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風次郎のColumn『東京楽歩』  
   No221(T-043)
 
唐松尾根からの富士(110907)

                                                          2011年9月24日
       東京楽歩 (43) 大菩薩峠行(11.09.07) 

              Y氏との8月の御嶽行きで、久し振りに高い山の快感を味わった私は、山行きの健康上の
             警戒を解かれたような気がしていた。そこへY氏から「職場の友人達と3人で大菩薩峠へ行
             きますが――」とお誘いを戴いたので、これ幸いと連れて行ってもらうことにした。
              私の為の医師の助言は、高血圧から来る心臓発作(狭心症)への要注意である。洞性徐
             脈という心拍異常に高血圧が併発してから大事をとることにしているが、このところ激しい活
             動に注意し、異常脈が無ければ良いということらしい。慣らすことが肝心だと自分で決めた。

              9月と言え、台風の影響で梅雨時を思わせる程続いた雨の後、快晴に恵まれた爽やかな
             1日で、残暑を逃れたカラッとしたまさに恵まれた日であった。
              Y氏も氏の職場の友人達も年恰好が似通った人達だったので、私は一生懸命ついていく積
             もりで仲間入りの挨拶をしながらY氏の車に乗り込んだ。
              先ず中央道、国立府中のインターから八王子を経由して勝沼に向かう。
              勝沼からは国道20号線を戻り気味に、そして甲斐大和からは日川渓谷の坂道を登って
             行く。そこはこの夏の初め、私は武田氏撲滅の地を訪ねて、景徳院と天目山栖雲寺を訪ね
             た日川街道である。
              朝の街道は陽が東の山並に遮られ、街道も渓谷左岸に続いている為か直射日光を浴びる
             ことなく、緑の中を走る快適なドライブであった。
              私たちの時代の山行きは、それは「夜行日帰り」と言って、貴重な休日をフルに使った山歩
             きを楽しんだものである。そもそも山登り(山歩き)と言うものは、その昔から夜行列車に乗り
             込んで鈍行列車の硬い床に一夜の身を委ねて、朝麓の駅に降り立ち、始発のバスを捕まえ
             て登山口に行くと言うのがパターンであったように記憶している。
              登山口のバスも、早朝と夕方に数本しかないところが多く、大体が朝顔を合わせた行き
             ずりの人々と仲間意識を持ったりして、行程の所々で一日中顔を見合わせて過ごすなどと
             言うことが多かったものである。
              車中、4人の老男達とそんな昔話をしながら、Y氏の車に身を任せつつ、安易に山行き
             が楽しめるようになって有難い事だと時代を賞賛しながら、陽の高さを追うように渓谷を
             走らせていった。
              私は過、日天目山が相応の峠のような感覚で意識していたのであったが、さらに進めば道
             路右側に連なる峰、大菩薩嶺の麓である。日川渓谷はさらに懐の深いものであった。
              シラビソやカンバの大木が斜面を覆うようになり、やがて深山幽谷の観を帯びてきた。
              それでもこの日川街道は、通称「大菩薩ライン」と呼ばれる東京青梅と山梨塩山を結ぶ
             国道41号線と結ばれる主要地方道に指定されている為、交差不能の狭いところがかなり
             あったものの舗装が絶えることは無かった。
              日川はその水源を大菩薩嶺に発しているが、直下は東京都の水源地「上日川ダム」で
             ある。
              このダムを下から見上げつつ進み、上から見下ろす位置が大菩薩峠登山口、「長兵衛山
             荘」であった。
              峠一帯に設けられてた100台あまりの駐車場は既に6割方埋まっていて、身づくろい
             をし終わったグループが三々五々登山口を入っていくのが見えた。私たちもリュックを背
             負い靴紐を締めなおして長兵衛山荘脇の登山道へ向かった。
              地図で見ると登山道はその先の「福ちゃん山荘」で二手に別れ、一方は大菩薩峠へ、一
             方は唐松尾根を経て雷岩に至り、大菩薩嶺を目指すコースである。
              パートナーの3人は少々タフな上り坂ではあるが唐松尾根コースを登ることを予め打ち
             合わせていたようであった。
              福ちゃん山荘までの道路は車も入る舗装された道路が登山道と並行して整備され、塩山
             駅から国道を通って裂石経由で来るタクシー利用者は山荘までも入れるとのことであった。
              福ちゃん山荘からはすぐに上り坂となり、登山道の名の通り背の高い唐松林の中の道と
             なった。しばらくは葛折をなしており、私は久し振りなことだと山の思いに浸りながら歩いて
             いた。唐松林の道は八ヶ岳も同じで、以前専ら夏の八ヶ岳を歩いていた私は、長い八ヶ岳
             山麓の唐松林を、歩き切って原生林を見るまで耐えるように汗を拭きながら歩いていた頃を
             懐かしく思い出しながら歩いた。
              唐松尾根登山道は、稜線の雷岩と言われる大岩の寄集まった見晴らしの良い場所まで約
             1時間かかった。林を抜けた尾根からは富士山がすっきりと浮かび上がって見えた。周囲
             の山並みも、上昇気流が産出す少しの白い雲に隠されているだけで、空は真っ青だった。
              仲間は喜び合って雷岩の眺めを楽しんだ。
              時刻はまだ11時だった。
              私たちはここの高嶺である大菩薩嶺までの往復をしてから再び雷岩で昼食をとる、とい
             うことにした。その行程は1時間を要せず、また大菩薩嶺の山頂は木立の中で見通しが良
             くないと聞いていたからである。
              登山道は緩い傾斜の易しい尾根道であったし、頂上は成るほどその通り視界は無く、私
             たちは記念写真を撮って引き返すのみであった。
              前日まで雨の続く鬱陶しい日々であったし、台風が影響して暑さがぶり返していたのに、
             当日は打って変わってカラッと湿度が下がり、まして2000mの山上はこの上ない快
             適な爽やかさであった。
              昼食をしながら、その間もどんどん雲が減ってますます視界は広がり、ついには雲ひと
             つ無い空になっていた。
              東に秩父連山から多摩の山々、そして霊峰大富士、手前に丹沢山塊、毛無連山、赤石連
             山、南アルプスは聖岳から北岳、駒ケ岳遥かに中央アルプス、そして乗鞍まで見通せた。
              私の注目する八ヶ岳は間近甲府盆地の隣に一掴みのように見えた。
              昼の雷岩での視界を堪能し、稜線の展望を楽しみながら、私たちは再び大菩薩峠への縦
             走路を歩き始めた。
 
              この大菩薩連嶺は奥秩父山塊に位置し、大菩薩峠は日本百名山の一つに選ばれている。
              大菩薩という名称の由来は、源義光(新羅三郎義光)が後三年合戦の際に軍神の加護を
             願い「八幡大菩薩」と唱えたこと、また、観音菩薩が祀られていること、などのいわれか
             らとのことである。
              高峰の大菩薩嶺山頂は樹林帯のため眺望がない。そのため、大菩薩嶺のみを目指して登
             ろうという者は少なく、登山者の多くは大菩薩峠とセットで登っているようである。
              まさに我々もその通りだった。

              ここは江戸時代まで、武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州道中の裏街道であった青梅街道の重要
             な越峠として利用され、また最大の難所でもあったといわれる。現在の東京都西多摩郡奥
             多摩町と山梨県とをつないで物資の輸送にも利用されたのであろう。
              現在の峠は近年に認定されたものであり、江戸時代までの街道にあった旧峠は登山道に
             は「賽の河原」という地名で残っている。
              1878年(明治11年)、青梅街道は道路改修により柳沢峠を開削した新ルートに変
             更されたため、その役目は柳沢峠に譲られた格好で、近年こちらは専ら登山の景勝地とし
             て人気がある。また、1913年から29年間にわたり幾つかの新聞に連載された一大巨編、
             時代小説『大菩薩峠』が著名で、この峠の名は知れ渡った。作家中里介山の死亡により、小
             説は未完に終わったが、映画化も数度、『大菩薩峠』はその小説と共にあるといってもいいだ
             ろう。
 
              少しの樹木と一面熊笹の野を歩くと言った視界のよい尾根歩きであった。やや下りに幾
             つかの起伏があり、関東の主峰雲取山から左に山梨、埼玉県境となる大洞山、唐松尾山が
             くっきりと、その手前には奥多摩湖の水面がここからは少し小さめに見えた。奥多摩湖に
             至る山襞の間がこの峠に至る旧街道であろう。目前に殺伐たる広場のような賽の河原と称
             する平地があり、妙見堂という小さな建屋があった。
              親不知の頭と呼ばれる小山を越えると、小説「大菩薩峠」の作者中里介山にまつわる記念
             碑があり、大菩薩峠と標識の立てられた岩塊の散ぜんとした場所が現れた。そこが大菩薩
             峠の頂上であった。雷岩からは約40分の道のりであった。
              テーブル状に設けられた周囲の山々の案内図が便利だった。なかなか地図だけでは確か
             められない峰が好天に恵まれた青空の下にはっきりと確認でき有難かった。十分に山々の
             景観を楽しむことが出来て嬉しかった。
              「介山荘」と書かれたこじんまりした小屋が若い人で賑わっていた。ここまでは小さな
             車ならば入ってこれる道路が福ちゃん山荘から続いているとのことで一般は入れないが、
             小屋などの荷物運びが出来るらしい。皇室関係者の登山があったときに整備されたとのこ
             とで、小屋の隣にある公衆トイレも山小屋とは思われない行き届いたものであった。

              一休みして、私たちは山の景観に別れを告げ、下り道を辿り始めた。
              その日はとても空気が乾燥して、陽の光は強かったのだがさっぱりとしていたし、木陰
             の登山道は、傾斜も緩くまるで散歩道のようで気持ちよかった。
              途中道路脇の斜面に幾つか湧き出るような水の流れがあり、丁寧に路面をくぐらせたり
             トヨを通したり水路が確保されていた。やがて谷間の方に渓流の音が聞こえるほどになっ
             ていった。日川の源流と言うことになるのだろう。
              富士見山荘という小屋があったが人の気配は無かった。少し周囲が開けて、谷の向こう
             に一日輝いているかの富士山がすっきりと見えていた。そこからは福ちゃん荘にすぐつい
             た。
              皆で福ちゃん荘で飲んだコーヒーは旨かった。今日の喜びを語りながら、良い山行きだ
             ったことを思い出語りした。これは岐路を柳沢峠から奥多摩に向かった道中も途切れるこ
             と無く続いた。
              青梅の街で再びコーヒータイムを過ごし、楽しかった初秋の大菩薩行を、愛しみつつ薄
             暮の家路をたどるのであった。                                                                                  

風次郎 

  
大菩薩嶺と大菩薩峠の頂上標識

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