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ポツダムを見納めて再びベルリンの街に向かう。
バスは古くからポツダムとベルリンの宮殿を結ぶ街道を辿り、市内に入って行った。テ
ントを張ったような外観が「カラヤン・サーカス」の異名を生んだ建物、世界有数のオー
ケストラ「ベルリン・フィル」の本拠地フィルハーモニーの眼をやっていると、そこに現
れたのはモダンな建物が林立するポツダム広場であった。
19世紀初頭までは、プロイセン王フリードリヒ大王の夏の宮殿ポツダムとベルリンを
結ぶ街道がここでベルリンを取り囲む都市城壁(Zollmauer)に設けられた関税門「ポツ
ダム門」を潜らなければならなかったのだ。それに、各方面からの街道もこの交差点に集
まっていたから、1920〜30年代はヨーロッパ経済の中心地の一つとして、プロイセン宮
殿前のアレクサンダー広場とともに、ベルリンのナイトライフの中心だったといわれる繁
華街であったと聞く。
ベルリンの壁が出現して以来、ポツダム広場は二つに分断され、行き交うことができない
境界があったのである。が、1989年壁の崩壊によって再開発が行われ、今はモダンな
近代建築のパフォーマンスプラザと言いたいほどユニークなビル群が立ち並んでいる。
中でもヘルムート・ヤーン(米系建築家)の手になる、ソニーセンターはベルリンにおけ
る近代建築の最高峰の一つだとガイドの説明があった。何と中央広場を覆う船の帆のよう
なドームは富士山をイメージしてのことだそうだ。
ガラスと鉄からできた軽快なイメージが目立っていた。ここには映画館、映画学校、さら
に40ヶ所のスクリーンをもつ映画博物館もあるとの事で、2000年からは2月にベ
ルリン国際映画祭が開かれている。
私たちはさらに進んで、シュプレー川の畔にバスを降りた。
ベルリンの壁
ドイツは1945年5月8日第2次世界大戦降伏した。その結果自由主義を名目とした米
・英・仏占領地域に当たる西ドイツと、ソ連占領地域に当たる共産主義を名目とした東ド
イツに分断されたのであった。
ベルリンは地域としては東ベルリン域に在ったが、米・英・仏・ソ連によって分割占領さ
れることとなり、米・英・仏の占領地域である西ベルリンは、周囲を全て東ドイツに囲ま
れた「赤い海に浮かぶ自由の島(分断されたベルリンの東側部分はそのまま「東ドイツ領」
となり、西側部分は「連合軍管理区域(≒西ドイツ)」として孤立した。)」となってし
まった。
これにより、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次ぐことになったのである。
危機感を抱いたソ連側(東ドイツ政府)は、住民の流出を防ぐ為に壁を建設したのである。
同一都市内に壁が建設された都市は、ベルリンとメドラロイトだけであった。
「冷戦の象徴」と言われたものであるが、28年の時が流れて後、1989年11月9
日にベルリンの壁の検問所が開放され、翌11月10日に壊されてより、今では一部が記
念碑的に残されているのである。
シュプレー川沿いの「イーストサイドギャラリー」と称する、今はそこの1.3kmしか
残っていないと言われる壁の脇を歩いた。川は東ドイツの領域であるため、道路に沿った
西側にはアーティストたちが芸術(ペイント)を競ったまま残されている。観光名所にな
って、いろいろな国の人々が興味深げに、また楽しげに眺めているのだった。平和は何と
しても良いことだ。記念品を扱う売店も混んでいた。
ブランデンブルグ門
古くは宮殿の広がっていたであろう東ベルリンの中心街を通って行った。東ドイツ建国2
0周年を記念して建てられたという円柱が銀の球を支えた形の「テレビ塔」は、隣にある
マエリン教会と並んで森の中に立ち、何処からも見えた。365mはモスクワのテレビ塔に
次ぐヨーロッパで2番目に高い塔とのことである。
王家ホーエンツォレルンの墓所であるとの堂々たるネオ・バロック建築、「ベルリン大
聖堂」を右に見ながら国立オペラ劇場とフンボルト大学の間のウンター・デン・リンデン
通りへ出て「ブランデンブルグ門」へ近づきバスを降りて歩た。
ベルリンというだけでなくドイツのシンボルとされている門である。正面部は王宮に向
いている
プロイセン王族が、ベルリン市外に出てティーアガルテンやポツダムに向かう時には必ず
この門を通過したとされ、ベルリンの正門と言っても過言ではない位置付けだった。
ブランデンブルク門はフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家ラングハンス
によって古代ギリシャ風で設計され、3年間の建設工事を経て1791年8月に竣工して
いる。門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライア門を模した物で、当時
円柱だけが残っていたその門の創建時の姿を想像してそのままベルリンに再現したものと
のことである。門の上には、彫刻家ゴットフリート・シャードウが制作した四頭立ての馬
車に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像が乗っていた。
もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、完成直後にベルリ
ンはナポレオンにより征服されてしまった。ブランデンブルク門はナポレオンのパレード
の舞台と化したため、ヴィクトリア像は戦利品としてフランスへ持ち去られてしまったのであった。
しかし、その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア
像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻されたのである。
門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場はパリ広場に改名され、ヴィクトリ
アの持つ杖には勝利を記念して鉄十時紋章が取り付けられている。
ソ連の影響を受けた時代、ヴィクトリアの持つ杖の先は、社会主義国らしくなるよう平和
の象徴であるオリーブの枝に変えられたが、再び門の下を通行できるようになって、ヴィ
クトリアの持つ杖の先は今、再び鉄十字に戻っている。
門の前のグリーンベルトには大きなクリスマスツリーが飾られ、幾多の国の観光客を集め
てにぎわっていた。主要国の大使館や要人も迎えるホテル・アドロンなどが戦前からあっ
たままに壮麗に並びベルリンの中心地のひとつであることは明白である。
私たちは門を潜って西側の6月17日通りから一躍有名を馳せるメルケル首相の官邸を眺
め、巨大かつ厳めしい連邦議会議事堂を拝して次の行程に移った。
ベルガモン博物館
議事堂から川沿いに東へ進み橋を渡った地域はムゼウムスィンゼル「博物館島」と呼ばれ、
ユネスコの世界文化遺産にも登録されている。元々住宅地であったが、1841年ヴィル
ヘルム4世が一帯を『芸術と科学』に関する地域として以来多くの博物館が建てられたのである。
一昨年トルコを旅したとき、私たちはベルガモの遺跡を訪ねている。
ベルガマの町からベルガモン上市の丘に登り、壮大な遺跡群に感銘を受けたものだった。
その際19世紀にドイツの発掘隊によって発見された「ゼウスの大祭壇」はドイツに運び去
られてベルリンにあると聞いたので、ベルリンに行ったときは是非行って見たいと思って
いた。
この博物館は1910年に建設が始まり、第1次大戦を挟んで1930年にようやく完成し
たという。しかも、第2次大戦の度重なる空襲でこの地域の博物館群は甚大な被害を受け
た上、ベルリン動物園近くの高射砲塔に疎開されていたベルガモンの大祭壇は、赤軍が戦
利品としてレニングラードに運び去り、1959年東ドイツに返還されたものである。
室内に「コ」の字形平面のその全容を再現されたゼウス大神殿はヘレニズムを誇示してい
るようにさえ見える見事なものだ。全長100メートル以上に及ぶ円柱の並ぶ回廊の基壇部
のギリシャ神話の神々と巨人族との戦い(ギガントマキア)を表した浮き彫りは、ヘレニ
ズム期の彫刻の代表的なものといわれる。高々とコの字型に回廊が伸び、中央の階段は同
じ大理石を重ね連ねた美しい傾斜である。観光の人々はその場に佇み、或いは腰を下ろす
などして見入っているのだった。
トルコを訪れた際、私たちはベルガマからエフェソスへ移動したが、その途中にあって見学する
ことが出来なかった古代都市ミレトゥスの「ミレトゥスの市場門」がここに再現されてい
た。そしてバビロニアの「イシュタール門」(紀元前560年頃バビロニアの古都の中央
北入口の門であった)も博物館内に再構築されていた。青い地の彩釉煉瓦でおおわれた壁
面には牡牛やシリシュ(獣の体に鳥のような足、蛇のような首をもった、創造上の動物)
の鮮やかな彫刻絵は宝玉に満たされていたであろうバビロンの世界を髣髴とさせるに十分
でこちらもたっぷりと鑑賞に浸った。
壮大な建造物をよくも遠隔の地に持ち込んだものよ!
と言えば、叱られるだろうか?国力を示すとはこういったことかも知れ得ないが、歴史は
その地にあればこその慈しみ深いものとの思いもよぎるのであった。
ベルガモの神殿 煉瓦壁に描かれた獣画
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