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風次郎のColumn『東京JOYLIFE』  
   No214(C-08)

  甲斐大和駅
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                                                     2011年7月31日
中央線各駅停車8.甲斐大和
                                                  

               新府の城址を訪ねて以来、武田氏終焉の地を訪ねてみたい気になっていた。
               そこは甲斐大和駅北東に当たる天目山であるという。

               甲斐大和駅は開業当初の駅名は初鹿野(はじかの)。1903年(明治36年)2月1日に
              中央本線が大月駅から当駅までの開通したことにより開業した古い駅である。終着駅で
              あった時期は短く、同年6月11日には当駅から甲府駅までが延伸となったため中間駅と
              なった。
               駅開業当時、この駅は東山梨郡初鹿野村にあった。初鹿野村はその後1941年(昭
              和16年)に付近の村々と合併し大和村となったが駅名はそのままで、52年後の19
              93年(平成5年)に現在の甲斐大和駅へ改称された。これで駅名と自治体の名前が揃
              った格好になったが、大和村は2005年(平成17年)、附近の市町と合併して甲州
              市となり、消滅した。駅舎は今、新しく橋上駅化され、国道20号線が笹子峠にかか
              る直前、JR中央線と交差する地点に建っている。
               私がたずねたのは新緑も眩い6月の午後であった。私は天目山に行ってみたかったの
              で八ヶ岳山麓からの帰り道、車で甲州街道の旧道を駅に近づいて行った。曲がりくねっ
              た旧道と鉄道の間の狭いところに諏訪神社があって、雨除け屋根を掛けた大きな杉木の
              株が祀られている。大和神話の祖、日本武尊に纏わる由来があると言う。
               坂を上り切ったところが「甲斐大和駅」で駅の脇に陸橋が掛かり先にモダンな学校が
              見える。駅とその学校の間に、崖を四角に掘り込んだ敷地に武田勝頼公の銅像がある小
              公園がある。街のシンボルとして建立され武田家の家訓を地域への教えと戴く嗜好であ
              った。
               そこから見る駅は掘割のように見下ろすホームが東京方面の笹子峠の真下を潜る笹子
              トンネルにカーブして伸びている。春、この駅を通る列車からホーム両側の土手に見事
              な桜を見ることが出来る。
               以前、晩秋の薄暮に駅に降り立ち、ほんの半時間ほど峠に続く部落の中の道を歩いた
              記憶がある。いかにも寂しい夕暮れであった。あたりは旧大和村の中心部で、地名は初
              鹿野(はじかの)である。
               駅一帯は国中地方と郡内地方との境に近い山間部であり、駅そのものは日川渓谷(ひ
              かわ)によって出来たほんの小さな平地にあるのだ。この駅は長大トンネルの間にはさ
              まれて位置しており、当駅の東は笹子駅の付近まで笹子トンネルと新笹子トンネル、西
              は短い鶴瀬トンネルをはさんで勝沼ぶどう郷駅の手前まで殆どが新深沢トンネルと新大
              日影トンネルとなっている。

               武田氏終焉の地を散策
               日川渓谷に沿って続く218号線を辿ると、1582年、終焉に及んだ武田勝頼一族
              が眠る、景徳院などゆかりの史跡が天目山にかけて存在する。先に記した駅近くの武田
              勝頼の銅像もこれにちなみ2002年(平成14年)に建立されたとのことである。
               車だったから景徳院(けいとくいん)は、駅近くの交差点を左にものの5分で着けた。
               旧大和村田野にある寺院。曹洞宗で、山号は天童山、本尊は釈迦如来。地名から田野寺
              とも呼ばれる由(『甲斐国志』による)。ここは県東部、旧大和村域の中央にあたる。
               旧村域の中央を流れる日川渓谷の上流左岸にあたり、西には甲州街道を見下ろす。
               天正10年(1583年)3月、甲斐国国主武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻
              により甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市)を捨て家臣の郡内領主小山田信
              茂を頼り落ちのびるが、信茂の謀反に遭い天目山へと敗走したのであった。
               そして一族はこの地に自害し、武田氏は滅亡した。
               景徳院の境内には勝頼親子3人の墓があり、近くには、辞世の句が刻まれた石碑が立
              っている。

               おぼろげな月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端 (勝頼37歳)

               黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒
                (現代語訳:女性の美しい黒髪が乱れるように、世も乱れきっていて、いま主人を思
               う私の心も、露のように流れ落ちて消えようとしています。)(勝頼の妻19歳)               

               同道した弟信勝は16歳

               信長が横死して無主状態となった甲斐は最終的に徳川家康が領するが、家康は同年7
              月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、寺院を創
              建している。広厳院(笛吹市)(旧東八代郡一宮町)から武田家臣小宮山内膳の弟であ
              る七世拈橋チョウ(人偏+長)因を招き、天正16年(1589年)には伽藍が完成し
              た(『国志』、「景徳院文書」による)。家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、無
              主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったとも指摘されている。
               寛永年間(1624年ー1644年)に広厳院から住職が招かれ再興された景徳院は、後
              旧武田氏家臣の幕臣の要求により、下総総寧寺の末寺とされたという。
               天保年間(1830年1844年)には火災が生じて主要伽藍を焼失し、弘化年間(
              1844年ー1848年)や明治時代にも火災にあっている。
               繰り返された火災から類焼を逃れた山門と、勝頼の墓所や霊廟が県指定文化財となっ
              ているほか、境内の桜が天然記念物に指定されていた。

                                            ○

               さて、私が興味を持ってここまで訪ねたのは、この地が甲斐武田氏滅亡の地と位置付
              けられているのだが、さらに、余り知られていない「同氏がこの山で2度滅亡した」とい
              う事実の確認ということからであった。

               日川渓谷のさらに上流の木賊には臨済宗寺院の天目山棲雲寺がある。
               天目山(てんもくざん)は、山梨県甲州市(旧大和村)木賊及び田野にある峠であり、
              元は木賊山(とくさやま)と呼ばれていたが、後に山中に棲雲寺が創建されると、その
              山号から「天目山」と改称されたのだある。
               南北朝時代の貞和4年/正平3年(1348年)、臨済宗の禅僧・業海本浄が木賊山を
              訪れた際にこの山がかつて元に留学した際に見た禅宗の名刹・天目山を髣髴させるとし
              てこの地に天目山護国禅寺を創建した。この寺が後の棲雲寺である。このため、いつし
              か元の木賊山よりも寺の山号である「天目山」の名称で知られるようになったという。 
               棲雲寺本堂の背後にある聳えるような石庭(修行の場であった由)が荘厳で見事である。

               応永24年(1417年)、武田氏第13代当主武田信満が室町幕府に追われて山中
              の木賊村で自害して甲斐武田氏は一時断絶したのであった。さらに、その後に再興され
              た甲斐武田氏も165年後の天正10年(1582年)、織田政権に追われて第20代当主武
              田勝頼が、山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は再度滅亡したのである。
               ただし、前者の滅亡を伝えた『鎌倉大草紙』は「木賊山」、後者の滅亡を伝えた『甲
              斐国志』や『信長公記』は「天目山」という名称で伝えているため、名称の由来を知る
              者でなければ二つの山が実は同一であるという事実に気付く者はほとんどいないのだそ
              うだ。
               なお、勝頼が死んだ田野は、信満が死んだ木賊の南側に隣接した麓に存在している。

               応永の武田信満滅亡
               応永24年2月6日(1417年2月22日)、室町幕府将軍足利義持の命令を受け
              た上杉憲宗の侵攻に加え、守護代の逸見有直の謀叛にあった甲斐守護武田信満は、こ
              の地に追い詰められて山中で自害したのであった。信満は前年に鎌倉府に対して反乱を
              起こした上杉禅秀の縁戚であり、この反乱軍に加担して鎌倉公方足利持氏や上杉房方・
              今川範政らと戦ったが敗北、逃げ帰ったところ、武田氏の庶流で代々守護代を務めていた
              逸見有直が次期甲斐守護職と引換に足利側に内応した。それを受けて上杉憲宗が討伐し
              たものであったと『鎌倉大草紙』に伝えられている。
               棲雲寺には信満の宝篋印塔やともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。
               なお、足利持氏が約束通り逸見有直を守護にしようとしたが、将軍・足利義持はこれ
              を許さず、甲斐の管轄権を鎌倉府から取り上げて乱の時に京都にいて捕らえられ、出家さ
              せられていた信満の嫡男、道成を還俗させて次期守護にするように命じた。
               道成は武田信重と名乗って義持の命を受けた小笠原氏の支援で甲斐に帰国するものの、
              既に逸見氏が守護を自称してこれを排除し、以後甲斐は100年近くにわたる内紛の時代を
              経ることになったのであった。

               いやはや「天目山」とは追い詰められ自害滅亡に至る嘆きの山であろうか。

                                               ○

                「甲斐大和」。私には「初鹿野」駅の方が馴染むが、甲斐の歴史を辿る為の起点と言
              うことか。
               鉄道唱歌にも歌われていた。
               「武運尽きたる武田氏が
               重囲の中に陥りし
               天目山は初鹿野(はじかの)の
               駅より東二里の道」
                                                            風次郎           

  
景徳院・武田家の諸墓石                         天目山棲雲寺

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