BGM TAM Music Factory
ボストン・サウスステーションのアムトラック・ホーム HOTEL
PARK PLAZA
ボストン行き
ボストンへは前々から1度は行ってみたいと思っていた。それはアメリカの歴史を先がけた港町であり、今も
その跡形が残っていること、今は多くの優秀な大学が存在し世界の若者が勉学に勤しむ学生の街であること、
もう一つは私が青年時代から、一つの憧れを抱いていたケネディー大統領の出身、ゆかりの地であるという観
点からである。国務省の職員であった友人マクナランは私のケネディーへの関心を良く知っていて、一度はハ
イアニスのケネディー邸へ案内したいと言ってくれていたがついに機会を失ってしまっていた。
私たちは孫娘の大会より1日早く長男の家を発った。ニューヘブンラインに乗り、スタムフォードでアムトラック
に乗り換え、そこから約2時間でボストン・サウスステーションに着く。
スタムフォードではアムトラックへの乗り換えでチケットの差し替えがあった。最近は何ごとも自動機で行うこと
が多い。
乗り変えの陸橋へ階段を上って行くとオフィスの窓口があったので場所を尋ねると、チケットを出せばその窓口
でやってくれるというのでヤレヤレと思った。とは言うものの、そのあと案内の電光掲示板に従ってホームに出た
のは良いのだが、予定の時間になっても列車が来ない。
隣の番線には何本かの列車が到着しては出て行く。近くの人にチケットをみせて確認すると待っている番線が
間違っていることはなさそうだ。ホームで私たちと同じ頃から待っている米国人らしい男の人にもう一度聞いてみ
た。その人もボストンへアムトラックで行くのに私たちと同じ列車を待っているところだと言うのでこれもヤレヤレだ
った。
放送設備があって時々何らかの案内があるのだが、アムトラックについては結局何の案内も無いまま35分も
遅れてやってきた。車中に身を納めてほっとした。
ニューヘブンラインからアムトラックの路線は、ロングアイランドサウンドという長い湾の西側海岸伝いを走るの
であるが海岸線を見ることは殆んど無い。車窓に続く土手や林の艶やかに染まった木々の流れを眺めていた。
コネチカット州を過ぎて、やがて列車はロードアイランド州に入った。それは車窓の景色が遠近に海を見るよう
になったことで解った。
名は忘れたが、港のすぐ近くの駅で停車した列車がその駅から発車してすぐに、珍しく踏み切りを通過して行っ
た。列車をやり過ごす人の姿が、水辺に続く道路や、その対岸の風景と共に見えた。
ロードアイランド州は合衆国の中で最も小さい州である。また、幾つかの原住民が移住民たちから離れて住み
着いた所としてよく知られている。ナラガンセット湾が深く入り込み、島の多いところでもある。湾を渡りつつ見る
水辺の風景は眼にその青が、清々しい思いを誘った。
○
ボストン南駅の長いホームを歩ききって駅舎に入ると、そこはもうカフェになっており、昼食時の旅行者たちが
ほぼ満席に丸いテーブルを囲んでいた。昼時のカフェは出入りも激しく、私たちもすぐに席につくことができた。
はなと二人で売店のコーヒーとケーキのような感じのマフィンを買って、ボストンの雰囲気を確かめながらの昼
食にした。
私たちにはやって来たアムトラックの出入りするホームの方を見ながらの休憩時間であった。
カフェは駅のホールの端を区切りもせず使っているので、振り返ってホームの方を見ていた眼を移すと、そう広
くない先にエントランスがあり、ボストンで催されている幾つかのイベントの垂れ幕を掲げた大きな柱が目立って
いる。その下を旅行者が行き来していた。
食後、エントランスを出て駅前の風景を眺めた。
高層ビルの間から数本の道路が駅に向かって集まっている角には、レンガ造りを装った背の低いビルがあっ
た。また10数階の屋根が見えるほどのビルはその屋根を古風にあしらっているらしく見えた。何処と無くボスト
ンの伝統を現そうとしているかのように見えた。
私たちは午後の予定をケネディー記念館へ行くことにしていたので、地下鉄のホームに下りていった。
ガイドブックには「地下鉄は判りやすい」と書いてあったので安心していたのだが、いざ切符を買う場になるとな
かなか思うようにはいかないもので、結局は駅員に聞いて買ってもらう羽目になった。
ニューヨークの地下鉄は自動販売機でも日本語が表示されるようになってとても便利になったのだが、ここでは
参ってしまった。翌日市内を案内してくれたガイドの須藤さんにこの「参った」話をしたら、ボストンの券売機は最近
アメリカで一番新しい方式に変わり、地元人でも初めての人はなかなか旨く買えないのだそうだ。これから各地に
この方式が採用されるから、覚えておいた方がいいとのことだった。要領は路線を選ぶところから入るということの
ようだが、私たちはここに住むわけでもないから、納得できただけで心が落ち着いたと言うことである。ただ、ボス
トンの地下鉄はアメリカで最初にできたというから先取の気鋭が現れているのかもしれない。
ケネディー・ライブラリー・ミュージアム
地下鉄とは言うものの郊外へ向かうサウスステーションから先は地上の路線であった。サウスボストンから海寄
りに3つめの駅がJFK・MASSという駅で、私たちのほかは大学生が4〜5人降りたのみだった。もっともJFKライ
ブラリーはマサチィーセッツ大学ボストン校のキャンパス内にある。
キャンパス内3〜4箇所のバスストップを経てケネディー・ライブラリーを折り返すフリーのバスストップが、橋上駅
からそのまま通じているブリッジを降りたところにあった。
少し風があって肌寒さを感じさせる曇った午後である。バスストップから眺めると、海辺に広がる広大なキャンパス
以外は何も無い飄々とした処だなと思った。
ベンチで15分ほど待ち、大学とケネディー・ライブラリーを巡回するバスに乗る。
「ついにハイアニスには行けなかったなあ。」ハイアニスはケネディー・ファミリーゆかりの地でジョンの父ジョセフは
そこで生涯を終えた。国務省に在籍していた友人のマクナランは、しきりにすすめてくれたが機会は無かった。ケネ
ディー家の本拠地を訪れることはもう叶わないだろう。
鮮烈な政治家だったジョンの生涯は「若し、彼が生きていたら」という仮定のための遺物になってしまったような
気がする。あわせて同家にまつわるその後は不幸な出来事が続いて、ジョンの死の覆われた真実に、今でも信
じがたい逸話が生まれて絶えない。ただ惜しまれているだけ――。
そんな思いを、私も繰り返しながらJFKを偲んではいるが、少なくも彼のゆかりの地に足を運んだことで、思いの
一端を全うしたとしよう、とバスに揺れて行った。
ガラス張りの建物の上層部に図書館があるとのことだったが、私たちはミュージアムの展示を見るに留めた。
ガラス張りではあるが、黒いキュウビックのような四角の建物と、白い四角の建物と円形の建物が組み合わさ
った白と黒の味気ない(逆にさっぱり味気のと言おうか?)デザインが湾に沿った場所に建っているのだった。
入り江を越えて丘状に盛り上がったボストンの街が見えた。
1階のエントランスを入るとすぐにシアターに案内され、ケネディーの生涯を綴った15分ほどの映画が上映され
た。平日であるためか入館者は少ないようで映画は15分おきに上映されており150人ぐらいの観客席に、わた
したち2人ほかは3人であった。同じシアターが2つあって、入場者のスムーズな見学を促す配慮がなされている。
シアターは他にもメインのものが別棟にもう一つ設けられていた。
エントランスシアターでJFKの生い立ち、ケネディー家族の様子 大統領選 アポロ計画への取り組み キューバ
危機、ダラスでの惨事と時を追う形の映画で先にさらっと紹介した映画を観るのは、展示の理解を容易にしている
と思う。それに続いて展示は、JFKの生きてきたイベントごとに個室が設けられている。順番に3分の1が大統領
選挙を勝利してホワイトハウスに入るまでのコーナー、そして大統領としてのホワイトハウス生活、ここではアポロ
計画の成果展示やキューバ危機に臨んだ時の苦悩するホワイトハウスの様子など興味深い資料もあった。
そのコーナーの最後はダラスの悲劇になるのだが、彼が逝ったその日のままの大統領のテーブルが机上の物も
そのまま復元されていた。使用していた眼鏡や文具は実物が展示されており、私にはとても印象深く心に残った。
あくまでも私的なパビリオンということなのだろうか、撮影は自由で観覧者も少なかったので、沢山の写真を取る
ことが出来た。最後のコーナーはこれも悲劇であった弟ロバートや、ジャクリーン夫人をはじめファミリーに関する
幾つかのテーマが取り上げられていた。私もファンの一人として自宅にはかなりの本やビデオ他資料を持っている
が、その中にも含まれていて思い浮かぶ懐かしい印象の数々、彼のハイアニスでのファミリーとの和やかな写真な
どが一家の悲しい結果に涙を誘われる思いであった。
プロショップで記念にコーヒーカップを買い、閑散としたカフェで、風が強いのだろうか、さざ波の海を眺めながらし
ばし心を癒して外に出た。
(風次郎)
左:ケネディーの演説草稿の数々 右:悲劇の日そのままに復元された大統領の机上
(決済中の書類は眼鏡の下、未決済はクリップで留められている。)