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風次郎のColumn『東京楽歩』
(No392T−101)
漱石公園の入り口にある漱石像(2015.3)
2015年3月15日
東京楽歩(No101)新宿巡り
6.夏目漱石のゆかりの地へ
地下鉄東西線を早稲田で降りて、漱石公園へ向かう。
早稲田通りを弁天町の交差点にかけてなだらかに登っていく。山の手新宿から四谷にかけてのこの
辺りは、江戸時代からの寺町風情である。沿道の建屋の並びにも、まだまだそう言った名残が伺える
庶民的な空気があるように思う。
弁天町の角を右に折れて二つ目の小路をまた右に入った処が漱石公園で、入り口に背広を着た漱石
の上半身大の像が置かれた石碑が訪ねる者を迎えてくれる。脇の碑文は「則天去私」、漱石は理想と
した境地としてこの語とともにここで49年の生涯を終えたのであった。
私の漱石との出会いは中学校の教科書で『草枕』に出会ったことからであった。先生から漱石の名
作であることを教えられ、「坊ちゃん」「吾輩は猫である」を読むという、ごく誰でもある道筋を歩
んだのである。
「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。」「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という冒頭の名文句は私の世相観としても時
として頭に浮かんだ。
前の千円札の肖像としても国民的に親しまれてきた近代日本を代表する文豪夏目漱石、本名は金之
助、ここ新宿・早稲田とは切っても切れない縁の作家であろう。
生れたのは新宿牛込馬場下、江戸時代末期の慶応3年(1867)、大政奉還のあった年である。生後
間もなく古道具屋に里子に出され、次いで内藤新宿の名主・塩原家の養子となった。その後21歳の
時に夏目家に復籍しており、高師・中学教師を経て英国留学後、一高教授・東大講師として英文学の
教師をつとめるなど転々とする。
教師時代、高浜虚子の勧めで写生文を手がけたりするが、38歳にして『吾輩は猫である』で小説
家デビューを果たした。「漱石」の名称は正岡子規の句集に署名したのが始まりとか。
後、40歳で一高・帝大を辞して朝日新聞社に入り、亡くなるまでに多彩な創作活動を展開した。
『三四郎』『それから』『門』『こゝろ』、遺作となった『明暗』など多くの名著がある。それば
かりか、俳句は約三千句をなし、また晩年気品のある文人画も描いている。
作品の追求した問題は広く深く、日本の巨匠として世界に広く紹介されている作家といわれている。
「漱石公園」は、彼が作家として本格的な執筆活動をした晩年の9年間を過ごした「漱石山房」と
呼ばれた屋敷の跡である。借家であったが、敷地340坪に60坪の和洋折衷平屋建て、庭には大き
な芭蕉のきがあったという。大正5年(1916)終の棲家はここ早稲田南町であった。
公園を入った右手には「漱石山房」の白いテラスが復元されており、漱石が書斎を出てテラスで寛
いだであろうイメージが想像できる。
新宿区は、この公園を平成20年を目標に再現リニュウアルの予定で取り組んでいるとのことであ
る。実現後は、資料も充実するであろうし、ファンで賑わうことだろうと思う。
資料を読むと、寒がりの漱石は日向の暖かいところが好きで、冬の間は日差しのあたる縁側に机を
運んで執筆をしたり、また、日が照りすぎると、麦わら帽子をかぶって原稿を書いていたなどとある。
私が訪ねた日は3月とは思えない寒風の舞う日であったから、こんな日は、書斎に置いたと言われ
る瓦斯暖炉を抱くようにして、小さい机に向かって励んだのであろうか――、などとほくそ笑んで眺
めた。
漱石の作風には庶民感覚ですんなり受け入れられるものがある。しかも格調味の揺るがせない滔々
とした運びを感ずるように思っているが、漂うユーモアのセンスは捨て置けない。格調高きヤンチャ
とでも言いたい面白い話が沢山あるようだ。
弟子であった芥川龍之介が語ったエピソードには、ある日のこと、彼ら二人で銭湯に行き、体を洗
っていたところ、漱石の隣で激しくお湯を浴びている男がいて、男の水しぶきは隣に座っている漱石
の顔を激しく叩きつけたという。それが許せなかったのだろう、漱石はその場で「バカヤロウ!!」と
叫んだとか。
何事かと思い芥川がそちらを向くと、漱石が食いついていたのは非常に屈強な体の持ち主であった
という。この時は男のほうが素直に「すみません」と陳謝したので事なきを得たが、芥川は気が気で
なかったという。師の作品中の登場人物を思わせる。
私は昨年、ある成り行きから遺作となった未完の名作「明暗」を再読する機会を得た。自惚と嫉妬
の飾に満ちた津田とその妻おのぶとのエゴイスチックな現実生活の精密な心理を描いた力作であり、
人生逍遥の時に、受け止めるべき幾つもの刺激を与えられると思った。
名作は有難い。
園内には「道草庵」と名をつけた情報発信施設(管理事務所)があり、親切な職員が説明を加えて
くれた。遺族が建てたという猫塚(漱石が可愛がっていた猫・犬・小鳥などの供養塔)もあった。
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漱石終焉の地である「漱石公園」の早稲田南町から、私は夏目坂を歩いて漱石誕生の地へも足を向
けた。
界隈には神楽坂近辺まで漱石の所縁のある処が数多い。大半の建物は時の流れで跡形が見失われて
いるのは致し方ないが、新宿区が史跡保存の手当をして案内板を設けてくれているのは有難いことだ
と思う。
「夏目坂」とは漱石の名声によって、時代が下ってから付けられた名前なのではないかと思い込ん
でいたが、そうでは無かった。大久保通り若松町から喜久井町を経て早稲田通りまでの道を、この辺
りの名主であった漱石の父(夏目直克)が自分の姓を坂の名前として呼んでいたものであるとのこと。
それが通称になったとのことである。夏目家は坂を上りきったところにあった。
漱石誕生の地はその夏目家の跡に、生誕100年を記念しての記念碑が建てられてあった(昭和4
1年建立)。
漱石の弟子であった安倍能成氏の筆によって記された石碑が小倉屋(こくらや=赤穂浪士中山安兵
衛がここの一升酒を引っかけて助太刀に向かったと言われる酒屋さん)の一角に建っていた。
風次郎
情報館と復元された書斎前のベランダ
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