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風次郎のColumn『東京楽歩』
(No257T−56)
伊吹山頂駐車場から
2012年6月24日
東京楽歩 (56) 夏の伊吹、彦根、長浜(その1)
新幹線で米原に到着したのは1時を少し廻ったころだった。北陸金沢から車で到着
した2人を加えて総勢7名の仲間はまず米原の名峰伊吹山へ向かった。
伊吹山は滋賀県の最高峰(標高約1377m)。日本百名山のひとつで、がっしり
と男性的な山容を目前に見せていたが、その組成が石灰岩(約3億年前に噴火した海
底火山であることから地層にはウミユリやフズリナの化石が発見されるなど、その時
期に出来たサンゴ礁による良質の石灰岩とのこと)であるため、近代のコンクリート
・セメント需要の急増により、大量採掘で露になった南西斜面の採掘跡が目障りであ
った。緑化活動により修復されてきたと聞くものの、山姿が変形するまでになってい
るのは些かいただけない思いだ。
山頂までは、1965年に開通したドライブウェイ(日本自動車道株式会社)が、
岐阜県関ヶ原町から山頂近くまで通じており、気楽な観光ルートになっている。日本
中に広がる杉林はもちろんだが、原生のえのき、むくのきの見事な大木が多く、とこ
ろどころには私は山アジサイと呼んでいる「はこねうつぎ」の花が眺められる快適なド
ライブコースであった。
山頂は岐阜県と滋賀県の境界をなし、眼下に琵琶湖、比良、比叡の山々が望めた。
遠くは日本アルプス、伊勢湾まで一望の大パノラマが広がるとのことであったが、そ
の日はやや霞がかかっており、日本アルプスまでとはいかなかった。
「伊吹山」の一般的な読み方は「いぶきやま」であり、山麓地域でも通常「いぶき
やま」と呼ばれる。
古くから霊峰とされ、古事記では「伊服阜能山」、日本書紀では「近江の五十葺(
いぶき)山」と記された。日本武尊の伝説にも登場する山である。ここの荒ぶる神、
すなわち山の神が大蛇に化りて道に当るのを聞いた日本武尊が、東征の帰途これを倒
そうとするが、それが彼の死を招いたと伝わる。
霊峰としも名高く、平安時代には修験道における日本七名山のひとつとして、多く
の修行者が訪れたと聞く。
一方、著名な薬草や亜高山植物、野鳥、昆虫の宝庫としても有名で、山頂のお花畑
は、国の天然記念物に指定されている。
駐車場から山頂までを皆で歩いた。日本百名山だけでなく、新・花の百名山及び関
西百名山に選定されていて人気が高い散策路のような登山道だ。
キバナノレンリソウ、クガイソウ、ニリンソウ、コキンバイなどが登山道の脇に綺
麗に咲いていた。、沢山のミヤマコアザミが太くなった幹に蕾を持っていたから、こ
れがもうすぐに咲けば、白や黄色の周囲の花達と共に、彩り豊かなお花畑を演出する
ことだろう。
植物と薬草の山と言われるそうで、山麓から山頂にかけては様々な野草の群生地が
ある。山頂草原植物群落が植物天然記念物に指定されており、その種類約1300に
及ぶとのことである。また米原市側の山麓には、薬草を利用した温泉施設もある。
永禄年間、織田信長はポルトガルの宣教師に伊吹山で50haの土地を与えて薬草園
を造らせ、本国から3000種の薬草をここに移植させたという記録が「切支丹根元
記」「南蛮興廃記」にあるらしい。しかし、これは百数十年後にできた江戸時代の俗
書であることから、確かなことはわからないということである。
一等三角点が置かれている頂上は滋賀県米原市に属するが、周辺は琵琶湖国定公園
に指定されており、カルスト台地が作った公園のように広く整備されている頂上のあ
ちこちに、家族連れやハイカーが、好天下の時を楽しんでいた。
この地域は、近畿、北陸、東海、北陸のすべての地域に通ずる交通の要衝で、軍事
的にも重要性が高く、殊に戦国大名・京極氏は伊吹山中に山城を建てている。ご存知
天下分け目の戦いとなった「関が原の合戦」が繰り広げられたのはこの山麓であった。
主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。
○
関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破
郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦である。関ヶ原にお
ける決戦を中心にこの時、日本の全国各地で戦闘が行われている。
豊臣秀吉はその晩年、五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利
輝元)と五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)を制度化し
て自らの死後の政務を有力大名や諸将に託そうとしていた。ところが、豊臣政権下、
秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と加藤清正
・福島正則・細川忠興ら(いわゆる武断派)との間には対立があった。この対立には、
蒲生氏郷の死去に伴う蒲生家相続問題、小田原征伐前後の伊達政宗に対する処遇問題、
千利休切腹事件、豊臣秀次事件、文禄・慶長の役での処遇などが内部対立の背景とし
て挙げられている。
政権内部での両派の対立は深刻化する一方で、家康と武断派諸将との接近が加わり、
二派は慶長5年(1600年)に行われた関ヶ原の戦いへ進むことになる。
二派は、関ヶ原の戦いでの徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし
石田三成を中心とする西軍と化した。東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であ
る。家康はこの戦いを、豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する
)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取ったとされている。
が、しかし、この戦いこそ如実に徳川家康の覇権を決定づけることとなったのが歴史
である。
東軍に先んじて関ヶ原に到着した西軍方は、三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る
天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山のラインで東軍
を囲む鶴翼の陣を敷くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えていた。
明治の世に軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原に
おける両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利の図と断言したといわれる。だが、東
軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的
に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができて、結局勝利をものにしたので
ある。
同日、合戦の火蓋が切られようとする関ヶ原は、早朝から深い霧が立ち込め、隣の
軍の様子も侭ならない――。と、戦記は続くが――
○
伊吹山を下ってこの古戦場跡を見に行った。
戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1kmの地点に進出
させた。徳川家康最後の陣の場所、ここで、家康は陣頭指揮に当るとともに、戦が終
わると、部下の取ってきた首を実験したという。
そして、笹尾山石田光成の陣、今は昔と語りたげに旗が舞っていた。
正に兵(ツワモノドモ)が夢の跡を見た。
私たちは、宿泊地の琵琶湖畔へ向かった。
風次郎
関が原 石田光成の陣跡
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