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風次郎のColumn『東京楽歩』
(No429T−106)
アジサイ(はなの2015作品展から)
2015年12月22日
東京楽歩(No106) 「言葉の美学」に向き合う
昨今の時世は多様化で、人間の感覚も多様化してしてしまい、整える余裕がなくなった
のか、ザックバランになりすぎているように感ずるこのごろである。形式の尊重が薄れて
来ているように思う。
美しいと言うことについて考える。
美しい絵を見ると心が和む。激しい絵を見ても感動し、心が動かされるが、人によって
はそれも美である。何をもってその人の美とするかは人それぞれではあろうが、一般的に
自分がそこに納得出来る、心に響く整った光景を眼にすること、そしてそれが周囲にも同
じように美しいと感ずるであろう光景であろうとの主張が「感性として」のその人の美学
である。
と、――いささか回りくどい話になってしまった。
要するに、「美しい姿」「美しい景色」で事足りるのが美学と言うべきか。
――それでは物足りないのである。「カタチやバランス」が優れないと。
さて、年末になるとこの年を振り返り、改まった新年に備える習慣が日本人にはあるの
で、私も思いを巡らすのである。
生活のスピードも極端に速くなった時代だし、活動範囲が広くなっている為、自然の風
景、都市空間、生きる人の姿、言葉や絵画、音楽など芸術は勿論のこと時代の推移はどん
どん景色や情景に対する感性と言えども変化を要求され、目まぐるしい。
気持ちとしてついて行きたいのは山々である。が、
最も惜しむらくは――、と私が感ずるのは、言葉についての「美学」なのだ。
古来、日本の言葉は決まり(カタチ)が厳格で、世界で最も難しい言葉と言われているが、
だから故にそこには美しさが存在する。標準語しかり、地方訛りしかりである。これを大切
にしない訳にはいかない。
表現する文字面の言葉に留まらず、話し言葉に至っては、イントネーションが大事で、
訛りでも、受け止める美学は異なるから、口から出る言葉に、いい加減は許されない。そ
んな経験を、私もこれまで何回となく味わってきた。
美しい言葉を使って話す人、さらに言えば綺麗な表現の文字を書く人(書き物には字面
の印象も伴うから)それぞれに日本語の味わいは深いのだと思う。
美しい言葉遣いの出来る人を羨ましいと思う。
昨今はスピードの時代であれば、書くより話して言葉を他の人に伝えるのが簡便である。
一概には言えないが、新聞よりラジオ、テレビ、手紙より電話と言う時代になっている。
だから余計に、テレビ電話も含めて表情が加わった表現力まで行かずとも、特に話し言
葉について、この「美学」を大切に、と願う一人である。
私は決して話し上手ではないから、今を長年歩んで来た自分の持つ「話力」として、こ
れからくる年も注意深く研鑽し、少し磨いて良いものに仕上げたいと思う。
ところで、この「美学で磨く話力」のお手本を何処何に求めようかと迷ったのだが、先
ずそこで躓いてしまった。昔からNHKのアナウンサーはそういったことについて、徹底
的に訓練を受け、厳しく話力を要求されたと聞かされた。そしてそれは美しい標準語のお
手本だったのだが、その気になって聞耳を立ててみると随分いい加減であった。ことに今
時的なイントネーションを頻発されて、場合によっては品性に欠けるようにさえ響くこと
が多いのだ。これでは最早NHKを頼りにはできない。私の時代感覚がズレていると思わ
なければ許し難いと思ったので、他人に聞いてみたが同感と言われた。それが今の時代な
のであれば致し方ないことか――。
であれば、余計に私の課題とすることは適切に思われる。お手本は自分の感性で行こう。
一つづつ、周囲を先生として反応を伺い、習慣を重ねて、少しでも自分の美学に沿った
「美学で磨く話力」を身につけていくことにしたい。
はてまた、どう進展するのだろう。努力、努力だ。
「言葉の美学」を追求しよう。
「美学」はいつも語りたい。
今年はこの辺で――。 風次郎
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