台北小旅行(1002)

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台北駅

          2.朝の台北を歩く



 シーザーパークホテルは台北駅の真正面にあり、部屋は、眼下に台北駅を見下ろす場
所だった。
 5時には目が覚めてしまった。
 窓から見る台北の駅は昨夜耿々としていた上階の明りが無く、1階に出入りする数少
ない人の数を見るだけだった。星は見えないが雨は無さそうだ。
 恒例により、私は昨日の記録を整理してから、早朝の散歩に出かけることにした。
 とにかく駅の様子でも見聞し、ガイドブックを頼りに近くの二二八和平記念公園あた
りまで歩いてみようと思った。
 ホテルのエントランスを離れると、左手は三越が入っているノッポな新光摩天ビルである。
駅側へはその前に地下へ入る入り口が見えたが、先の大きな交差点を渡ることにした。
ホテルと駅を隔てているのが、昨夜空港から走って来た忠孝西路一段という通りであり、
下を地下鉄が走っている。交差する縦の通りは重慶北路一段である。道路名は孫文の号
「中山」と蒋介石の号「中正」にちなんで付けられているものが多いのだという。
 交通は右側通行。
大きな袋を担いだ男が横断歩道を一緒に渡って重慶北路の方に行ったが、
朝の挨拶言葉を覚えていなかったので顔を見合わせて手を上げただけだった。
 駅前はイベントの行われる広場に使われており、一般向けの駐車場も確保されている
のだった。
 台北駅のホールは中央が出札のオフィスになっており周囲にぐるり切符を買うための
窓口が設けられている。管理関係の部屋は周囲や上階にあるようだ。高い天井にアナウ
ンスやまだ雑踏にならない時間帯の人の声がこだましている。
 売店が開いていて、そこは人だかりがしている。食事を買い求める人も多い。新聞や
雑誌があったので近寄ってみたが、英語の新聞が一紙、英語の雑誌が一誌のみあとは全
部現地物であった。
 ただ、売店は6店舗のうち4店舗が「セブンイレブン」である。ガイドブックの地図
を見たとき三越の名前の多さにびっくりしたが、商戦では日本からの進出が勝っている
のだろう。
南の雄都「高雄」までの新幹線が2006年に開通したとのこと、地下鉄の駅の様子と一緒
に見たいと思ったが、開札のシステムはゲートに切符を通す式なのでフリーでホームには
入れなかった。
 開札が地下1階になっていたので階段を下りていくと浮浪者に行き会った。台湾は治
安やマナーが厳しいと聞いていたから少し驚いた。あとでガイドに尋ねてみたが、浮浪
者もいる所には居るのだそうだ。また、昨今はがんじがらめの社会は通用しなくなった
ということのようである。
 早朝はどこの国でも働きに出かける庶民の姿を眺められるし、長距離の夜行列車が到
着して地方色豊かな風景にも接するチャンスがあるものだ。それを楽しみにヨーロッパ
の国々では朝の駅の眺めを楽しんだが、長距離といっても南北が限られた島では遠来の
商人なども少ないのだろうか、地方色が感じられる光景も無かった。

 駅を出て、先ほどの信号を渡りそのまま重慶北路一段の通りを進んで二二八和平記念
公園へ向かった。正面にギリシャ風建築の国立台湾博物館が端正に建っていた。二二八
和平記念公園と共に日本統治時代に建設されたとのことである。 
 もとは「台北公園」であったものが、何故「二二八記念和平公園」と改められたのだ
ろうかと調べてみたら、大戦後の1947年2月28日にヤミタバコ売り摘発事件が切っ掛
で台湾人デモ隊が行政長官に対し行動を起こし、国民党への反乱に発展。これは外省
人(=中国人)との角逐の始まりになったといわれている。ここから「台湾人」は中国大
陸との精神的依存状態を脱したと考えられることから、この公園に「二二八記念碑」が
造られ、公園名を「二二八記念和平公園」と改名した由である。
 公園内は綺麗に整備され、野外劇場や中国風庭園も設計されていた。
 年配のグループが太極拳を行っている風景がとても中国的(台湾的)に映った。

 台湾の民族は大半が大陸の福建省と広東省から渡って来た漢民族である。
漢民族は中国に存する主流民族であり彼等が根底から大陸の民と共に同胞として生き
ることを望まぬ筈は無いように思う。
この分裂が記念として掲げられた「228事件」であるとすれば、倫理を基軸とする民族
としての心の葛藤や如何に、と思わざるを得ない。
 民族の衝突は最大の不幸であるにかかわらず、常に必ず地球上に多いものだ。
 今、自分の立つ公園の平穏が不思議に思えた。
 そもそも台湾は東南アジアから渡来して住み着いた少数の台湾原住民が住んでいた
島だったといわれる。以後通商の基地を目当てに南側にオランダ、北側にイスパニアが
築城、1642年にはオランダがイスパニアを駆逐し原住民を懐柔して支配を始めたの
だそうだ。
 漢民族が移住したのは17世紀に入ってから、殆どは大陸からの経済的逃避が理由で
あった。
当然のこと、原住民との衝突が頻発、反清の鄭がオランダを追い出して基地としたもの
の1683年には「清」が打ち破り、ようやく文官を派遣して統治にいたったのであった。
 その後、日清戦争を終結した下関条約で清が台湾を日本に割譲し、1895年4月17日
から第二次世界大戦の終わり1945年1月25日中華民国統治下に置かれるまでの
間、日本統治が行われることになる。
 日本は、1896年から1906年総督に就いた児玉源太郎のもとで後藤新平により英の
植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地との認識に立つ統治が行われ
たが、政府内ではフランス植民地思想の影響を受けた考え方――内地延長主義――
と対立していた。 しかし、1910年代大正デモクラシーの広がる中で、1919年総督に
就任した田中健治郎は、初めての文官総統ではあったが原敬との協議のもと、内地延
長主義を進めたのであった。すなわち、「台湾民衆と完全な日本国民とし、皇室に忠誠
な国民とするための教化」が行われたのである。これがその後20年間にわたる同化
政策の端緒となった。

 第二次世界大戦が終わり、敗戦した日本にかわり、GHQの委任を受けた中華民国軍
が進駐した。その後、大陸では1949年中華人民共和国が成立し、大陸を追われるか
たちで瓦解した中華民国が政府機能を台湾に移転した後は、そのまま中華民国が実
効支配しているのが現状である。
 今、台湾の人は比較的日本贔屓に感ぜられる。 その要因を、私にも日本は現地との
情を違えず領土建設に当たった過去の結果と理解したい心の傾きがあったのだが、
あらためて歴史を振り返れば、わが国の統治も所詮植民地支配であったといわれて
も仕方ないのであろう。
 ただ、日本統治がもたらした遺産が現存し、交流を持った人々が親しく接してくれる
ことに、訪れた一人として友好を感ずることは確かである。アメリカに近い経済の波及
もあるからだろう。

 現在この国の位置は、本土国家に世界への窓口を代えられ、米中の狭間で民族の自立
を渇望するという難しい局面にある。

 渦中にあるこの国の総統府が近くにあり、その建物も日本が統治していた時の建物その
ものだという。錯綜する思いを抱きながら歩いた。
そして、平和な朝に感謝しつつ、曇り空の下をホテルに戻った。
            

                                                           (風次郎)

   
  台湾総統府(日本が)統治した頃の建築

           
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