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風次郎の世界旅
 2011冬のドイツの旅
(14)

music by TAM Music Factory

                
                             ケルン大聖堂           

      14)ライン川沿いにケルンへ                           

                             ライン川はドナウ川とともに、古くから外国の船が自由に航行した国際河川である。
                             近代になり豊富な地下資源によって注目された産業革命中心地のひとつルール工業地帯
                            も充実した内陸水路ととともにライン川の存在は重要であった。ルール工業地帯はライン、
                            ルール両河川に挟まれる形で位置しているが、外部への運搬路としてライン河畔のデュッ
                            セルドルフを起点にエッセンを結ぶルール川の役割が欠かせなかった事でもわかる。
                             ラインはスイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入った後、ドイツ・フラ
                            ンス国境を北に向かったあと、ドイツ国内をゆったりと流れるのだ。ボン、ケルン、デュ
                            ッセルドルフなどドイツの産業を支えるネームバリュウの高い都市を結び、オランダへ入
                            ったあと、ロッテルダムから北海に注ぐのである。
                             リュウデスハイムらサンクトゴアまでのライン下りを楽しんだ私たちは、川に沿ってさ
                            らに北上しツアー最後の目的地ケルンへ向かうのであった。
                            走っていく道路はライン川の左岸である。
                             「ロマンチック・ライン」と呼ばれるリュウデスハイムからコブレンツの間は多くの古
                            城があり、世界遺産にも登録された名所である。今、ライン川の定期航路は、マインツと
                            ケルンを結んでいるとのことで車窓からは行き交う貨物船も時折見ることができた。両岸
                            を走る鉄道もまったく川に沿ったままであった。急な斜面を形づくる渓谷はもう見え無く
                            なって街と街の間は民家が点在する風景が多かった。
                             私には左岸は古くはローマの守りの地ではないか、との意識が頭にあったからついつい
                            対岸との比較で車窓を眺めていたが、ボンの市街地へ入るまであまり目立つ風景は無かっ
                            た。
                             午前中の雨は下船する頃は止んで、昼を過ぎると陽も射すようになっていた。
                             ボン市内では道行く人もかなりあって、ドイツ統一以前の1949年から19990年
                            まで西ドイツの首都であった街らしさも見た。人口は30万人を上回るそうだ。しかしB.
                            C1世紀からローマ帝国の前衛駐屯地であったにしては市街地の様相はとても小さく感じ
                            た。
                             ナポレオン、プロイセンと幾多の支配下におかれた時代を経てきたとはいうものの、典
                            型的な文教都市であった。第2次世界大戦で72回も空襲を受けたといわれ、伝統あるボ
                            ン大学も全焼したが戦争の跡形を思わせぬほど見事に当時のままに再建されて、緑の中の
                            学問の殿堂は雄姿と見えた。
                             国家統一により首都はベルリンに移ったが「ベルリン・ボン法(「ドイツ統一のための
                            1991年6月20日の連邦議会の決議」実施に関する法律) 」によって、ボンは「連
                            邦市(Bundesstadt)」であると規定され、ベルリンと並んで国家の中枢機能を保持すること
                            が定められている。それにより、ボンには教育学術省、郵政省、環境省、食糧農林省、経
                            済協力省、国防省、研究技術省、保健省、カルテル庁、保険庁、金融機関庁、保険制度監
                            督庁、食糧森林庁、農業市場制度庁、会計検査院、中央鉄道庁などの省庁が置かれ、今も
                            国政の一翼を担う文化都市である。
                             私にはベートーベンの生家である「ベートーヴェン・ハウス」も気になったが、車窓か
                            ら「あのあたり」と説明を受けるにとどまってしまい残念だった。音楽家ではシューマン
                            記念館もあるとのことで両名作曲家は今市内の同じ墓地に眠っているという。

        ケルンの大聖堂に入る

                            ボンの市内を縫うように通り越して20分くらい走り、ケルンの街に入るとこちらの方
                           が大きさを感じる街に感じられた。
                           歴史的にもケルンこそローマが植民市として重視したラインの拠点であった。
                            ローマとの合意に基づき、親ローマのゲルマニア人部族ウビイイ族がライン川の西岸に
                           入植した時、その入植地オッピドウム・ウビオールム(ウビイイ人の町)は、ローマ軍宿
                           営地となり、ゲルマニア州におけるローマの重要な拠点となったのが始まりである。
                            従ってケルンの名はラテン語で植民地を意味するColonia に由来する。
                            なお、現在香水の種類に呼ばれるオーデコロン(1714年にケルンで発売された)は
                           仏語で「ケルンの水」の意だそうだ。
                            交通の要衝であり、古代から現代に至るまで交易と地域政治の中心として栄えてきたが、
                           現在では見本市や展示会が行われる国際産業都市の側面も合わせて持つ。しかし、なんと
                           言ってもユネスコ世界遺産にも登録された大聖堂が町のシンボルである。
                            この地は、ローマの重点植民地でもあり早くからキリスト教も伝播したのだ。
                            4世紀にはには司教座がおかれ、8世紀末には大司教座が置かれることとなった。大司
                           教座の置かれたケルン一帯は、大司教に帰属する宗教領邦となるほどの勢いだったが、民
                           族の争い、30年戦争のあと衰微をみる。しかし、19世紀に入ってからケルン大聖堂の
                           増築と完成を見るに到るのである。
                            一方、フランス革命後の世俗化傾向は、選帝侯制度のみならず、宗教領邦としてのケル
                           ン大司教座領の廃止にも帰着し、ケルンは、ライン川流域の一世俗都市として、商業の中
                           心地都市への方向転換で再び繁栄してきたのである。
                            第2次大戦による激しい空爆で、市内の9割に及ぶ建造物が破壊されたのであるが、ケ
                           ルン大聖堂だけは奇跡的にも完全には崩壊せず、絶望の淵に陥っていた市民に希望を持た
                           せる切っ掛けとなり、それがケルンの復興を果たした所以とも言われる。
                            街は午後の日を浴びて明るく、世界遺産を取り巻く多くの人々の賑わいも他の観光地を
                           抜きん出ていた。
                            鋭く尖った当を見上げる顔に、建物を吹き抜ける寒風が厳しかった。
                            司教座が置かれた頃からの聖堂は2度の火災で焼失、現存の大聖堂は3代目であるとの
                           ことだ。1248年に建設がはじまったが16世紀に入って宗教改革またその後の財政難
                           から工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。大聖堂完成の
                           大きな要因はいわゆるゴシック・リバイバルであった。19世紀に入って1842年から
                           建設が再開され、全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年こ
                           とであった。
                            アミアンのノートルダム大聖堂をモデルにとはいうものの、立面的には、ウルム大聖堂
                           やシュテファン大聖堂などのようにドイツ的な性質を持つといわれる。大きく突き出た高
                           さ157mのゴチック、尖塔がそびえ立っているのがとても特徴的であった。

                            祭壇には東方三博士の異物を納めてあるとの黄金細工の聖棺がおかれていた。
                            ヨーロッパの各地で聖堂を見るが、広大で豪華な建物は、内部の構成はどこも同じに見
                           えてしまう。天井の構造模様やステンドグラス置かれた彫刻など、もちろん細部にわたっ
                           てはそれぞれ特異なものに触れるのだが、私は教会はむしろ小さくて一人の牧師が慎まし
                           やかに地域の宣教を担っている感じの方に、宗教の素朴なあり方を尊く受け止める。
                            ケルンの尖塔も、高く荘厳で、長年一見に値すると思っていたから、十分眺めたが、他
                           でも思ったように「なぜ宗教がこのような見てくれを大きく打ち出すのだろうか(仏教も
                           含めて)」いつまでも疑問は去らない。神の何を受け伝えようとしているのだろうか?
                            建築や芸術の凄さを観、宗派の厳しさより、むしろ政治への挑戦を思い浮かべたりする。
                           それらが決して悪くは無い。だから感嘆もする。が、私の素朴な宗教観への憧れは去らな
                           い。

                            今回もそれでよしとしよう。私はバスに乗った。
                            フランクフルトへ向かい、その日のうちに帰路に向かった。

                    
                    畔道路を走る(コブレンツ)                 ボン市内        

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