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朝食を済ませてバスに乗る。
今日はプラハを後にして「スロバキア」までのコースである。途中チェコとオーストリアの国境に近い山中の町、世界遺産「テルチ」
の町を観光することになっている。
少し曇っている冬空だが雨は降っていない。朝靄の過ぎた後は曇り空とはいえ遠くまでよく見通せて良かった。
車窓から田園風景を眺めていた。プラハを出てからハイウェイ並みの道路を走り続けていたが町らしい町が無かった。
2時間近くも走った頃、少し狭い田舎道に入っていくと民家のある部落のような所を2箇所ばかり過ぎてテルチの町に着いた。
テルチは山中とはいえ田園風景の中の旧い町であった。
チェスキークルムロフもそうだったが、広いヨーロッパには、山中に穏やかな往時の平和を物語る街並みが残っているようだ。テ
ルチも11世紀にボヘミアの王子が遠征してきて拠点としたのが始まりとのことである。
3つの池にぐるりと囲まれた地勢が自然の要塞をなしている。現在の町は大火の後丁寧に再建されたものとの事である。
池のほとりに城があり、ゴチックの聖ヤコブ教会とロマネスコの聖ドウハ教会が中央のザハリアーシュ広場の両脇に建っている。
他にイエズス教会があり、広場のなかに聖母マリアの像が目立っているのは敬虔な人々の集落であったことをあらわしているの
だろうと思った。
ザハリアーシュは大火の後町の復興を指揮した市長の名前だということであった。
世界遺産にもなっている街並みは彼の指揮で、全てルネッサンス様式かバロックにするよう呼びかけられ、城も含めた現在の景
観の街がつくられたのだそうである。
物語の舞台のように、まるで映画のセットの中に居るような雰囲気があった。広場は石畳が敷き詰められ、真ん中に住民が使っ
たであろう旧い鉄の井戸のポンプが記念碑のように残っていた。
広場の周囲に並ぶみやげ物店を巡ったりレストランで昼食をしてゆっくり過ごした。みやげもの屋の純朴そうな主人と交わした少
しばかりの会話が楽しかった。
ツアーはいよいよチェコを離れ、スロバキアへ向かう。
○
丘陵地帯を走る。
個々の家というより、家並みが統一されて、屋根の色、窓の形が整っている。
絵にしたいような景色が続いていた。
大きな森も林もなく、薄曇りの空の下に中欧の高原地帯、酪農の放牧地が続いていた。そんななだらかな起伏がどこまでも続い
ていそうな、高原に敷かれた道路を走っているのだった。
車窓に見える大きく掘った場所を見ると砂地だった。
道路が時々沼地や川に近づくとそのほとりに、少しばかりの立木を見ることができたが、他は草原ばかりで時々牛や羊などが草
を食んでいるのを見かけるほかに、動くものが見えないといった風景だった。
農家はたいていが丘の高いところにあり、それもポツリとではなく、10数軒の集落になってかたまっているようである。農家の建
物は概して住む家と納屋が2〜3棟あり、さらに、そこえ畜舎が並べば1家だけでも建物数が多い。そういった農家の点在がさら
に集落を作っている風景はおおらかで長閑に思われた。
牧場はきれいに草が刈り込まれて果てしなく広々としている。
農家の屋根も色さえ整えられてバランスよく、建物も廃屋やバラックは見当たらない。まるで観光バスの通る街道筋は、そのた
めに風光が手入れされているような印象を受けるのだったが、考えすぎだろうか。
隆盛ローマ帝国のころのドナウ国境警備地区だった時代、そして、中世から近世に至る間も、この地の統治権は周辺国に移り
変わり、人々の暮らしは揺れ続けたのである。
ボヘミアもモラビアも、遠く東はアジアや北はロシア、南オリエント、スラブの血も混じったことであろう。征服者としてそれぞれが
持ち込む複雑な文化の影に、庶民は少なからず、圧迫感の中で歴史を刻んだことであろう。
そんな前知識から、この地に対して私の持っていた認識は明るいものではなかった。だから、今日の曇り空はそんなことを思う
にふさわしい、などと思いを巡らせてバスに揺られていた。
ブラチスラバが近くなるにつれ、車関係の工場、電気メーカーの工場が見られ、2箇所ばかり大きな工場集団もあった。煙が上が
っていたから鉄鋼関係の工場群だと思う。
バスは市内に入る前にドナウ川辺の高台の展望台に止まった。そこで合流した現地ガイドから、対岸に広がるブラチスラバの市
街地を見渡して説明を受けた。
この国(都市)も元はといえばローマ帝国の軍駐屯地に由来するのであるが、建国はゲルマン移住民による「モラビア王国」に始
まる。やがて東からマジャール人に進攻されハンガリー王国となり、オスマンのハンガリー侵入によって西に押され、ブラチスラバ
が長くハンガリーの首都となされたのである。さらにオーストリアの体制に組込まれたり、第一次世界大戦の後はチェコ・スロバキ
アとして連邦国家となっていたのである。
1939年一旦は独立宣言の機会が与えられたが、第二次大戦によりソビエト領となって再び連邦国家に、ビロード革命が成功し
て現在の独立を得たのはやっと1993年のことであった。
今国民の胸中にもたらされた「独立国家に存する喜び」は、他国の者には計り知れないものがあるであろうことを思う。
川面には白い大きな吊橋が2つそして橋げたをならべた一つが見えた。さらにその向こうに鉄道橋と平行して高速道路がドナウ
川を跨いでいた。
最も近くのひとつはこのほどの独立後に完成した「新しい橋」であるとのことだった。私たちはバスで一番左のそのつり橋「新しい
橋」を渡ってブラチスラバ城へ登っていった。
城は小高い丘の頂に聳えていたが、ちょうど修復のために、「シート」で半分が覆われていた。ウィーン門をくぐると急な坂道となり、
城の壁が間近に迫ってきた。石造りのゴチック調で四角い建物の四隅に塔を構える独特の外観から「ひっくり返したテーブル」など
と呼ばれているそうだ。ハプスブルグ家によるハンガリー統治も行われた場所である。
現在歴史博物館等に利用されているとのことで、城に続く一段下の一角はモダンに改修された建物が整備された姿をあらわして
いた。
ブラチスラバ城 城門の洒落たみやげ物店
城門(レオポルド門)を入った城壁の上にドナウ川の展望台と観光みやげ店があり、城を見上げ、川面を眺めつつ土産物の品評を
楽しんだ。私はブラチスラバのガイドブックを買った。
私たちは城内から歩いて坂道を下り、大きな通りを越えて旧市街地の見学をした。
初冬の落日は早い。加えて夕闇の漂うまでの時の流れも一瞬のような気がする。街路灯が点された薄暮の道から聖マルチン大聖
堂が見えてきた。外部ゴチック、内部バロックという混成であるが、ハンガリー国王の戴冠式場でとして使われた由緒ある教会である。
赤い急斜面の屋根、レンガを積み上げた壁、四角の塔に小さなドームと尖塔を乗せた大聖堂というにはコンパクトにまとまった感
じが良かった。
聖堂の脇から続く通りは夕暮れ時の雑踏と化していた。カフェや商店に混じって古くから伝わるいくつかの由緒をガイドは丹念に説
明してくれた。古くから伝わる街並みの建物は割合と背が低く、石壁に木材を美しく組み合わせたものもあって楽しめた。また、中欧
はなんと言っても大勢の音楽家を生み出したところである。モーツアルトやシューベルトが滞在した小さなホテルや、天才リストが9歳
でコンサートを開いたデ・パウリ宮殿が紹介された。まちかどの路上に、観光客に人気のヴィクトル・フリークによる「覗く人」をはじめ
いくつもの彫刻が目を引き付けた。
ルネサンス様式のミハエル門があり、ミカエル通りが旧市内を貫いているのだが、たしかミカエルは軍神、戦いにおののいた市民
感情の表れであろうか。国章は盾枠に白の2重十字架である。戦いが常に念頭を離れない歴史の産物なのか、それとも十字軍以
来のキリスト教信奉を象徴するものなのか、なぜかここにももの悲しさが漂う。狭い市内に10を超える教会が建てられているのであ
った。
時計塔のある旧市庁舎前の広場が町の中央広場(フラヴネー、ナーメスチェ)である。
シーズン中は催しものやバザーのためのテントで埋められているとのことであるが、冬期にはいって片つけられ広々としていた。
クリスマスには再びイベント会場となるらしい。
日本大使館が広場の一角にあり、ちょうど退庁する日本人の若い女性事務員に出会った。
私は夕食までの自由時間をこの広場に面した有名なローランドカフェの前に並んでいたデッキチェアーに座ってで過ごした。
すっかり暗くなった広場は瞬きするネオンもなく、建物に囲まれているので車の騒音からも逃れられて静かだった。
ローランドの隣にガラス機器の店舗があって、そこにはプラハで未練の残るモーゼルのグラスがショーケースに飾られていた。
ちょっと覗いてみると、壊れやすいためか、手に取れぬようケースは施錠されている。店員に「高価なものだし、壊れやすいと思う
からなかなか買えないのだ」と言うと、「こういったものは、同じ形のイミテーションを一緒に求めて、本物は飾って置くんですよ。」と
教えられた。成るほど、宝物の管理と同じに、つまり女性のダイアモンドの装身具と同じ扱いをすればいいのかと思った。
市内で夕食をしてすこし街の西側にあるホリデーインに着いたのは8時半だった。
プラハから長いバス旅の一日だったが、自由に歩ける時間がたっぷりあってゆったり過せた日だったなー、と思いながら眠りにつ
いた。
○
翌朝散歩に出た。すこし寒い朝に感じた。
ホテルの前はバジカルスカ通り、ドナウの流れから市内を東に見て北へ伸びる通りである。
川に掛かる橋を見に行った。2キロメートルも歩くとハイウェイとの大きな交差点があり、「左ブラチスラバ空港」の看板が出ていた。
私は右側に折れて、角から連なる日本の公団アパートに似た団地を眺めながら歩いた。
地図を頼りにジムニー桟橋と評された水辺へ寄りたいと思ったのだが、港ほどの大きさがあるこの桟橋の道路側は鉄道の引込み
線が幅広く敷かれていて、水辺には近づけないようだった。
水辺はあきらめ、10分ほど歩き、次の交差点を曲がってドナウ川に掛かる橋へ上ってみた。
橋の端に「Appllo Most」とかかれていた。「太陽橋」とでもいうのだろうか。
橋の上でドナウの流れの中央に立つと、上流に「古い橋」さらに「新しい橋」が見えた。その間の右手が昨夕歩いて見学した市街
地である。教会の尖塔がいくつも見えた。手前の桟橋際は倉庫などの施設が、大きく張り出した桟橋の背後に控えて朝の指導を待
ち構えているようだった。
曇り空でなかなか明るくなってこなかった。
――今日は、いよいよ降られるのかもしれない。――
橋の上にバスの停留所があって、通勤のためらしい人々の集団があった。風はなかったが朝の空気は冷たく、人々は少し背を丸
めた姿勢に見えた。
橋を降りて、その道路をまっすぐ進み、大きなマーケットを左手に見ながら次の交差点まで来ると、すこし雨がぱらついた。傘は持
っていなかったがそれを気にするほどの降りではなかった。右手に真ん中にグリーンベルトのある道路があって、地図はそれがバ
ジカルスカ通りへつながっていることを示していたので、そこの舗道を進んだ。2ブロックいくと銀行のビルがあり、その先にホテルか
らも見えたガソリンスタンドがあった。
約2時間歩いたことになったが、あまり変わったものにはぶつからなかった。
雨は大したことはなかったが、ホテルに戻ると暖房の暖かさにほっとした。
朝食後、バスはブラチスラバを後にした。
モーゼルグラス
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