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風次郎のColumn『東京JOYLIFE』  
   No286(C-19)
  
 JR塩山駅南口
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                                                                              2013年1月
          中央線各駅停車 19.塩山                                                  

                      列車が勝沼ぶどう卿駅を出ると軽快な走りになったような気がする。車窓が開け同
                     時に風景の流れが明らかに下り坂を感じさせるからなのだろう。
                      列車旅は山の中の狭隘な車窓を過ごしてきたことで、感覚が人家集落のつづく中に
                     少しの広さと余裕を見出し、里に至った安堵感もあるということか。
                      山裾の傾斜を伝わって、路線は何とほぼ真北を向いて走るのであるが、真っ直ぐに
                     あっという間に坂を下りきって程なく小さな川「重川」を渡ると、またこれも小さな
                     トンネルを潜り、急カーブして「塩山駅」に入っていく。
 
                      勝沼からの山の斜面の下り坂、右側はブドウ畑の土手ばかりだが、左側は滑らかに
                     遠く下がっていくブドウ畑の続いている。
                      冬の朝の車窓は、彼方向こうに甲府盆地の街灯りが広がる。冷たい冬の空気は澄ん
                     で、煌めくほどの光に埋まった、山なみに囲まれた里の夜明け前の光景であった。
                      静かに感慨をもたらすほどにも思える車窓であった。
                     駅間3〜4分である。

                      駅は塩山の中心部。単式ホーム1面1線、島式ホーム1面2線とあわせて2面3線
                     の地上駅である。勝沼ぶどう郷駅側に夜間停留用の側線がある。
                     一応基幹駅の雰囲気があるのは特急停車駅だからか。
                      1903年(明治36年)6月11日 国鉄中央本線の初鹿野駅(現、甲斐大和駅)
                     と甲府駅間の開通と同時に開業した。その後昭和62年の国鉄分割民営化によりJR
                     東日本の駅となった。

                      橋上駅舎は簡素だが、上下線のホームと駅舎を接続するエレベーターが設置されて
                     いる。
                      南口の駅前にも北口の駅前にもロータリーが整備されているが、比較的賑やかなの
                     は、駅とモダンな建物に変身した市役所を結ぶ道路が広く綺麗に整備された南口であ
                     る。
                      しかし、北口には甲州が誇る名将、武田信玄の珍しい入道衣を着た坐像がある。そ
                     してその背後に江戸時代後期に建築された民家で国の重要文化財、旧高野家住宅(甘
                     草屋敷)がある。
                      高野家は江戸時代初期頃より薬草である甘草の栽培を始め、八代将軍徳川吉宗治世
                     の頃には甘草を幕府御用として栽培、管理してきた。同家が栽培する甘草は、のち幕
                     府官営の小石川御薬園で栽培するための補給源ともなり、幕府へ上納されたのであっ
                     た。

                      「塩山」の地名は市域南西部に位置する「塩の山(しおのやま)」に由来し、古代か
                     ら「さしでの磯」(山梨市)とともに歌枕として知られる。平成17年11月甲州市
                     が発足するまでは塩山市が存在し、地域の中心であった。
                      一帯は江戸時代、甲州街道が通じて、青梅往還(柳沢峠越)や秩父往還(雁坂峠)
                     など武蔵国へ通じる街道との分岐する地の宿場でもあって、口留番所が置かれたほか、
                     助郷を務める村々もあった。また、大菩薩嶺、(甲州市と北都留郡丹波山村に跨る標
                     高2057 mの山)や大弛峠、西沢渓谷などの登歩きの玄関口の駅にもなっているの
                     で、山歩きを好む人々には馴染みの駅である。
                      柳沢峠から多摩に向かう国道411号とともに下ってくる重川と、雁坂峠からの水
                     系は笛吹川となって市域を南北に流れ甲府盆地を経て富士川へ注ぐ。

                      ここにある甲斐国主武田信玄の菩提寺である恵林寺は鎌倉時代(1330年)に、
                     甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進して五山
                     派の夢窓疎石を招き開山したものである。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格
                     を有していたと言われ、甲斐における臨済宗の中心となったが、応仁の乱で荒廃し、
                     武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれるようになったのであっ
                     た。
                      逸話に、天正10年(1582年)4月3日、武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ
                     込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷
                     川与次・関成重・赤座永兼らによって焼き討ちにあった際、快川紹喜(武田信玄に招
                     かれて恵林寺に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めており、信玄に機山の
                     号を授けている)が燃え盛る三門の上で

                        「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」 と、

                      偈を発して焼死したといわれ、後代には快川の遺喝として廣く知られ、再建・改築
                     された三門の両側に、この偈が扁額として掲げられている。
                      但し、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発
                     した言葉であって、同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物にお
                     いて快川の遺喝として紹介されているとのことだ。佐藤八郎(甲斐国志の編者)は快
                     川の遺喝でなく後世の脚色である可能性を指摘している。
                                                                     風次郎                                                                                    

    
    塩山駅北口、信玄入道像                  重文・高野家甘草屋敷      

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