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風次郎のColumn『東京楽歩』  
  (No394T−103)
  
                                         静かな朝の神楽坂(2015.3)                                                                                                    

                                                                                   2015年3月29日
          東京楽歩(No103)新宿巡り

                8.文人の居た処を歩く(2)

                           良く晴れた日の午前中だった。
                           その日も地下鉄東西線を使って早稲田通りの神楽坂で降りた。
                           牛込中央通との角には新潮社の大きなビルが2つ並んでいる。もっとも最近は色々な大きなビルが
                          競い建つようになったから、このビルもそう大きくは感じなくなった。坂を下った大久保通り角には
                          旺文社があり、書籍屋の通りの感がある。
 
                           新潮社と通りを挟んだ西側は矢来町だ。道路で隔てられた新潮社別館の裏手には、矢来観世家・観
                          世九皐会の本拠地として活動の拠点となっている矢来能楽堂がある。観世清之は1908年神田西小川町
                          に舞台を設けたのであるが、関東大震災のために焼失、1930年に現在地に移って復興した舞台は、さ
                          らに1945年5月の空襲によって二度目の焼失をした。昭和27年(1952年)に建てられた現在の舞台は、
                          東京都内にある能楽堂のなかでは、杉並区にある大蔵流狂言・山本家の舞台に次いで古く、国の登録
                          有形文化財となっている。
                           私は能楽堂を見やって、少し先の秋葉神社あたりを歩いてみたかった。

                           漱石居住の処

                           かつてそのあたりに夏目漱石が住んだところがあると聞いたことがあり、先日漱石公園の資料館で
                          戴いた「漱石山房春秋」という冊子には新宿区矢来町3(当時:牛込区矢来町三中の丸)と記されて
                          いたからである。
                           漱石は明治36年(1903)1月英国より帰国後、この辺りにあった鏡子夫人の実家中根家のはなれ
                          に住んだという。
                           当該地は普通の民家になっており、それらしき跡形は感じられなかった。端向かいにあった商店で
                          口に出してみたが、「そんなことを聞いたことがある」程度の事であった。中根家の家は荒れた貧乏
                          暮らしだったというから、漱石は秋葉神社の狭い境内あたりで空を眺めて時を過ごすこともあったろ
                          うと、暫し佇んでみるだけに終わった。

                           尾崎紅葉終焉の地

                           牛込中央通を先に進み、大久保通りの一つ手前旺文社の前を左に折れて、神楽坂の寺町の小路を行
                          くと児童公園がある。その先、常念寺、大信寺の背中あたりが尾崎紅葉の旧居跡になる。

                           紅葉は「源氏物語」を読み、その影響を受けて心理描写に主を置いたように言われる。作品は、そ
                          の華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から「井原西鶴を思わせる」と、風俗
                          描写の巧みさを評価されたのであった。
                           一世を風靡したのは明治30年(1897)「読売新聞」で始まる連載の「金色夜叉」であった。
                           貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は、日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い
                          大人気作となり今日に伝わっているのだ。しかし、紅葉はもともと病弱であったために、この長期連
                          載が災いして明治32年(1899)頃から健康を害し連載を中断した。療養のために塩原や修善寺に赴
                          き、明治36年(1903)には続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、胃癌と診断されて再
                          び中断。同年10月30日、この地にあった自宅で生涯を閉じたのである。
 
                           尾崎紅葉は慶応3年12月16日(1868年1月10日)、江戸芝中門前町(現在の浜松町)に生れた。もと
                          もと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されているが、伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不
                          明とのこと。東京府第二中学を中退し漢学や三田英学校での英語などを学んだ。紅葉の学費を援助し
                          たのは、母方荒木家と関係の深い横尾家であった。
                           東大予備門(明治19年に第一高等中学校英語政治科に編入された)に入るころから詩作にふけり、
                          入学後文学への関心を深めたという。
                           明治21年には帝国大学法科大学政治科に入学し、翌年は国文科に転科、しかし、その翌年退学し
                          て大学在学中ながら入社していた読売新聞社に籍を置いた。以後紅葉の作品の重要な発表舞台は読売
                          新聞となっている。

                           この地牛込区横井町(現在の新宿区横寺町)の自宅で死去するまで、江戸っ子気質そのままだった
                          紅葉の最期の言葉は、見舞いに来た人々の泣いているのを見て言った、「どいつもまずい面だ」だっ
                          たという。
                           紅葉の墓は青山墓地にあるが、その揮毫は、硯友社の同人でもある親友巌谷小波の父で明治の三大
                          書家の一人といわれた巌谷一六によるものであるそうだ。

                           この辺りも平凡な住宅地になっていて面影を偲ぶこれと言った目ぼしい様子は無かった。歩きなが
                          ら思い慕うばかりであった。

                           島村抱月終焉の地

                           これも案内図を頼りに訪ねるが、紅葉終焉の地に近いところであった。
                           横寺町円福寺の1ブロック東側あたりの見当である。正蔵院との中間あたりか――。しかし、ここ
                          も一般市民の平和に暮らす住宅地で、これと名士を偲ぶ目ぼしい様子は無かった。

                           島村抱月は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として
                          知られた人である。逍遥とともに日本の演劇史を立ち上げた人と言っていいと思う。
                           旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎。島根県小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として明治4年1月
                          10日(1871年2月28日)生まれ、まもなく浜田町裁判所検事・島村文耕の養子となっている。
                           明治27年(1894)に東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、記者を経て、明治31年(1898)に
                          読売新聞に入るが、明治39年には坪内逍遥とともに文芸協会を設立し、演劇研究所において本格的に
                          新劇運動をはじめる。
                           しかし 1913年(大正2年)に妻ある抱月と研究所の看板女優、松井須磨子との不倫が醜聞となった
                          ことで逍遥との関係が悪化し、これで抱月は文芸協会を辞め、須磨子は研究所を退所処分となってし
                          まう。
                           同年、抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。翌大正3年(1914)、トルストイの小説を基に
                          抱月が脚色した『復活』の舞台が評判になり、また須磨子が歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコ
                          ードにも吹き込まれて大ヒット曲になった。
                           その新劇の大衆化に貢献したというのも束の間、大正7年(1918)11月5日、抱月はスペイン風邪で
                          急死してしまう。須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って自殺する。
                           これで芸術座も解散になってしまうのである。
                          憐れな結末と言わざるを得ない。

                           雑司が谷霊園と同区の浄光寺に分骨埋葬されていた抱月の遺骨は、平成16年(2004)、故郷の島
                          根県金城町(現・浜田市)へ里帰りしたとのことである。

                                            △  △  △  △  △  △
  
                           早春を思わせる綺麗に晴れた日で、青空が神楽坂の通りの上に広がっていた。
                           早稲田通りから大久保通りを越していわゆる神楽坂通りにかかるあたりから、午前中というのに人
                          の往来もかなりあって、店先で客を迎える風景も街の賑わいとして好もしい風景であった。
                           それなりの散策に事欠かない飲食店や伝統を繋いでいるらしい風物も見受けられ、昨今の町興しが
                          利いているようである。
                           神楽坂のシンボルと言われる毘沙門天善国寺の赤い柱が午前の日の光に輝き、ブロックの綺麗に敷
                          き詰められた舗道にも風情があるように感じた。
                           ビルに化したが、漱石がこの店の原稿用紙を愛用したと言われる「相馬屋」も現存している。
                           それなりの風格を保って時代を繋いだ「芸者新道」、また「かくれんぼ横丁」などの名称もそのま
                          ま残り、江戸語りが何処かにすぐにもありそうな日本の街並みが偲ばれるところだと思う。
                           文士が馴染んだに相違無い。
                           散策の思いを一杯のコーヒーに窘められるような午前のひと時であった。だが、宵の灯りが灯る頃、
                          そぞろ歩きと酒語りと言うのがこの街には相応しいのであろうか。
                           かつての文人がそうしたように。
                           坂を下りて、飯田橋の駅に向かった。

                                                                         風次郎

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