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風次郎のColumn『東京楽歩』  
  (No393T−102)
  
                                         小泉八雲終焉の地(2015.3)                                                                                                    

                                                                                   2015年3月22日
          東京楽歩(No102)新宿巡り

                7.文人の居た処を歩く(1)

                           今日も地下鉄を降りて新宿の街並みの中に立った。
                           新宿通りは3丁目辺りまで相変わらずの新宿らしい雑踏で、人混みの中をぶつかるようにして歩き
                          つつ明治通りから靖国通りを東に向かう。小泉八雲、永井荷風、坪内逍遥のゆかりの地を歩いてみよ
                          うとの心がけである。
                           この通りは富久町から少し登り曙橋にかけてだらだらと下って行くが、丁度そののぼり坂にかかる
                          処が信号のある富久十字路で、その北側にある成女学園の角あたり富久町7−30が小泉八雲の旧居
                          跡と示されていた。その日は小泉八雲の記念公園にも向かう予定だったから、その前に旧居跡の様子
                          を見たいと廻ったのである。成女学園の中庭が八雲の旧居跡で、靖国通りに面した同学園敷地内であ
                          った。新宿区の案内板と「小泉八雲旧居跡」の碑があった。

                           永井荷風宅跡へ

                           北へ向かう道路は通称医大通り、私はそれを少し進んで富久小学校の先を小路に入り、入り組んだ
                          住宅街を抜けて、曙橋から台町坂を上ってくるやや広い通りへ出た。通りを挟んで北側が余丁町、永
                          井荷風がフランスから帰国後10年間住んだところはその余丁町14−3であり、丁度その場所には
                          マンションが建っていて新宿区が立てた史跡案内板が敷地の端にあった。
                           新進作家への歩みを始める頃の作品「あめりか物語」「ふらんす物語」はこの地で執筆されたので
                          あろう。永井荷風の家はれっきとした邸宅であったろうが、1913年1月父久一郎の死去によって
                          家督を相続して以来、不幸に見舞われるようになる。
                           2月には妻ヨネと離婚、その後翌年は芸者の八重次と結婚式を挙げるなど波乱の道を歩み出す。文
                          士の生涯ははかり知れないロマンとの狭間を渡り行くものかもしれないが、その後は波乱不運の人生
                          ともいえる。
                           この地で暮らし始めた渡航の後のひと時が、逍遥にとっては将来に希望を持った良き人生の時だっ
                          たのかもしれない、と私は佇んだ。

                           坪内逍遥宅跡へ

                           坂を上がっていくと抜弁天通りに突き当たる。今は都営大江戸線の地下鉄が走る新宿駅方面からの
                          いわゆる職安通りの先にあたる。その交差点の角は抜弁天を名乗る厳島神社であるが、その少し手前
                          に坪内逍遥宅があったとのことだった。
                           逍遥の旧宅は7番地あたりというからその辺であったろう。邸宅の位置はよく確認できなかったが、
                          道路脇に新宿区が建てた史跡案内板があった。写真が一緒に掲げられていたのでよく眺めると、流石
                          に敷地内に演劇研究所を設置していたというだけあって、木造でこそあれ大きな建物だったのだと思
                          う。今は平凡な商店街になっているが、逍遥はこの地に約30年にわたり居住し、当時の花形松井須
                          磨子らを育てたのであった。
                           明治時代に活躍した劇作家、坪内逍遥であったが、小説家、評論家、翻訳家でもあった。しかし何
                          と言っても近代日本文学の分野では、演劇改良運動に大きな影響を与えた人であった。近くの早稲田
                          大学には、逍遙の古稀とシェイクスピア全訳の偉業を記念して創設された演劇博物館がある。
                           本名は坪内雄蔵(つぼうちゆうぞう)、別号に春のやおぼろ(春廼屋朧)をも称したという俳人で
                          もあった。 
                           妻・センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫という人で、当時学生だった逍遙
                          が数年間通いつめて結婚したという。坪内逍遥という人も情熱家だった。(松本清張はこれを題材に
                          した『文豪』を書いている)
                           二人には子がなかった。逍遙は兄・義衛の三男・士行を7歳のときに養子に迎えたが、後年士行の
                          女性問題が原因で養子縁組を解消している。また逍遥は写真家・能笛家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑ
                          つの間にできた長女・くにをも養女に迎えている。
                           このくにの回想記には晩年の逍遥の様子が詳しく綴られおり、晩年は熱海市に建てた双柿舎に移り
                          住み、ひっそりと余生を送ったようである。
                           享年76歳(没昭和10年)であった。家庭的には寂しい生涯だったのかも知れない。
                         

  
坪内逍遥旧居跡の案内板と掲げられている写真

  小泉八雲記念公園

                           抜弁天通りを西へ向かい、明治通りとの大きな交差点を過ぎて100メートルも行かない右側に入
                          ったところに大久保小学校があるが、その正門の脇が小泉八雲の終焉の地、記念碑が造られていた。
 
                           来日した八雲は松江、神戸を経て帝国大学講師に招かれ上京するが、先に寄ってきた富久町で5年
                          間過ごし、明治35年(1902)、旧板倉子爵邸を買い取って、ここ大久保1−7へ転居したのである。
                           そして明治37年(1904)心臓発作でここで亡くなった。
                          大きな桜の木と生垣を背景に石碑が建ち、旧居の写真版を伴った由緒が石版に標されていた。 

                            小泉八雲は、ギリシャでアイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれた。19歳でアメ
                           リカへ渡り、24歳のとき新聞記者となった。以後外国文学の翻訳、創作を発表して文才を認められ、
                           探訪記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者として幅広く活躍した。
                            東洋と西洋の両方に生きた人である。
                            出生は1850年(嘉永3年)、名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio
                           Hearn) 。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームで
                           ある。アイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んだファーストネームは、ハーン自身キリスト教
                           の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったと言われる。
                            ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴
                           任を命ずる辞令に、「Hearn 」を「ヘルン」と表記されたのが広まり、当人もそれを「ハーン」と読
                           み、そのように呼ばれることを気に入っていたことから定着したと言われる。HearnもしくはO'Hearn
                           はアイルランド南部では比較的多い姓だという。
                            1890年(明治23年)、39歳のときに記者として来日。翌1891年には松江の士族小泉湊
                           の娘・小泉セツと結婚、明治29年(1896)には日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗っている。
                            「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲
                           国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとしたものである。
                            以後熊本(第五高等学校の英語教師)、神戸(ジャパンクロニクル社)と移り住み、1896年(
                           明治29年)神戸から東京に転じて、東京帝国大学(英文学講師)の教壇に立った。

                            旧居跡地から道一筋隣(同番地)には小泉八雲記念公園があった。「小泉八雲記念公園」と称する
                           処は、ここ以外にも松江、熊本、焼津にあるが、それぞれ転居や滞在時の所縁の地である。
                            この公園は、1989年(平成元年)、新宿区と八雲の生誕地ギリシアのレフガタ町が友好都市に
                           なったのを記念して造られたとのこと。ギリシャの古代神殿の柱と花壇をイメージした庭園で、駐日
                            ギリシャ大使から贈られた小泉八雲の胸像が建てられている。在日アイルランド大使から贈られた、
                           八雲が子供の頃を過ごしたアイルランドのダブリンの住宅にあるものと同じというプレートも囲いの
                           壁に埋め込まれている。
                            庭の手入れも行き届き、綺麗に花壇が整備されていた。

                            小泉八雲は何故日本に来たのであろう?との疑問にかられて調べてみると、米国に居た時、女性ジ
                           ャーナリストのエリザベス・ビスランド(後にアメリカでハーンの公式伝記の著者となる人)から、
                            彼女の旅行の帰国報告で、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような
                           国であったかを聞いたのであった。ハーンにとって、生涯を通し憧れ続けた美女で、年下ながら優秀
                           なジャーナリストとして尊敬していたビスランドであったから、彼は彼女の発言に激しく心を動かさ
                           れ、急遽日本行を決意。
                            ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、横浜港に
                           到着。契約のあった通信社の契約は、その直後破棄し、アメリカで知り合った服部一三(この当時は
                           文部省普通学務局長)の斡旋で、松江の英語教師(現松江北高と島根大学)に任じられるたのだとい
                           う。

                            早稲田大学の講師を務めていた1904年9月26日、狭心症により東京の自宅で54歳の生涯を
                           閉じた小泉八雲の墓は東京の雑司ヶ谷霊園にあるという。

                                                      △    △    △

                            すぐ北の大久保通りをJRの駅に向かって歩いた。
                            この辺りは昨今、近隣アジアの人々が賑わいをつくる街になった。陽が落ちる頃、行き交う人の多
                           くなる時間、舗道は日本に居ると思えないほど他国の若者の喧騒に巻き込まれて歩いた。
                           話し言葉が違う??????なるほど、新宿はこの辺りから変わっていくのかも知れない。                                                     

  
小泉八雲記念公園と胸像(2015.3)

                                                                         風次郎

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