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風次郎のColumn『東京JOYLIFE』
No305(C-29)
簡素な穴山駅とホームの標識板
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中央線各駅停車 29.穴山
韮崎の観音山の下のトンネルを出ると、彼方にいくつもの谷に掛かる中央高速道の橋が
見える。
八ヶ岳もぐんと大きくなって見えてくる。いいいよ八ヶ岳南麓へ向かう。
山間ごとに集落がある。
列車が大きくカーブを切ると、八ヶ岳がさらにぐんと近づいて、広々とした裾野にひと
たまりの部落があり、盛り土の上に造られたような駅が新府駅である。
列車はさらに山間をうねる様に走っていく。
新府―穴山あたりは釜無川を望んで連なる七里岩の上部台地である。路線は台地上の山
の中をうねる様に走るだけではある。晴れていれば背後に富士の山が浮かぶが、左窓、右
窓と大きなカーブごとに位置を変えるので、その優雅な姿を見続けるのは席を移動しなけれ
ばならず大変だ。
列車が西向きに進み、トンネルを一つ過ぎるとすぐに「穴山」の駅に入っていく。
笹竹の土手に囲まれた狭い場所のホーム、山中の林の切れ目、掘割の中の駅のように思
ったが、階段を上って駅舎に通ずる陸橋からは左手に南アルプスの雄大な姿が眺められた。
6月の始まる晴れた朝、稜線付近の北壁には雪が残る甲斐駒ケ岳に雲が棚引き、通学の
乗客が並ぶ駅のホームの土手にヒメジオンが咲いていた。
穴山駅の地籍は、山梨県韮崎市穴山町である。標高518mに位置する。
中央本線開通と同時に、日本国有鉄道は山間の七里岩断崖上の起伏に富んだ処に路線を
建設を進め、この界隈に連なる他の駅と同様スイッチバックで駅を設置したのであった。
しかし、中央本線複線化に際してスイッチバックは廃止され、又、ここから日野春駅への間は、
曲線緩和を含めた路線変更が行われた。降りて辿れば廃止された区間(旧線跡)を懐かしむこ
とができる。
島式ホーム1面2線、やや長い跨線橋が駅舎へ伸びている。
駅舎はかつて、味わいのある古い木造駅舎があったが、今は山小屋風の簡易なものに建
て替えられている。韮崎駅が管理する無人駅である。
駅のホームには武田氏の重鎮、殊に信玄を支えた穴山梅雪に由来する「穴山氏発祥の地
」の看板が示され、甲斐武将、武田を支えた豪族穴山氏の庄であったことを案内している。
駅近くにその時代からの古い部落がある。
何故か穴山氏は武田撲滅の時に信長方に寝返ったのであるが、その間の事情は謎だ。墓
所万願寺は駅からは約3km、中央道須玉インターに近いところであった。
駅を出ると正面に能見城跡と山腹に表示された小高い山が見えるが、能見の言われにつ
いては戦国時代から伝わる地籍とのことで、近隣に問うても不明であった。
むしろ山裾にある日本百名山の著者で知られる登山家「深田久弥」の泊まり宿でもあっ
た穴山温泉・能見荘が有名で、大正元年創業以来、文人や画人をはじめ、多くの人々に親
しまれているようである。
そこは深田の愛した茅ガ岳が良く見える場所で、それに止まらず、北東の八ヶ岳から甲
府まで続く広大な裾野を眺める山ふところの里が豊かに思えた。
町(ここは韮崎市に編入されているが)の広報誌にはここ北巨摩郡穴山村(現韮崎市穴山町)
出身の「伊藤うた」のことが書かれている。
明治時代の封建制度のもと「女に教育はいらない」という気風の時代に、うたは困難を
乗り越えて31歳で単身上京し、東京裁縫女学校(現東京家政大学)に学び、自らの生涯
と重ね合わせ「女子が生活上の不幸に遭遇しても、裁縫の力で自立できるように」と、1
900年に山梨裁縫学校設立し、女子教育の先駆けを成した人である。
風次郎
能見城址
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