適度な降雨に恵まれて、果物や農産物の一大産地となってい
る。近郊のステレンボッシュを中心とするワイン生産地帯で生産されたケープ・ワインは、近年世界市
場で高く評価されるようになり、輸出が増加している。
市内人口は2011年国勢調査によると43万人、周辺地域と合わせた大都市圏人口は374万人であった。
南アフリカに始めて白人が入植した土地であり、のちの内陸部へのすべての開拓の起点ともなったの
で、南アフリカの白人からは「マザー・シティー」(母なる都市)との愛称で呼ばれてもいる。
但し、アパルトヘイトは撤廃されたが、後、ケープタウンに大量に国内や周辺諸国から住民が流入し
ていた人々の多くは失業者となり、治安が急速に悪化したのである。ヨハネスブルグほどの治安悪化は
見られないと言われ、昼間なら徒歩での外出も可能ではあると言われるものの、犯罪は増加している。
日本の外務省からは、市の中心部(シティ・ボウルおよび北西部)ならびに市東部の貧困層が多く住
むケープ・フラッツ地区には注意喚起が発出されている程である。
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最後の訪問地ケープタウンの朝を迎えた。11月3日であった。
窓の外は曇り空で、6時を過ぎても窓から見る広いブリーストリートを行く車はライトをつけていた。
フロントへ降りて、散歩に出ようとしたが、3人もいる警備員から“やめた方が好い”と言われ、拘
ることも無いので諦めた。そんなに治安が悪いのだろうかと?――。
テレビのニュースでは、昨日のプレトリアの労働条件改善デモのニュースをやっていたが、南アフリ
カの政情もアパルトヘイトを実現した主流派「アフリカ民族会議(ANC)」内部でももつれが出ていると
聞いていたので、治安的には悪影響があるのかも知れない。ホテルの2FにはPCのコーナーがあった
ので立ち寄って開いてみたが、現地情報はつかみにくくて駄目だった。
風次郎
アフリカ南部の旅(12)へつづく
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