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7.広州市内を観る
この旅行の最終日になった。綺麗に晴れて良い天気だ。
広州滞在2日目は広州市内観光が予定されていた。朝食後、私達はバスに乗って花園酒店をあと
にした。
広州は珠江デルタ地帯の北部、西江、北江、東江の合流地点に位置する港湾都市である。海から
は虎門を入り、獅子洋を遡る。隣接する行政市には仏山市、東莞市、中山市、清遠市、恵州市があ
る。
阿片戦争中の1841年には一時イギリス軍に占領されたが、1911年には孫文が広州蜂起を行い、辛
亥革命の先駆けとなった地である。袁世凱の没落後、孫文は1921年に越秀山南麓で広州中華民国政
府の非常(時期)大総統に就任している。さらに1924年には軍閥割拠の中国を統一するため国共合
作を行い、黄埔軍官学校を設立、蒋介石が校長となり、周恩来が政治部主任を務めたのである。こ
の時期には毛沢東も農民運動講習会をこの地で開催している。
孫文没後、蒋介石の国民党は共産党と決裂し、1927年共産党は広州コミューンを樹立したが、間
もなく国民党軍の攻撃を受けて、蒋介石は1928年に首都を南京に移転した。そして1938年日本軍が
占領。終戦まで占領状態が維持されたのであった。
その後、中華人民共和国が成立した。
香港に近い広州は中国の対外貿易港として機能し、毎年春秋には広州交易会(カントン・フェア
ー)が開催され続けている。1979年、ケ小平が対外経済開放政策を取ると、深セン・珠海の経済特
区を経済圏に収める広州は経済的に急速に発展してきた。しかし、多数の人口が農村から流入して
おり、今治安の悪化が社会問題となっている事情もあると聞く。
街は近代化され、広州の新しいシンボルとなった広州塔が、何処からも見上げられた。世界で2
番目に高い塔だとの自慢であった。
市内の見どころは西の広州駅と東の広州東駅を結ぶ環市中路、環市東路と南部を流れる珠江の間
にあり、珠江新城商業地区と呼ばれ、ほぼ西側が旧市街地、東側が新市街地である。
広州市の市内総生産は 1兆5千億元(10兆円)、上海市、北京市に次ぎ、中国大陸で3位であ
る。特別行政区である香港と密接な貿易関係にある広州市は深セン市などとともに中国では比較的
裕福な地域で、発展の勢いも感じられた。
★自由市場
私達は先ず広州駅の北にある三元里の自由市場へ向かった。市内には幾つもの公設市場があって
地元の人々だけでなく、観光地としても人気があるようだ。海幸、山幸が色とりどりに並べられ、
鮮魚店の並びでは、まな板の上で巨大な太刀魚のような魚の包丁さばきをおばさん店員が披露して
いた。
野菜のコーナーのきゅーり、なす、ジャガイモなど、熱帯産の為か日本で見る倍もの大きさのも
のが当たり前のように巨大であったが、トマトは丁度食べやすい大きさに綺麗に並べられていた。
ただ唐辛子はこの地では欠かせぬ食材とのこと、それも日本のきゅーり大のものが主流で、グロテ
スクに感じた。
「食は広州に在り」といわれる広東料理の中心地。英国支配下で賑わった香港の方が洗練されて
いるかもしれないが、歴史的には広州が本場であろう。ここでも桂林で見たような、点心を食べな
がら喫茶する飲茶の食習慣を嗜む現地の人たちが見られた。中国各地の料理店も林立しており、ハ
ンバーガー、フライドチキン、ピザなどの欧米系ファストフード店やコーヒーショップ、香港風の
茶餐廳、回転寿司店などもあった。
マーケットの裏外に出ると、6〜7階のアパートがギッシリ並び、夫々の窓には洗濯物に限らず
生活感そのままの雑物が突き出されており、香港で見た裏窓と類似していた。庶民には豊かさは及
んでいないのだろう。
★鎮海楼(広州博物館)
駅の南側で広東省の歴史的な遺跡を展示する越秀公園に向かった。
広い公園内には越秀山と言う丘があり、そこには「鎮海楼」という建物が聳えていた。鎮海とは
明王朝の威勢を以って海域を鎮めるの意。建物は1380年(明の洪武13年)に城壁の上に造ら
れた高さ28mの5階建てで「五層楼」と呼ばれ、「広州博物館」として広州一帯で出土された4
千年に及ぶ歴史文物が展示されている。
1階は漢〜元、2階は明〜清の出土物、3階ではシルク貿易の盛んだった頃の広州、4階では近
代に至る広州風俗(生活風景)を鑑賞できた。
公園内には、「5羊石像」という奇妙な石像があった。伝説に基づいて1956年に造られた由
である。
2千8百年前周の時代、5人の仙人が稲穂を咥える5匹の羊に乗って天から降りてきた。そして
人々に稲穂を与え、いつも豊作になるように祈り、天に帰って行った。羊たちは石になりこの地に
残ったとの謂れである。広州が羊城、または穂城と呼ばれる由来とのことである。
★中山記念堂
日本にも所縁のある中国革命(広州蜂起=辛亥革命)の父「孫文」を記念して建てられた「中山
記念堂」が公園の南側にあった。そこは孫文=孫中山が、1922年に中国国民党大統領に就任し
た時の官邸の跡(前記)であり、その場所に1931年に記念の講堂が建てられたのである。
古代中国建築を生かした八角形の宮殿式の建物で、広州人民と海外華僑の献金で建てられた由、
現在は観光客に開放され、孫文の生い立ちを説明するパネル展示があった。入口には孫文筆「天下
為公」の額が掛かっており、正面の広場には銅像が立って、訪問客を集めていた。
孫文(1866〜1925)は「辛亥革命」を成功に導き、中国でも台湾でも「国父」と呼ばれて尊敬さ
れている。辛亥革命とは、1911年(干支が「辛亥」に当たる年)から翌年にかけて、中国で起こっ
た民主主義革命で、清朝の打倒と共和制の確立が目的であった。その結果、古代より続いた君主制
が廃止され、共和制国家の中華民国が成立したのである。
★ハン渓酒店
昼食は広州三大酒家の一つ。1947年創業で広州一の規模を誇る庭園式広東料理のレストラン
「ハン渓酒店」に案内された。広東料理にしては辛みが抑えられて美味しかった。ここは点心が有
名で、朝には長蛇の列ができる程の人気とのことである。
ここがこの旅の最後の食事であった。メンバーは親しく旅の思い出を語りつつ、名残を惜しんだ。
三元里の自由市場の巨大な野菜と魚を捌く婦人 市場の裏は民衆アパート