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風次郎のColumn『東京楽歩』
(No390T−99)
佐伯祐三アトリエ記念館(2015.2.20)
2015年3月1日
東京楽歩(No99)新宿巡り
4.佐伯祐三アトリエ
中村彝のアトリエを訪ね、新宿区のガイドマップを改めて眺めると、落合一帯がなるほどと頷け
る落ち着いた雰囲気の住宅地であることが解った。自然の広がりと言うか、緑地と水辺が残され、
歩くに退屈さを感じさせないところのようにも思えた。文人が寛ぎと住まいを求めて集まったとい
うことも頷ける。
この地にアトリエを構え、武蔵野郊外の風景を残した画家は佐伯祐三である。
新宿区はこのアトリエを、新宿に残る大切な「土地の記憶」、「まちの記憶」として保存・継承
し、広く発信していくために、また大正期のアトリエ建築を今に伝える建物として、佐伯祐三アト
リエ記念館とし、公開している。佐伯祐三は大阪の出身であるが、東京に出て画家を志し、落合に
居を構えたのは、一時中村彝の指導も受けたこともあってのことのようである。
東西線の中井駅で電車を降り、妙正寺川に架かる小さな橋を渡って西武線の踏切を越え、商店街
中井通りを東に歩いた。
繁華街とは言えない庶民的な居住空間である街の雰囲気は、歩いていて伝わってくる生活感が何
とも言えない。安心した寛ぎの時間をゆったりと楽しませてくれるように思う。
東京の街はその地形が武蔵野台地から成っているが故に、大抵の道が波打つように起伏を持って
いる。だから至る所坂道であり、古くから名づけられた「○○坂」の名称をいただいた道が多い。
私の友人にはそんな名称に引き寄せられて坂道を訪ね歩いている人もいる。
新目白通りへ出る手前に見晴坂と書かれた標識が立っていたので、そこを折れて一間幅ほどの狭
い上り坂を進んだ。上から幼稚園児の一団が朝陽を浴びてガヤガヤと降りてきて、大きな声で「お
はようございます」と叫ぶように声を掛けられたので、「おはよう、元気いいね!」と笑って手を
振った。
何ともいい気分だ。
振り返ると晴れた空の下、新宿方面のビルの向こうに富士の姿が見えた。――なるほど見晴らし
坂――である。
新目白通りの歩道橋を渡り、再び霞坂という小路を登り切った公園の先を、北に100mも歩い
た右手の奥まった住宅地の中に「佐伯祐三アトリエ記念館」があった。
佐伯 祐三(1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正〜昭和初期の洋画家である。
短い30年の人生に於ける、更に短い時であったが、この地は、佐伯がアトリエを構え、創作活
動拠点とした日本でたったひとつの場所である。と言うのは、この地で佐伯が生活し、創作活動を
したのは、米子夫人と長女彌智子と共に、フランスに向かう大正12年(1923)までと、大正
15年に帰国し、再びフランスに渡る昭和2年(1927)までの合わせて4年余りにすぎない
。
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死しているのだ。
作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多く、風景画にはモチーフ
として文字の登場するものが多い。また、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として
取り入れている点が特色で、作品の大半は2回のパリ滞在中に描かれた都市風景である。
人物画、静物画等もあるが、私は彼がアトリエを構え、家族と共にこの地に馴染んで過ごしたひ
とときに描きためたこの地―落合風景―の数々を見るのが好きである。人は自然に寄り添って住む
時、より素直に反応できることを示すように、言わばシリーズのように眺めていることができる。
佐伯祐三は東京美術学校(現在の東京藝術大学)在学中の大正9年に、銀座の象牙美術商の娘、
池田米子(米子も日本画を描き、川合玉堂に師事、二科展などにも入選している)と結婚した。そ
して翌年、中村彝のアトリエにも程近いこの地にアトリエ付き住宅を新築したのであった。
彼が妻子をともないパリに渡るのはその2年後の1923年末である。
パリではフォーヴィスムの大家ヴラマンクに「アカデミック!」と作品を批判され、それをきっ
かけに、パリの堅牢な建物を重厚な筆致で描く独自の作風を確立した。1926年の一時帰国をは
さんで1927年に再び渡仏、鮮やかな色づかいと踊るような繊細な線描で、街角のポスターやカ
フェなどを描いた名作を次々と生み出したのである。
帰国時は、パリでの友人であった前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎らと「1930年協会」を結
成している。
2度目の滞仏の後、彼は再び日本の土を踏むことはなかった。
1928年3月頃より持病の結核が悪化したのであった。しかし、その創作意欲と厳しい創作態
度は衰えることなく、最後に《郵便配達夫》などの傑作を残し、30年の生涯を閉じたのである。
あまりにも短い生涯、そして制作期間ではあったが、純粋で激しい情熱を強く感じさせ、生命を
刻み込むかのように描かれた作品は尊いものに思える。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品、屋内ではその後も描いているが、精神的にも病
み、自殺未遂を経て、セーヌ県立ヴィル・エブラール精神病院に入院した。一切の食事を拒み、8
月16日、妻が娘の看病をしていたので妻に看取られることもなく衰弱死したと言われている。
☆ ☆ ☆
とんがり屋根と白い板壁のアトリエは、その宅の庭のように見える小公園の奥まったところに管
理棟との間を広いテラスデッキにして建っていた。室内はやはり北側に窓を大きく広くとって、柔
らかな明るさが広がっていたが、南側に位置するテラスが、居間のあった母屋の形状を示している
とのことであった。
アトリエの脇壁にこの地で取り組んだ連作「下落合風景」の内12枚が写真パネルで展示されて
いた。時々出展されている肉筆画を観ることはあるが、画集以外ではまとめては観られないので残
念に思う。
それにしても、この地域に今日アトリエを復元された「中村彝」、「佐伯祐三」ともに、結核と
いう病魔に襲われ、そして両者いかにも短命で終わった熱血画家であったように思う。
彼らの人生はアトリエ地帯の下落合風紀とは少し異なるようである。これは悲しいかな――。
足を延ばしておとめ山公園の北側に位置する竹久夢二、そして安井曽太郎の居所跡も訪ねてみ
たが、こちらは今平凡な住居の立ち並ぶ一帯の中に、何の跡形も見出すことはできないのであった。
風次郎
下落合風景(写真集から)
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