風次郎の世界旅
 アフリカ南部の旅
(10)

      
                  ヨハネスブルグのジャカランタ          

10.ヨハネスブルグ

 
                        プレトリアからヨハネスブルグは殆ど市街の真っ直ぐな道であった。主要都市と主要都市を結ぶ幹線
                      らしく整い、沿道にはビルが立ち並び、今や近代化された何処の国とも似通った都市風景であった。
                       バスは1時間の余走り、ヨハネスブルクの市街に入ると、幹線を少し外れて閑静な住宅地へ入って行
                      った。そこにもプレトリアで見たと同じような、豪勢な住宅地があり、縦横の道路はジャカランタの満
                      開の花に包まれていた。
                       私達はもう一度バスを降りてジャカランタの花を楽しんだ。この花を目当てにこの旅に出掛けて来た
                      はなは、枝を引きよ寄せて写真を撮るなど爛漫のジャカランタを愉しんでいた。
                       近くには小学校らしい学校があり、体育の時間か校庭に子供達の姿もあった。それは何処の国にも見
                      える平和な光景であった。バスはもう1カ所のジャカランタ観光地点を訪れた。
                       私達は1日のジャカランタの「お花見」を2都市で満喫したことになった。

                       まだ時間に余裕があるからと、萩原さんとビッキーさんが、ヨハネスブルクの中心市街のティータイ
                      ムを案内してくれると言う。ヨハネスブルグの滞在は短かったので、私はヨハネスブルクの空気が少しで
                      も余計に感じられることを嬉しく思った。
                       市内の中心街で停車したバスを降ると、そこはマーケットシアターと呼ばれる繁華街で、ショッピン
                      グモールを中心の商業地であった。それも今や世界中どこへ行っても目に入るブランド店があり、マク
                      ドナルドやサブウェイの看板が目立っていた。そういうものを見ると、グロウバルとは世界の町場風景
                      の単一化のように感じたりする。風土のニュアンスを見つけ出すには訪れた者がその気になって探さな
                      いと見つけることが難しいように思う。反面使い勝手には便利だ。
                       私達はモール内の賑やかな広場に面したブティック風のデッキカフェに一緒に席を得た。暫く振りに
                      近代都市風の雰囲気の中に立ち返ったような気がした。
                       斜めの夕陽が入ってくる照明を浴びてながら、テラスで過ごしつつ飲むコーヒーは美味かった。

                                               ○

                       ヨハネスブルグ(Johannesburg、英語読みだと「ジョウハニスバーグ」、アフリカーンス語読みだと
                      「ヨハネスブルフ」)は、ハウテン州の都、同国最大の都市(人口は2011年で約443万人、都市圏人口は
                      755万人で、同国第1位、アフリカでは第4位)である。よく南アフリカ共和国の首都と間違われるが歴
                      史的に金鉱の街、産業都市である。名称の由来も1886年の金鉱発見の際に測量のため派遣されたヨハネ
                      ス・マイヤーとヨハネス・リシックの名に因んでいるといわれる。「Burg」は、アフリカーンス語の古
                      語で「要塞都市」を意味するが、ほぼ同じ「Burg」呼称の都市はヨーロッパにも多い。

                       1886年、ウィットウォーターズランド(『白水の峰』を意味するアフリカーンス語)の金鉱脈が発見
                      され、アフリカ各地からの移住者が増加すると、主導権を確保したいイギリスと現地ボーア人との対立
                      は激化し、ボーア戦争(19世紀末から20世紀初頭)に発展した。
                      結果イギリスはボーア人に勝利して金鉱をおさえ、その後、イギリス人とボーア人は和解した。
                       しかし、黒人の権利を踏みにじり、鉱山労働などで酷使するアパルトヘイト政策(1948年〜1994年)
                      を施行したのであった。それにより、市内はアフリカーナー(ボーア人)とイギリス系が住む白人居住
                      区と、アフリカ系やカラードなど有色人種が住む黒人居住区に分断されてしまう。
                       その後、民族運動、暴動等数々の紆余曲折を経るが、1959年のバントゥー自治促進法の公布、1976ア
                      フリカ系住民による大規模な暴動(ソウェト蜂起)などによって1993年にようやくアパルトヘイト政策
                      は全面廃止されるに至ったのであった。アパルトヘイトは実に46年間の長きに渡ったのであった。
                       一方、この廃止を受けて旧白人・黒人居住区間の移動制限が撤廃されたため、白人住民は郊外へと脱
                      出してしまい、企業の多くも撤退や移転するなどのために、アフリカ系・カラード住民は職を得ること
                      ができくなるという事態も置きて、一部の失業者による犯罪が多発し、市内の治安が極端に悪化すると
                      いう反作用が出ることになった。
                       2000年、周辺の自治体と合併し近代化を目指したヨハネスブルグ市都市圏が発足するが、依然として、
                      経済や治安の悪化、貧困、エイズ問題などの不安材料は残り、近代都市から国際都市への歩みを進めて
                      いるヨハネスブルグの暗部であり続けている。
                       現在もタウンシップと呼ばれるアパルトヘイト(人種隔離)政策によって、強制的に移動させられた
                      旧有色人居住区(黒人、インド系、マレー系、混血の人々が住む場所)が存在し、彼らは、郊外にある
                      この地区に好んで住まざる得ない現状があると言われる。

                       ヨハネスブルグは、金鉱山の開発によって成立した町である故、現在でも市の境界線近くで多くの金
                      鉱山が操業しており、鉱山会社の殆どもヨハネスブルグに本社を置いているようだ。が、1世紀以上に
                      わたって年間生産量第1位を誇ってきたこの国の金鉱山は、採掘坑道の長大化、深部化によるコスト増
                      により、生産量は減少の一途を辿っていると言われる。
                       今や、アフリカを代表する世界都市の一つとして、現在のヨハネスブルグは主産業を商業及び金融へ
                      と切り替えつつあるようでもある。すでに、GDPは 1100億ドルを上回り、アフリカ最大の証券取引所で
                      あるJSEの存在など金融センターとしての評価も高まりつつある。

                       但し、ヨハネスブルグは、世界で最も治安の悪い犯罪都市の一つとの悪評もある。この背景には失業、
                      底流にはアパルトヘイトの傷跡を認識せざるを得ないだろう。
                       現地では、「タクシーの運転手は、強盗と一緒だ」との風評もあるし、ある駐在員経験者はは5年間
                       一度もタクシーには乗らなかったとも言う話も聞いた。
                      犯罪の多くは黒人による旧黒人居住区での犯罪で、ハイエナが防犯対策になっているなど突飛な話も
                      あるようだ。
                       ただ、殺人件数が日本の数十倍あると言われたのはつい数年前までのことで、街は懸命に警備を強化
                      するなど、治安の改善に注力しているようである。
                       経済不安や治安問題はまだ残っているものの、街にはショッピングセンターができ、いくつかの廃墟
                      だったビルは、観光用に近代化してオープンするなどしているなどしている。
                       短い滞在ではあったが、私には近代化された都市そのものとの印象に抵抗はなかった。

                                                 ○

                       ゆっくりとティータイムで寛いだ私達は、そのあとヨハネスブルクのオリバー・タンポ空港へ向かっ
                      た。その日の宿泊地ケープタウンに向かうのであった。
                       空港には4時半頃到着した。国内線の搭乗手続きはスムーズに済んだが、搭乗待合室のガラス越しに
                      見る空は、日中あれほどの好天がと思うほどに、暗くなり風も出てきているようだった。
                       搭乗して機内の人となったものの窓には雨が当たり始め、雷が鳴った。ヨハネスブルグは雷の多さで
                      有名な処のようだから、これも天が施した旅行のお土産だったかも知れない。ついに機内待機は2時間
                      に及んだが、やっと飛び立ってホッとした。
                       水平飛行に移る前にガタンと大揺れがあってビックリしたが、あとは揺れも少なく、やがて機内食が
                      出された。チキンの簡単な弁当風な食事だったが、乗る前に到着後は食事が出来ないからとクラブツー
                      リズムからのり巻き弁当が配られており、一緒に食べた。これが実に美味かった。まさしく、全く日本
                      の御飯と海苔であった。

                       ケープタウン国際空港に着いたのは21時を過ぎていた。雨は無かった。
                      すぐにバスに乗り、22時半過ぎに街中にあるヒルトンホテルにいた。気疲れも加わったのか、眠気
                      が激しく、さっぱりと風呂を浴びへて時を惜しむように床に就いた。
                       このホテルにはスリッパが用意されていて、何となく充たされた気になった。
                     
                                                                          風次郎
                     アフリカ南部の旅(11)へつづく

    
      ヨハネスブルグ市内                  オリバー・タンポ空港    

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