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朝食後ホテルを発ち市内を出てポツダムに向かう。
冬の曇り空は冷たく寂しい。第二次世界大戦の終局を演出したところに出向き、憂愁
を浮かべる背景としては、それに相応しいと言えるのかもしれない。私にとっては当然、
日本にもゆかりの深いポツダム宣言の協議されたツェツィーリエンホフ宮殿を訪れるこ
とに関心が高かったから。
ポツダムは17世紀後半ブランデンブルクの選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩
猟場とされて後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるようになって、プロイセン公
国の拠点の一つとして発展した処である。宮殿は今はサンスーシ公園とされている。
1685年、フランスでルイ14世がナントの勅令(1598年に定められていた宗
教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはポツダム勅令を発表して
宗教的な自由を認め、フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシア、オランダ、ボヘミ
アなどから、移民を受け入れたのであった。
後、街はプロシア王家の居住地となり、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世によって
王家の壮大な建造物が建てられのであった。庭園とロココ様式の内装で有名なサンスー
シ宮殿、他に、新宮殿やオランジェリー宮殿、やや離れてツェツィーリエンホフ宮殿が
ある。
ベルリンから南西に約30分、ハーフェル川のほとり、湖の点在する一帯に広々とし
た田園風景の中であった。
フリードリッヒ大王が世の憂いから解放されたい思いをこめて建てた夏の宮殿とのこ
とである。主宮殿サンスーシとは仏語で「憂いなし」を意味する由。文芸音楽に造詣が
深く酒も飲まなかった王は音楽室、ギャラリーだけでなく劇場など次々と造らせて文化
人と交流して時を送ったと語られる。
先ず大王が自らヴェルサイユ宮殿を眼中に設計に携わったサンスーシ宮殿に立ち、眼
下に階段状に広がる葡萄園を眺め、その庭園の階段を下った。このあたりの厳しい冬に
備えて既に庭園保護がなされ、麓の噴水の周囲に配置された彫刻の類は冬囲いも施され
ていたが、大理石像の居並ぶ噴水、葡萄園、宮殿と重なる緑の季節にはベンチに佇むだ
けで心癒されることだろう。
新宮殿はプロイセンの国力を誇示する目的を持った建物の由である。縦直線の目立つ
窓、屋上には偉人像たちが立ち並び、建物は厳めしくも映った。
森の中に佇む数々の美しい建物を幾つか見た。
そして私たちは、少しの距離をバスに乗り、ツェツィーリエンホフ宮殿へ向かった。
駐車場から林の中に敷かれた道を行くとレンガの煙突が多い桧皮葺のような、かなり
急斜面の屋根が見えてきた。よく写真で見た英国風で、多くの中庭を有する木造造りの
城ツェツィーリエン城であった。
ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世の嫡男である太子ヴィルヘルムと同妃の居城とし
て建てられたとの事である。城の名は太子の妃ツェツィーリエに因んで付けられたとい
う芝生の中庭が見えた。 入場者はかなり多いようで、欧州人のほか、丁度中国の団体
が入っていた。
狭い部屋を巡るので20分ほど待って、1階にある円卓の置かれた集会室から案内さ
れた。
当時日本は交戦中であったが、ドイツは既に降伏しており、ここに於いて米英ソによ
る会議が持たれ、戦勝連合国の首脳連、即ち、トルーマン、チャーチル及びスターリン
が談合、議決によって「ポツダム宣言」が表明されたのであった(連合国中の大国、仏、
中両国は後日同意)。
宣言のテーマは敗戦国ドイツの非武装化、非ナチス化をはじめ処置に関することから
連合国守備軍の配置にいたる諸条であったが、合わせて7月26日、米英中三国による、
日本に対する無条件降伏の機会を与える旨の「ポツダム宣言」もなされたのであった。
日本への宣言にあたり、ソヴィエトはまだ日本との中立関係を維持していたのでこれ
に加わらなかったのであったが、米国による原子爆弾投下後の8月8日、対日宣戦布告
と同時に宣言に加わったのである。
8月14日、この四主要国の対日宣言を受諾して日本は降伏し第2次世界大戦は終わ
ったのであった。
円卓の周囲には3つの、やや背もたれの高い椅子とその隣に4つずつの椅子が並んで
いた。テーブルの中央には3国の国旗が飾られており、廊下には首脳たちの満足げに握
手を交わしている写真が展示されていた。
それぞれの首脳の控えの間にもデスク、応接セットなどが当時のままの状態で置かれ
ていたが、会議の主催国であったソヴィエト、スターリンの部屋がいかにも差別的に豪
華に見えたのは偏見であろうか。
館内を巡るうち、何か胸に迫る思いで見届けざるを得ない感情に追い込まれてしまい
そうだった。この廊下を3人が歩き、この3人がこの階段にもたれ、時には冷淡に、時
には激昂して、特にドイツの領有に関しては互いに胸中では争いつつ宣言はなされたに
違いない。その後世界は再び2分するのだから――。
日本の敗戦は致し方の無い状況だったとして理解していても、それが決定付けられた
現場に立つことに、感情は揺らぐものとしか言いようが無い。原爆への戦略が米ソの首
脳にはこの場で読み込まれつつのやり取りが行われたであろうから、そこに冷たい風が
吹いているようにさえ思いつつ記念館を後にした。
小雨が降り始めた冬の空は暗かった。
ポツダム会議場 展示されていた会議の状況写真
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