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風次郎のColumn『東京楽歩』
(No357T−80)
飫肥「服部亭」の庭園
2014年6月
東東京楽歩(No80)
南九州を巡る旅(5)雨の飫肥(おび)城下
なんごう道の駅から北へ、南郷市内を通り抜けて国道222号線を日南線に沿って内陸
へ走ること約1時間、酒谷川の大きく南へうねった平地にある飫肥城下に着いた。
飫肥はもと那珂郡飫肥町だったが、合併(1950年=昭和25年)で日南市となった。
もと飫肥藩5万7000石の城下町である。江戸時代の武家屋敷、町人町、寺町などの
町並みが多く残され、市街地の八幡通り、横馬場通り、大手門通りなど7街路を含む19.
8ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区として選定(1977年=昭和52年)され、
「九州の小京都」を異名に、多くの観光客を集めている。
保存地区内には城下町時代の道路や地割が良好に保存され、石垣、土塀、生垣で囲まれ
た武家屋敷跡が残って情緒豊かであった。
私たちのスケジュールは先ず屋敷町の「服部亭」でお昼の食事をして散策することであ
った。
「服部亭」は飫肥御三家のひとつ、時代の御用商人、山林王・服部家が江戸時代から続
く約100年の歴史を持つ旧邸宅を利用した、由緒ある建造物を食事処として観光に提供
しているとのことである。食事をするすべての部屋に面した100坪を超える日本庭園を
眺めながら、ゆったりとした座敷で食事を楽しむ事ができた。
皆で服部膳という、エビや厚焼き卵など郷土の味が盛り込まれた全7品が付いた豪勢な
食事をいただいた。
厳めしい玄関には紫のカキツバタがどんと座った甕に投げ入れられており、雨の滴る庭
には、遅咲きのツツジと見頃のアジサイが咲いていた。花も場所を得れば、また風情が異
なる。
私たちは、ついにこの城下町で雨につかまった。しかしその雨には風が伴わなかったの
で幸いに思った。城下町は雨にも独特の偲ぶ雰囲気があるようだ。
食後に、歩いて数分の飫肥城を見に行った。
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南
北朝時代に築城したのが始まりと伝えらる。時代が下って室町時代末期に至り、九州制覇
を狙う薩摩の島津氏が、土持氏の後を率いていた伊東氏のさらなる南下に備えて、これを
攻略的に治めたのが始まりで城取合戦の舞台となった在所である。
島津に取られたとして奪還を志す時の将伊東祐国が、飫肥に侵攻した1484年から伊
東祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及ぶ。この
長期間に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた例
は、日本の戦史において稀有な例とされるものだ。
飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕えて九州征伐に参加し、その戦功により再び飫肥
の地を取り返して大名としての復活を成し遂げたのである。以後、廃藩置県で飫肥藩が廃
止されるまで伊東氏の領するところとなった。
そしてこれはまた江戸期、伊東氏が豊臣系の外様大名という微妙な地位でありながら飫
肥の地で家名を全うし、かの関ヶ原の戦いでは東軍側に立った数少ない九州大名だったと
言われる所以である。
城は外堀の無い、こじんまりとした平城である。
碁盤の目のようにくっきりと敷かれた道路、街並みのの中央からやや西側、南から北に
真っ直ぐ150mの大手門通りがやや坂道を成していた。門前の堀に掛かった橋を渡り、
大手門を潜り、広い登城の石段を登ると右手に歴史資料館があった。
左手に更に石段を登ると酒谷川を見下ろす庭園になっており、江戸時代の書院造りが復
元されて総檜造りの松尾の丸であった。
地区内には飫肥城跡のほか、最後の藩主伊東祐帰(すけより)が住んだ邸宅である豫章
館、藩校であった振徳堂、などのほか私も不認識であった小村寿太郎の生家があった。ポ
ーツマス条約を仕上げて清国との交渉にあたった外交における偉人である。名を成しただ
けに敷地も整ってそれなりの風格があったが、小村の生家は、小禄十七石の徒士であった
とのことである。
立派な小村記念館が飫肥城へ渡る大手門前の橋の袂に、元城主の住んだ豫章館の対面に
建てられて公開されていた。
風次郎
飫肥城大手門
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