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風次郎のColumn『東京楽歩』 (No587T−142)

                                         渋沢栄一像(常盤橋公園)                                                                                                                                   

                                                                                2019年4月
          東京楽歩(No142)渋沢栄一像と常盤橋公園


                              毎週金曜日は東洋経済社が主宰している「経済倶楽部」の会員向け講演会を聴きに出
                             かける。東洋経済社は会社四季報で名を馳せたが、時には大正デモクラシーのオピニオ
                             ンリーダーと言われ、政界では首相にも在位した石橋湛山も経営に携わった伝統ある社
                             である。
                              同社のビルは、もとは現在日本銀行が建っている場所にあったのだが、日銀の建設に
                             場所を譲り、道路を隔てた現在のところに移ったのである。日本橋川(外堀)に架かる
                             常盤橋交差点の東側に位置するが、対岸に常盤橋公園があって江戸城常盤橋御門跡の石
                             垣を背に渋沢栄一の銅像が立っている。
                              週に一度経済倶楽部に通う習慣になった私は、折に触れこの像を見上げつつ舗道を歩
                             くのである。
                              平成から令和に年号が変わるにあたって、日銀券が改めて発行されることになり、渋
                             沢栄一の肖像が一万円札に採用されることになり、渋沢栄一翁が脚光を浴びている。
                              私も渋沢翁を仰ぎつつ改めて像の前に立った。

                              常盤橋から東京駅日本橋口にかけての一帯は現在三菱地所が常盤橋地区再開発と称し
                             てプロジェクトを進めており、“常盤橋から眺めを変える、世界を広げる”として日本
                             一高い390mの超高層タワーや 7,000uの広場を含む新たな東京の大シンボル設計が進ん
                             でいる。
                              江戸時代。常盤橋には、江戸城へ向かう表玄関である常盤橋御門が存在し、参勤交代
                             の際には、常盤橋御門から江戸城の正面玄関である大手門までの道が、正式ル―トとし
                             て使われていた。日本橋川(外濠)にかかる橋を渡ると、江戸城の大手門に通じていた
                             常盤橋門の跡に高い石垣がある。現在は常盤橋公園である。ただ、現存する石造の「常
                             磐橋」は、明治時代に入ってから、現在の飯田橋付近に架けられていた小石川御門の石
                             垣を利用して造り替えられた物とのことである。(都内最古の石造アーチ橋として、国
                             の史跡にも指定されている)

                              渋沢栄一の像は石垣の南側に東京駅の側から、大手町へ向かう通りに向いて立ってい
                             るが、それは日本で初めての銀行、第一国立銀行の方向を向いているのだという。
                              銀行は栄一により1873(明治6)年、海運橋のたもと日本橋兜町の東京証券取引所の
                             隣接地に設立された。国立と言いながら民営による銀行で紙幣が発行できた。1882(明
                             治15)年に日本銀行が設立されると国立の名が剥奪され、第一銀行となっのであった。
                             (戦後、日本勧業銀行と合併、第一勧銀となり、富士銀行と合併して、みずほ銀行とな
                             った)。

                             渋沢栄一は1840(天保11)年、埼玉県深谷市血洗島に生まれた。渋沢家は苗字帯刀を
                            許された豪農で農業のほかに藍玉作りと養蚕を業としており、これを紺屋に売り利益を
                            得ている。渋沢家の商業的センスは、このことによって培われたと言われる。
                             栄一は江戸に出て千葉周作道場に入門、北辰一刀流を学ぶ。その影響もあって尊王攘
                            夷論者となって倒幕を志す。しかし縁があって一橋家の用人、平岡円四郎の知遇を得て、
                            慶喜の家臣となった。それを縁に昭武の欧州派遣に随行して西欧の文明、経済の仕組み
                            に触れ見聞を広めていく。
                             1868(慶応4)年、将軍慶喜は大政を奉還、幕府は終焉を迎え、明治に改元された。
                             帰着した栄一は慶喜の配所である静岡に下向。帰国の報告をする一方、静岡に商法会
                            所(銀行と商社を兼ねる)を設立している。その後大隈重信に見いだされ、大蔵省に入
                            省、民部省改正掛を率いて改革の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制
                            定に携わった。1872年には紙幣寮の頭に就任、明治通宝(通称ゲルマン紙幣)発行に関
                            わる。
                             明治6年(1873年)退官したが、明治8年には商法講習所を設立している。退官後間も
                            なく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任し、以後は実業界に身
                            を置いた。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を
                            指導した。設立に関与した企業は下記のごとく数多い。
                             *(第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市鉄道(現
                             東急電鉄)、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、
                             麒麟麦酒、サッポロビール、東洋紡、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫、共同通信、
                             時事通信な ど 500以上 といわれる。)

                            1887年ころには、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる「龍門社」が組織され、昭和初
                           期には数千名の会員を数えた。
                            渋沢翁は道徳経済合一説を唱え、大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、その
                           理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済
                           を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有す
                           るものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけたのであった。
                            『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。

                            富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。
                            正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。――と。
                            渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に
                           「渋沢財閥」と呼ばれたこともあったが、これは死後の財産争いを防止するために便宜
                           的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほ
                           とんどの場合は数パーセントにも満たないものであった。

                            常盤橋公園の渋沢栄一像は早稲田大学大隈講堂にある大隈重信の像も彫った朝倉文夫
                           の作である。大隈こそ渋沢を見出した人と言える。
                            私の住居のすぐ近くには近代日本経済の発展に貢献した人々が数多く巣立った一橋大
                           学の学生寮、「中和寮」がある。その「中和寮」の命名者が渋沢栄一翁である。「中和
                           」は渋沢の仁義道徳に通づる魂であろう。(現在そこは国際交流会館として新たな経済
                           展開への期待を育む学生の基点となっている)

                                              *  *  *  *  *

                            時に、長年サラリーマンで暮らしてきた身であれば、翁の像前に立つと、ここでも礼
                           を慎む思いに苛まれる。
                                                                           風次郎  

         

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