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風次郎のColumn『東京楽歩』  
  (No388T−97)
  
                                       中村彝アトリエ記念館(2015.2.13)                                                                                                    

                                                                                   2015年2月15日
          東京楽歩(No97)新宿巡り―3―

                中村彝アトリエ記念館

                            目白駅で電車を降り、今ではメインストリートとは呼べないほど狭い通りの印象を受ける目白通
                           りを西に歩く。
                            二つ目の下落合3丁目の信号の先を左に折れて50メートルほど先の三叉路を、また右に折れる
                           と傾斜地伝いに続く3m幅の整えられた道はいまは「アートの小径」と名付けられ、古くは桜の並
                           木道だったらしい。大正期、目白駅から西の聖母病院へ向かう尾根筋で、少し進んだ先に、パンフ
                           レッドの写真に表された通りの白い縁取りを施した平屋の建物が、余裕のある広さの芝生の奥にや
                           や小高く見えていた。
                            私が訪ねた時は見学者が誰も無いようで、穏やかな市の管理人の方が、管理室に導き入れて「ど
                           うぞ、資料をお持ちください」と声を掛けてくれた。
                            煉瓦の門から敷地の脇に縦長に造られた管理棟は公開に向けて区が建てたもののようだ。
                            その奥の扉を開けて、二段を歩むと見学者の入り口であったが、そこはもうアトリエの中であっ
                           た。
                            床や天井、壁の腰板など、新築された大正5年当時の建築部材を再利用して復元されたものとの
                           ことである。が、イーゼルは彝の使用したそのものであると言われれば、どこかに彼の魂も宿って
                           いそうにも思える。
                            病弱になって、外出もあまりできなかった彝は、このアトリエで人物画や静物画を描いたのであ
                           ろう。アトリエは光を取り入れる北窓を大きく明けたばかりか、北寄りの天窓からも明るさを取り
                           入れ、モチーフへ光のバランスの良い凝った設計のようであった。ふと、私は信州の茅野市にある
                           母の実家にあった北向きの部屋を思い出した。――障子を開けると廊下越しに植え込まれたアラ
                           ラギが陽に映えた庭が見えた。その部屋を使っていた従兄が、「庭は北に向かって眺めると綺麗な
                           んだよ」と教えてくれたことがある――。
                            このアトリエは外を眺めるのではないが、光はどうしても南から強いから窓の設定は納得できた。
                            また彝は自分の居間を南に配置し、(今は見学者が寛げるソファーが置いてある)長時間の制作
                           が難しかった彼は、陽を受ける病床から庭の芝生や木々の緑を眺め、体を休めたのであろう。
                            コンテで描かれた「ベッドに横たわる自画像」(中村屋サロンで展示中)はそんな時の姿であっ
                           たのか――。
 
                            大正9年、彝と画友鶴田吾郎は、中村屋に滞在していたロシアの盲目の文筆家で音楽家ワシリー
                           ・エロシェンコをモデルに二人で肖像画(鶴田吾郎の作品は中村屋サロンで展示中、彝の作品=重
                           要文化財は国立近代美術館蔵)を描いている。この作品は帝展で高い評価を得たが、一週間の間
                           制作に没頭した彝は絵筆を置くと同時に病床に伏したのであった。

                            俊子との恋愛に破れ、中村屋裏のアトリエを離れた中村彝は谷中などの下宿生活を経て、支援者
                           であった銀行家今村繁三らの援助でこのアトリエ兼住居を得たのであった。当時新進の画家として
                           認められてきてはいたものの、17歳から病んでいた結核は一進一退であり、さらに俊子とボース
                           との結婚を知って落胆し、悪化は止まなかったであろう。
                            その後、このアトリエに集う画友達、曾宮一念、鶴田吾郎、鈴木良三らと金塔舎を結成するなど
                           元気の兆候があったものの、大正13年12月24日、37歳の生涯を閉じた。

                            室内の展示に「アトリエでの彝(大正6年)」という写真があった。元気に只管制作に励む様子
                           が伺われるばかりで憔悴の思いは及ばない。人生は儚いものである。

                            私は、冬の枯れ芝の上に出て深呼吸をし、その場を去ったのであった。

                                             *  *  *  *  *

                            界隈は緑多き閑静な住宅地である。東側一帯は日立目白クラブの森(旧学習院の昭和寮)である
                           が、もと近衛篤麿、文麿が住んだ公爵家の屋敷であったところだ。それに続く西側の緑地は「おと
                           め山公園」として整えられ公に解放されている。湧水源と落合秘境を保全した二つの池を囲む鬱蒼
                           とした緑は都心に恰好な寛ぎを漂わせている。
                            細い坂道を下りて、公園の中のおとめ山通りを下り、新目白通りへ出、神田川を越えて高田馬場
                           駅へ至った。
                                                                                  風次郎             


「アトリエでの彝(大正6年)」(展示から)

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