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風次郎のColumn『東京JOYLIFE』  
   No185(C-07)

   新府駅  
  
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                                                     2010年12月19日
中央線各駅停車7.新府
                                                  

               12月に入ったばかりの頃だった。富士見から東京へ戻るのにあまり良い天気なの
              で、列車を早めて「新府」に降りることにした。
               武田信玄に代表される武田家の国「甲州」は、随所にそのゆかりの地をもつが、新
              府城(正式には新府中韮崎城というらしい)も同家最後の将軍勝頼が築いた名城であ
              り城址が駅から近いところにあると聞いていた。

               新府駅は無人駅で、駅舎もない。狭いホームが野原の真ん中に2筋あるのみで上下
              線の連絡路は階段を下りて公道を使わねばならないという簡素な駅だ。
               終戦の年、陸軍によって七里岩台地に大規模な地下壕を掘り、そこに軍需工場を建
              設するという計画が立てられ、中央線の輸送力強化の目的で設置された信号場がこの
              駅の由来であるとのこと。
               そう聞くと、どことなくここは戦にまつわる雰囲気でも漂うかと連想してしまうが、
              降り立って見ると青天霹靂のもとにぐるり八ヶ岳、南アルプス、茅が岳の各連峰を
              すっきりと望むのどかな里であった。
               そして駅舎から西に小高い丘山が見え、それが紛れも無く城跡であろう事はすぐに
              判った。
               駅周辺に瓦葺の整った構えを見せる農家ばかりの集落は、静かなたたずまいである。
              集落を抜けると秋の取入れを終えた田畑が傾斜地に続いていた。 
              歩くこと5〜6分、林の中、右肩上がりの小山を越したところに古びた小さな鳥居があった。
               放置されたままの、古来の堀が川のように見える狭くなった処に小さな橋が掛けら
              れている。城址には今、神社が祀られているから、これらはそのために布設されたも
              のであろう。橋の先は道路を跨いだあと狭く急激な石段が200段も直線に登ってい
              た。越えた橋、外堀の水準と本丸の標高差は80メートルもあるとの事である。
              階段を息を切らして登りきると本丸跡の広がりがあった。
  

               戦国期に甲斐武田氏は本拠の石和から甲府へ進出して躑躅ヶ崎館を根城に国家展望
              を企てていた。
               就中天下の名将武田信玄(晴信)の時代には領国拡張は言うに及ばず、城下の整備
              拡張が進められ、政庁としての役割を持つ府中として機能が重視されるにおよんだの
              であった。
               続く武田勝頼の時代にもそれは引き継がれたが、後背に山を持つ甲府の府中は防御
              に徹しているものの城下町の拡大に限界があり、信濃、西上野、駿河へと拡大した武
              田氏の領国統治にとって不備であったため、府中の移転が企図されたと考えられてい
              る。

               韮崎は甲府盆地においては北偏りであるが、武田領国の中枢に位置し、古府中より
              広大な城下町造営が可能であったと考えられた。また、江戸時代の韮崎は甲州街道や
              駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し釜無川の水運(富士川水運)も利
              用できる交通要衝として機能していたことも、新城築造の背景にあったと考えられて
              いる。
               加えて、八ヶ岳火山の泥流により成った七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ
              天然の堀となる要塞であり、その城地の特色は城外から俯瞰されないことであった。
              武田家が予てよりこの地に平城を企図した所以であろう。
               天正3年(1575年)の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で織田・徳川連合軍に敗北し
              た勝頼は、時を待たず領国支配の強化を余儀なくされた事は想像に難くない。河内地
              方から織田・徳川領国と接する駿河を領する穴山信君(梅雪)の進言した「織田軍の
              侵攻に備えて七里岩台地上への新たな築城」を取り上げたという。
               築城は天正9年(1581年)家臣の真田昌幸へ命じられ、昼夜兼行で、着工後八ヶ月
              あまりで竣工した。同年12月には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住している。

               縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点、それまでの城郭
              には見ることの出来ない斬新な工夫と記されている。
               今、本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、の跡が明瞭で堀を含めた約20ヘクタ
              ールに及ぶ広大な区域が国の史跡に指定されており、その全容を偲ぶことができる。

               勝頼は、天正10年(1582年)、信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵
              するが、織田・徳川連合軍に阻まれて帰国。織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、勝頼は
              小山田信茂の岩殿山城に移るために、織田軍の侵入を待たず、自城に火をかける。
               これによって武田の新府城はそのあまりに短い歴史を閉じたのであった。
               終焉の悲劇はそれにとどまらない。勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)
              で信茂の謀反にあい、天目山(甲斐大和=甲州市)へ追い詰められ武田一族は滅亡し
              てしまったのである。
 
               同年6月には京都で信長が横死し(本能寺の変)、武田遺領を巡って徳川氏と北条
              氏の争奪戦(天正壬午の乱)が起こるとこの城は戦略上の重要拠点となるが、後北条
              氏が滅亡すると廃城となって終わる。
               まさに悲劇の武将武田勝頼を追って史上から失せたのであった。

               本丸は松、桜の古木多く、二の丸、三の丸は平らかな原野に生えてきたのであろう
              椚などの雑木の立つ他は、茅が繁った後を刈り取った跡形であった。
               夏は鬱蒼と群生した茅が繁り、兵どもが夢のあとそのもの、古城の憂愁を草の海が奏で
              ているのではないだろうか。
               本丸北の端からは、なだらかな裾野に広がる里の農地の向こうに、むしろ此処から
              は端正に浮かぶ八ヶ岳が居座る壮大な風景が眺められた。
               そして七里岩の岸壁上にあたる西の端二の丸からは、眼下の釜無渓谷を隔てて南ア
              ルプス連邦が望まれるのであった。

                                                            風次郎           

  
城郭の案内板                        本丸北から八ヶ岳を望む

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