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風次郎のColumn『東京楽歩』
(No391T−100)
新宿区立林芙美子記念館(20153.6)
2015年3月8日
東京楽歩(No100)新宿巡り
5.林芙美子記念館
三たび中井駅から歩いた。駅から中井通りへ出て真っ直ぐ西へ山手通りのガードをくぐりつつ歩
いて行く。右手は下落合崖(はけ)の高台が続いている。それを登って行く狭い坂道が二の坂、三
の坂とあり、これらの坂にはかなりの勾配がある。
丁度四の坂の角が林芙美子記念館で、入り口はこの坂だけが階段状に高台に向かう四の坂に掛か
ったところにあった。
記念館は公益財団法人になった新宿未来創造財団が管理・運営を行っており、一般の入場者は¥1
50の入館料が必要である。(小中学生は¥50だが土日休日には免除される)
表通りの掲示板をちょっと眺めて入って行った。
記念館の建物は作家林芙美子 が、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯
を閉じるまで住んでいた家である。
大正11年(1922)に上京して以来、多くの苦労をしてきた彼女は、昭和5年(1930)に落合の地に
移り住み、昭和14年(1939)12月にこの土地を購入して、新居を建設したのであった。
新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のア
トリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせたとのことである。
林芙美子(1903 - 1951)6月28日)は、物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺
の庶民を慈しむように描いた作品に、殊にに名作があると言われている。
「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在
を売り物にする成り上がり小説家』、そして、シナ事変から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓
と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』などと揶揄された形跡があるが、戦後の印象はそれと違って、
戦さに打ちのめされた、普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけと評されているようだ。
いずれにしても波瀾万丈だった彼女の人生ではあった。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」、芙美子は、色紙等によくこう書いている。「私は宿命
的な放浪者である。私は古里を持たない…したがって旅が古里であった」との出だしで始まる「放浪
記」は菊田一夫の台本で森光子が演じ、芸術座で空前の興行記録を作ったが、それは彼女の歩いた道
を綴ったものだとも言われる。
明治36年12月31日下関生まれ(出生日、生誕地ともに異説あり)。本名フミコ。実父は行商人宮田
麻太郎だったが、父が認知しなかったので、母林キクの私生児として届けられ、母方の叔父の戸籍に
入っている。
1910年(明治43)母は離婚して翌年沢井喜三郎と結婚、一家は九州を行商して歩き、芙美子は転校
を重ねた。そして1915年(大正4)広島県尾道(おのみち)に落ち着き、22年尾道市立高等女学校卒業し
た。そこでは、フミコは教師たちからも文才を認められており、18歳のときには『秋沼陽子』の筆名
で、地方新聞に詩や短歌を載せている。親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」している。展示
されている写真にも尾道時代の愉しそうなものが多かった。
いわゆる放浪記時代は、卒業後、愛人岡野軍一を頼っての上京に始まり、職を転々としつつ24年
友谷静栄と詩誌『二人』を創刊。俳優田辺若男や詩人野村吉哉と同棲、又アナキスト詩人岡本潤、壺
井繁治らを知るといった展開をたどる。
しかし1926年(23歳)、画家修業中の手塚緑敏(てづかろくびん)と結婚、アナーキーな生活はここ
にようやく安定を得るのである。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。
1928年(昭和3)『女人芸術』に連載した『放浪記』が好評を博し、30年これを出版、たちまちベス
トセラーとなり『続放浪記』をも出版、出世作となったのだ。
同年処女詩集『蒼馬を見たり』を出し、この年中国を旅行。31年には『風琴と魚の町』『清貧の書
』を発表、作家としての地位を確立していく。この年欧州に旅行。『泣虫小僧』(1934)『牡蠣(か
き)』(1935)など、自伝的な作風を突き抜け本格的な客観小説にも成功した。
さらに『稲妻』(1936)のあと、従軍記『戦線』(1938)、『北岸舞台』(1939)などを発表、報
道班員となって南仏印(フランス領インドシナ)にも滞在、この間短編を書き継いでいる。
1941年には、「ついのすみか」となった自宅をここ下落合に新築したのだった。
さらに、太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・
ジャワ・ボルネオに滞在、戦局が押し詰まり出版界も逼塞した1944年4月から、黒qの故郷に近い長野
県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開している。そのときに二階を借りた民家が今、「林芙美子文学
館」になっている。
戦後は一連の反戦的な作品を残す一方、『うず潮』(1947)、『晩菊』(1948。女流文学者賞受賞)
、『茶色の眼』(1949)などを発表、『浮雲』(1949〜50)の連載も始めた。
1950年(昭和25)には屋久島旅行に出かけたり『めし』(1951)など連載中であったが、流行作家と
しての酷使に身体衰弱し、昭和26年6月28日心臓麻痺のため自宅で急逝した。
なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「林芙美子さんを囲んで」に出演して女子大
生数人に対し質疑応答をおこなっている。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな
球は投げない」とも語っている。時の世間は『ジャーナリズムに殺された』と、言ったとか――。
詩に始まり私小説を経て自然主義的な散文作家に成熟した芙美子は、プロレタリア文学台頭期にあ
っても思想的な共感を示さず、「人生はいたるところ木賃宿ばかり」の生い立ちに基づく実感を重視
して、市井の哀歓、男女の心理を細叙したとの評(橋詰静子)がある。
7月1日、川端康成が葬儀委員長をつとめる告別式が自宅で執り行われた。近在の市民が大勢参列し
たという。
☆ ☆ ☆
芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行
ったり、材木を見に行くなど、その思い入れは格別だったようだ。山口文象設計による家ではあるが、
彼女の意向が多分に取り入れられて、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子ら
しい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっているとのことである。
気に入った家に、夫(洋画家・手塚緑敏)のアトリエをもあつらえ、母や子(養子を得た)とも仲
睦まじく暮らせたことであろう。まだ先のある年齢とは言え、急逝するまでの10年をこの家で暮ら
し得たことは、せめてもの慰めであったことだろう。
書斎の裏戸を開け放つと、やや急な斜面の裏庭に夫が育てた薔薇の花がいっぱい広がる野を眺めて
は気を休めていたという。
彼女は、客間よりも茶の間や風呂や厠や台所に十二分に金をかけるようこだわったとの案内説明で
あったが、当時としてはかなりのお邸であっても勝手場は裏側の隅の常識であった。今風の様式のよ
うに団らん部屋の近くにキッチンを、とまでは彼女にして考えが及ばなかったようである。
実際には書斎として使われていたほぼ邸の中央に当たる処の部屋は、元は納戸として作られたのだ
そうであるが、書斎用の部屋が明るすぎると言って移ったのだそうだ。納戸として作られたため、洋
服入れ、物入れなどが作り付けられ、使いやすく出来上がっており、部屋の中から、半障子を通して
廊下越しに北の庭が見えるなど、かえって趣向が凝らされる結果になったのだろう。
その書斎には使っていたままの広いテーブルに原稿用紙がが置かれていた。
芙美子は熱中すると強度の近眼用眼鏡をはずし、顔を机につけるように執筆したといわれている。
そして、作品が仕上がると自分で掃除をし、普段は家人にもさわらせなかったそうである。
いずれにせよ、創作もドラマも、過ぎた時にここから今の時に繋がったのである。今にして主人亡
き場所は一抹の寂しさを漂わせるばかりであった。
記念館の庭はきれいに整えられ、寒椿、ざくろ、かるみや、おおさかづきもみじなど、芙美子が愛
した木々や草花がこの庭にも植えられたようである。散策を楽しみつつ母屋の全景を眺める事が出来
るが、芙美子が生存中は、この庭一面に孟宗竹が植えられてたそうである。夫妻が好んでそうしたの
か、或いはその時代のこの辺りは山中に等しい地域であったろうから自然に生えたままの竹林であっ
たのかも知れない。鬱蒼としてはいたのだろうが、それも悪くは無い思いがする。竹は切られ、今そ
の面影は玄関に近い客間前の庭付近に見られるだけであった。
一番奥の洋館風の造りの間が夫・緑敏のために作られたアトリエで、ここが記念館の展示室とされ
ている。
芙美子の経歴や少しばかりの原稿、自分が描いた画(油絵)一枚などが展示されていた。彼の女は
小さい頃から絵描きになりたいと言っていたそうだし、ビデオの対談の中でも語っているが、このア
トリエで描いたことは無かったようである。
そこには緑敏の描いた風景画をも見る事が出来た。
アトリエの前に大矢石を積んで建てられた10u程の蔵がある。夫が芙美子の死後、彼女の遺品を
保管するために建てたとのことである。今、そこでは期間を区切って芙美子に関する特集展示がなさ
れているという。
今回は関東大震災の時の芙美子が、住んでいた本郷から父を訪ねて新宿一二社への道すがらを、写
真と共に辿って展示されていた。
☆ ☆ ☆
とまれ、他と言わず、自らをと言わず憐みの中で語る林芙美子の人間像が偲ばれる思いで、私は記
念館を後にし、小路を妙正寺川の辺へ下り、山手通りへ歩いて行った。都会の閑静な住宅地とはこう
いった処を言うのであろうか。
すぐ隣が吉屋信子の居所だったとしてゆかりのある処であったし、近在には平林たい子、武者小路
実篤、丹羽文雄、船橋聖一ほか日本の文壇に輝くキラ星の如く人々が居所として過ごした文化人村「
落合」であった。
午后の陽が低く照らして、長く路上に伸びる我が影を追うように歩きながらの帰り道だった。2〜3台
の車を見やったのみで歩く人影は少なかった。
歩きながら、新宿からの文学と言うならば「漱石」を訪ねなければなるまいと、せがまれる思いが
過ぎり、次は早稲田へ行ってみようと思うのだった。
風次郎
林芙美子の書斎
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