台北小旅行(1002)

                                                  BGM TAM Music Factory

  
   唯一「台北城の面影」北門

     6.台北駅界隈

     K氏夫妻と夕食までの間、界隈を散策しようと言うことになった。私は早朝散歩で近
辺を歩いているので若干の案内役を務めることになった。いろいろな店をのぞいてみる
のは面白い。風情を味わうのに街を見て歩くのは何処でもOKである。
 
 忠孝西路(駅前の広い通り)は地下が延々としたショッピングモールになっており、
ホテルやデパートはそのモールで結ばれている。人出の多い雑踏の中、何軒かに顔を突
っ込みながら歩いたのだが、およそ昨夜士林での雰囲気そのもので、雑貨、食品の店が
びっしり続いているばかりであった。
 お正月前ということで台北駅前の広場にも、特設されたテントに地方物産市場が開か
れていた。立ち寄ってみると、野菜や魚の干物なども沢山並べられていた。地方から来
た蛇や獣類の加工品などもありここは珍しかった。しかし、缶詰以外は日本への持ち帰
りが面倒だ。私は蜂蜜の瓶を買って帰ったが、後の祭り、殆どの成分は水飴という不良
品であった。
 皆で、帰りのお土産などを調達しようとホテルの隣の三越へ入り、地下のスーパーへ
行って見たが、地元産品は駄菓子やビスケットなど、乳、畜産物が少しあっただけでこ
れはと、興味がわくものを見つけることは出来なかった。
 ホテルのビュッフェには出ていなかった台湾バナナがあったので、明朝のデザートに
1房買ってみた。果物類の加工品は無い。夫人たちは仕方なく、ポリパック入りの食膳
用品や、大きな月餅饅頭やチョコレート菓子などをお土産に決めたようである。

 台北駅の夕方は往来客の多さを感ずるほかは朝の雰囲気と変わっていなかった。人々
の様相も、体格、顔かたちが東洋人だし、作今、言葉が違うだけで着る物も世界標準化
している。時代の流れの中、異国の雰囲気はあまり感じない。言葉を交わせない不便だ
けが異国感といったところだろうか。そして、赤や黄色といった派手な色で訴える感じ
の広告がいやと言うほど目に入る。列車の発着を示す電光掲示板の明りが一杯になって
点滅し、独特の語調のアナウンスが高い天井に大きな音を反響させていたのが気になっ
たくらいだ。

 駅前の大きな交差点を渡って、右にマクドナルド左にファミリーマートと、日本の何
処かの街のようなイメージの重慶南路を歩いて下った。左手は、私たちの宿泊している
シーザーパークホテルの裏側からこの通りに並行する小路の界隈にあたるが、そこはい
わゆる駅前の飲食街といったところのようである。
 かつて、重慶南路は台北の金融街と言うことになっていたと聞く。中央銀行や、10
1ビルが遠方に出来てここは大分様相が変わってきたようである。
 地元の第一銀行と、もと国立銀行で紙幣も発行したことのある台湾銀行の厳しい建物
があった。台湾銀行とその先の総統府が交差点を隔てて並び左手は二二八平和公園の緑
地である。国立台湾博物館の建物が見応えがあった。

 国立台湾博物館

 1908年「台湾総督府博物館」として創設されたものが、1913年、第4代台湾
総督児玉源太郎と民政長官後藤新平を記念するため、現在地に新館として2年をかけて
完成したものである。完成後「児玉総督後藤民政長官記念館」と命名されのであった。
 その後1999年に現在の名称となったが、日本人として思えば、その頃の児玉の名
声や如何と言わざるを得ない。
 名声はさらに人を立てる。児玉は奉天会議で日露戦争を終わらせた立役者であるだけ
でなく、ぎりぎりの決断で戦に踏み切りながら、落としどころのタイミングをわきまえ
ていた政治家と言われる。政治に必要な理想、信念と現実のバランス感覚を、彼ほど知
っていた明治の軍人政治家はいなかったのであろうとも。
 当時内務大臣と台湾総督の職にあり、次は陸軍大臣への昇進を控えていたにもかかわ
らず、日露戦争を目前にして急死した大山参謀総長の補佐、田村怡与造のあとの参謀次
長という降格人事をも受け入れたという。
 が、合理主義者でありながら一方別の側面があって、人情家で友誼にも篤く、旅順攻
略に乃木将軍がてこずっているとき、児玉が出かけて指揮権の委譲を受け、203高地
を落とした話は後々までの語り草になっている。
 ギリシャ式の柱の正面と中央に丸いドーム、両翼に部屋を配したルネッサンス様式の
館はとても品性があり、優雅に映る。正面から建物に並ぶ菩提樹の下を歩いて日本庭園
を巡った。
 
 片や眼の先に現れたのは、これも日本統治下時代の建物、現在の「総統府」であった


 台湾総統府

 日本統治時代の1919年に台湾総督府として完成した建物で、空からの写真では日
本の「日」を現す形に建てられているとのことだ。時代は下り、世界大戦終結後に台湾へ
進駐した中華民国政府が接収、米軍による空襲の破損を修復し、そのまま「総統府」と
して利用されている。
 赤い煉瓦の壁面、上階には装飾が施されて豪華だ。車中から遠望したとき、ガイドの
漢氏は「どこと無く東京駅に似ているでしょう」と言ったが、そういわれれば赤レンガ
の印象が--と思えないこともない。
 中央に高い塔が伸びて旗がひらめいているし、両翼の広がりも角ばっているところは
、台湾博物館の優雅さと比べると威厳そのものに見えた。道路に面した構内との境界に
は多くの武装警備兵が起立警戒して並んでいた。
 しかし、現在、文化資産保存法により国定古蹟として登録され、午前中は見学が許さ
れているとのことである。

 台北市中山堂

 総統府の西側にある国防部の建物の下を通って宝慶路を西門駅の交差点まで進む。
 西門駅は大きなロータリーの地下にあり、南北に走る中華路大通りの向こうは昨日歩
いた西門繁華街から万華区、竜山寺へと続いている。
 私たちは中華路を北に少し進んで台北市中山堂へ寄った。
 そこは、1887年当時台湾を統治していた清朝が台湾布政使司を設けた場所であっ
た。そのまま日本が統治するに及んで1919年に台湾総督府(現在の総統府)が完成
するまでの間、ここが台湾総督府の庁舎として使用されていたのであった。
 1931年、総督府は皇太子訪問の記念と民間の文化活動に供するため、この場所に
「台北公会堂」の建設工事を着工、1936年12月に完成している。
 建物は現存しているが、日本敗戦に伴う降伏調印式がここ「台北公会堂」で行われ、
同年中華民国政府により「台北市中山堂」と改称されているのである。
 思い偲べば静粛が漂う。広場の隅に「中山」を号する孫文の銅像が立っていた。

 中華路と忠孝西路が交差する北門の大交差点は台北国税局、郵便局、鉄路局など大き
くて旧い黒くくすんだ茶色の建物が取り囲んでいた。

 台北城北門

 その大きな交差点の道路の真ん中に取り残されたように「北門」があった。
 台湾出兵により琉球に対する宗主権を喪失したことで、日本の勢力が台湾に及ぶこと
を恐れた清朝が、「台北城」を築城したのは1882年のことであった。1884年に
完成している。面積約1.4平方キロメートルの城郭。台北府の所在地であったことか
ら台北府城とも称された。
 日本が統治した1904年に台湾総督府により城壁の大部分が撤去されたため、今は
僅かに4つの城門が残り史跡とされている。
 中でも昔のままで残っているのはここ北門だけで、国家1級古跡に指定されているが
、東門、南門、小南門など現存する他の門は大戦後再築されたものである。

 歩いていくと、古びた中国式建築が車の流れる道路の真ん中に孤高として建っている
のが見えた。正式名称は「台北府城北門」、「承恩門」というのだそうだが、その名を呼ぶ
ことは今はほとんど無く、「北門」と呼ばれるのが一般的のようである。 
 「北門」は密閉式の造りになっていて、中国大陸でもあまり見られない珍しい様式と
のこと。建物の中央部分が通りぬけられるようになっており、左右には大きな木の門が
ある。分厚く、大きなその門は、丸い鉄釘を打ち付けた鉄板で覆われている。

 清の時代、台北の街をぐるっと囲んで造られた城壁も、今は影も無い。
 1900年頃から、城壁と城門の取り壊しが始まり、まず西門が壊されたのだそうで
ある。幸運にも当時の有識者との争いを経て、北門とその他3門は壊されずにすんだの
だった。北側城壁は取り壊された後、3車線道路として整備され、それが現在の忠孝西
路となっているとのことである。城内の寺廟、官衙など、清時代の建造物はことごとく
壊されたというから、日本も建築ばかり行ったわけではなかったと言わざるを得ない。

                 ○

 小路のカメラ店街、なんと日本のカメラブランドの看板がぎっしりの通りだった。そ
こを歩き抜けて、古いまま使われている煤けた外観の郵便局の建物の角を曲がりホテル
へ戻った。
 シーザーパークに滞在してメインダイニングを経験していなかったので、今宵はここ
でとフロントでリザーブを試みると、残念!今日は貸切だ、とのことだ。土曜日のディ
ナーだと言うのに思いの外、滞在者でも締め出しを食うことがあるのだということを知
った。
 仕方なく近くにどこかおすすめの店は無いだろうか、と問うが、きちんとした店はあ
まりなさそうだ。私たちには以外だった。
 結局、昨日夕食をとった台湾料理の「欣葉」(シンイエ)がおすすめだとのこと、台
湾には大衆料理以外はないようである。近くの支店は中山駅の近く、新光三越のビルに
あるとのことなので早速予約してもらい、タクシーに乗った。
 ホテルの前は降り始めた雨を避ける通行人で混雑し、タクシーを求める客をあしらう
ボーイが忙しく動いていた。ところが、やっと乗ったタクシーの運転手は日本語どころ
か英語もだめで、行く先はボーイが告げた筈なのに何処へ行ったらいいのか解らないら
しかった。
 中山は台北駅のすぐ隣のはずだ。地図を広げたり、ホテルでもらったメモを見せたり
して、ラッシュと雨の道路をのろのろ運転で15分遅れてやっと新光三越のビルに着い
た。土曜の夜だったから、こちらの店もディクラインされたらとはらはらしながらエレ
ベーターで8階に急ぐ。
 4人の席をもらって、「この旅行に記念すべき晩餐会なのだけど、やっぱり台湾は台
湾料理でということかねー」と皆で苦笑しながらやっと落ち着いた。
 その宵も紹興酒をもらって胃袋に優しい台湾料理をいくつか並べ、和やかに楽しんだ
次第である。

 帰りの車中からの眺めは、濡れた通りの赤、青、黄の原色看板が同じく原色のネオン
に重なって眩き、週末のきらびやかさを演出しているようだった。3日間曇っていたの
だが、堪えられなくて降り始めたような雨は夜更けまで降っていたようだ。   

                                                              (風次郎)

       
   「元台北公会堂」 と 「台湾博物館」―いずれも日本統治時代の建物―

           
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