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風次郎の世界旅
 懐旧の王国・中欧の旅
  [オーストリア・チェコ・スロバキア・ハンガリー]

music by ASAO虹の音色

       
     シェーンブルン宮殿
                                    

 (9)ウィーン滞在――その1―― 

             再びウイーンに着いた。夜の8時を廻っている。そう多くない南駅の前はネオンも少なく少し寂しい。
             さすがに12月の夜。駅に近い夕食の会場となるレストランまで歩くのがちょっと寒かった。
             5日前に、1泊してチェコへ向かっただけの滞在であったのだが、旅路にあってはとても懐かしい気分だった。
             夕食はミートローフであまり変り映えはしなかったが、昼間からあまり食べてなかったので美味しかった。はなの体調が快復し
            たのが私には何よりだった。
             ホテルルネッサンスは部屋こそオーストリアに到着した日とは変わったが、再泊であればこそ、何となく馴染んでゆっくりした
            気分になった。
             私は翌朝の散歩コースを案じて2日間のウィーン散策を楽しみにしながら床に就いた。

             翌朝4時に目が覚めた。ホテルの前、地下鉄の走る運河沿いに連なる華美なアパートが中世を物語る風に薄明かりに浮か
            び上がって綺麗だ。
             コートを纏って外に出る。
             ハプスブルグ家の繁栄にものを言わせて作り上げられたウイーンの街は、どこまでも美しさを整えて連なっているようだ。
             恐らく宮殿を華美にしてその勢威を示すばかりでなく、市民の暮らすための住居も王家が建築し、いわば市街地そのものを王
            家が所有し、市民に貸与するなどの使い方をしたのであろう。つまり、通りに連なる住宅に使われている建物をして、王家は国
            営アパート経営をしていたようなものである。 
             だからこそ、建物は皆宮殿に準じて装飾され、彫刻もいわゆる庶民の住宅とは思えぬ立派な飾り付けが施されているのだろう。
             あるいはまた、このような王家の城下に住める人々は特別であったのかもしれないが。

             ホテルの前にあるマイドリングハウプトシュトラーゼ駅の脇に掛かった橋を渡り、運河沿いに市街地中心部リンクまで伸びるシ
            ェーンブルン通りを北へ歩いた。その先にシューベルトが生涯を終えた場所があるとガイドブックに記されていたので、まずは私
            の向かう先である。
             10分も歩くと地下鉄の次の駅があり、広い道路の中央に緑地帯が続いた公園になっていた。さらに10分進むと道路は二股
            になり右側のシェーンブルン通りの先には教会があった。
             街の小さな教会だったが何気なく眺めていると、脇の入り口の壁に「FRANZ SCHVBERT」と名前が彫られマスクの描かれた
            プレートが掲げられていた。これは予想外の発見だった。そこには1928年11月21日午前にここで葬儀が行われたと刻み込
            まれていた。
             シューベルトの最後は突然腸チフスに冒されて、2週間の闘病の後、11月19日に兄フェルディナントの家で死去したとされる。
             (重い梅毒にかかっていたという説もある)まだ32歳になっておらず、前年には慕い尊敬したベートーベンの死に遭遇している。
             華やか?なモーツアルトの生涯に比べればとても寂しい一生であった。
             私は、偶然に発見したプレートの印象を仕舞いこんでカメラに収め、さらにシェーンブルン通りを進んだ。すぐに目当ての交差
            点があり、そこを右折する。
             その通りは事務機の店とオフィスがあるだけ、あとは民家らしい建物の続く普通となんら変わりない通りであった。
             30mほど行った左手の壁に、赤と白のリボン状の旗が掛かっており、その下にシューベルトが住んでいた家であること、彼が
             ここで1928年11月19日になくなったことが記されていた。「ここが兄、フェルディナンドの家なのだ」と私は納得した。
             ただそれが示されているだけ、ただそれだけのひっそりとした場所だった。
             意外だという思いと、これで良いのだという思いが頭の中で錯綜した。それは、幾多ウイーンで活躍した音楽家の中ではシュ
            ーベルトこそウイーン生粋の作曲家だったのである。世界に親しまれている大作曲家の由緒あるところであれば、もう少しの手
            厚さがあって見せてほしいように思った。
             私は何枚かの写真を撮りその場を後にした。世界の大芸術家も生活の在り様は大衆とそうは変わらなかったことを改めて心
            に留めるのだった。

             運河のほうに向かうと地下鉄のケッテンブリュッケンガッセの駅があり、市場が開店の準備で活気付いている。「ナッシュマル
            クト」と言われるところである。ちょっと立ち寄って覗くと真っ赤なトマトやきゅーり、大根などの野菜など割合馴染みのものがいっ
            ぱいあった。りんごは私たちの見慣れた大粒のものはなく、みすぼらしく見えた。りんごは日本のものが一番だと思う。
             その道路の向こう側が「マヨリカハウス」と、「メダイヨンマンション」。19世紀末ユーゲントシュタインと呼ばれる新しい様式の建物。
             オットー、ワーグナーによる壁面にいっぱいの花模様やメダルなど優美さが色彩豊かに表現されて並んでいた。この種の文化
            はフランスのアールヌーボーに影響されて中欧にもかなり広まったのである。
             時間を見計らって運河沿いの通りをホテルに引き返した。すでに朝のラッシュ時に近く、車の往来は激しくなっていた。
             早朝散歩の時間は一人で歩くには貴重なときである。その朝も有効に使うことができて、嬉しかった。

                                               ○

             朝食を終えてバスに乗る。今日の旅のスケジュールでは市内観光をして夜はオペラハウスのバレーを鑑賞することになっていた。
             まずシェーンブルン宮殿へ向かった。
             バスを降りたのは宮殿の広い正面ゲート前で、みんなで砂を鳴らしながら現地のガイドに従って宮殿へ向かった。砂の敷かれた
            広大な前庭の四周は菩提樹の木に囲われていた。

             ハスプブルグ家全盛の頃、レオポルド1世によって計画されたのは「ベルサイユ宮殿をしのぐ宮殿」であったそうだ。その後近
            代オーストリアの基礎をつくった辣腕女帝マリア、テレジアによって規模は縮小され、夏の離宮として完成された「美しい泉」との
            名を持つ宮殿である。
             こどもたちの住居にするための改造も行われたとのことで、部屋数は1441に及び、当時の使用人は100人を越えたと言われる。
            何と今は数室が民間に賃貸され、宮殿から通勤する人がいるという。余裕があるサラリーマンなら、ここに住み、広大な庭園(名誉
            の中庭を含めて庭園は日の出から日没まで市民が自由に出入できるとのこと)を毎朝散歩できるというのは素晴らしいだろうと思う。
             早口で、ハプスブルグ家の家系に精通しているガイドの婦人は物凄い勢いで歴代皇帝の名前を並べた。
             マリア、テレジアがフランツ1世との間に16人の子供をつくったことが語られ、その大家族であれば使用人1000人のことは理解
            に及んだが、ハプスブルグ家の皇帝統治はルドルフ1世の1273年に始まり、カール1世の1918年まで640年の長きに及んだ
            のであった。その間多くの皇帝の同じような名前が入れ替わり現れるので、頭の中に入れるのはとても難儀であった。
 
             その統治の実績は長く偉大である。
             彼のローマ帝国でさえも、カエサルにより確立された帝政がまずまずに維持できたのは400年である。
             統治には強い統率力だけでなく、慈悲の心がなければ求心力は生まれない。求心力は絶対条件で、それがなければ民の戦い
            への参加が得られないからである。
             元来、王様は象徴であると同時に民の求心力を伴った統率者でなければ、時代を担うことは出来なかったのである。
             これは現代の為政者にとっても変わらない客観的要素である。

             ハプスブルグ家は現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族王族であるが、古代ラテン人の有力貴族ユリウス一門でカエサ
            ルの末裔を自称したという。で、あれば自らローマ帝国をしのぐ大国家の樹立や繁栄を意識して統治を繰り広げたのであろう。
             しかし、で、あっても、数百年の長きにわたっての民心の掌握は並大抵のことではない。それだけ優れた王族であったことを歴
            史が証明していると思う。
             私はそれが民の求心力を得るに値する秀でた血統であろうと想像し、その痕跡に触れようと宮殿を歩いていった。
             外観はマリア、テレジアイェローといわれれば聞こえはいいが単なる黄色である。
             元の設計は金色だったとのことだが、テレジアの財政観が赦さなかったようだ。
             だが、この黄色は広大な自然の中には映える。少なくも金色よりは落ち着いた居城になったことだろう。
             中でも、やはり宮廷宴会が催された大ギャラリーの豪華さは印象に残った。私たちは建物左側の見学者入り口から入ったが、
            正面のバルコニー下に名誉の中庭に抜ける入城口があり、そこから直接、階段で賓客は部屋に入れるようになっている。
             大宴会で天井の帝政領図のフレスコの雄大な画がシャンデリアに照らし出された会場は見事であっただろうと思う。
             東洋の風景を壁に濃茶の漆塗に花鳥が金で描かれた「漆の間」はヨーロッパの王城に見る初めての東洋的雰囲気であった。
             フランツ、ヨーゼフ1世の執務室には愛妻エリザベートの肖像画があった。エリザベートはあちこちで見るが、やはりここにある
            姿が一番良いように思う。
             モーツアルトが御前演奏をした「鏡の間」や、悲劇の主人公として生涯を閉じるマリーアントワネットの部屋などを見た。


  
シューベルトのプレートを掲げた小さな教会の壁とシューベルトが逝った兄フェルディナンドの家

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