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ガイドのギョクチェはトルコ人であるから勿論ムスリムであり、この国はイスラム法を取り入れているから話の端々ではイスラ
ムの解説に及ぶ。その筋の人からの話はいろいろと実生活との関連に及び成る程と思うことも多かった。
もっともトルコはアラビアなどのように作法に厳格なところはないようで、敬虔な信者と言えども生活上の縛りは緩やかなよう
である。女性のスカーフもあまり見ないし、礼拝も何処にいてもというより、家庭できちんと行うことが重視されていると聞いた。
イスラム教は、「偉大な神アッラー。アッラーのほかに神はなし」とする。
しかし、アッラーは、キリストや仏陀のような実在の人物ではない。いつも天上にいるとされる。死後、天上で神に会える。そ
う信じてイスラム教に殉教する人たちが、世界に何十億人もいるのである。
実在した預言者のマホメット(570−632)は、神の言葉を啓示で預かり、人々に伝えたのであり、神ではない。
そもそも西洋に生まれた宗教は、その神の存在や啓示を民にもたらす預言者によって多くの流れが生じた結果がもたらした」
ものである。しかし、それが現代の民族間の争いの根底に厳しく存在するようになってしまったことは、神の思し召しではあるまい。
元はと言えば、穏やかな心の世界を求める善意の導きのはずだったのであろうに――。
思うに、歴史家によれば、自然の事物のなかに表されている神の存在を正しく認識し、人間の心に宿ったその掟をしかるべく
実行することが、真意はどうであれ、いつの時代も預言者の目的であったことに変わりはなさそうだ。
だが、信ずると言うことであればこそ、そこにはいつも鷹揚さが伴い、アダムの堕落からコーランの宣言にいたるまでの間、長
い霊的発現の連鎖があったのである。(つまり、霊的発現は厳しさではなかった。)
予言は連綿としてつたえられ、、かくしてそれぞれの聖霊を通して語られたとする言葉が記された書物は百四巻にも上り、超
越的英智をそなえた立法者、すなわちアダム、ノア、アブラハム、モーゼ、キリスト、それにマホメットが、唯一不変の宗教に基
づく儀式を人類につぎつぎと教示してきた。(ギボン=ローマ帝国盛衰史)
であるならば、これらの宗教それぞれがすべて他を排することを要求するものでないことは明らかであろうと思うのだが、お互
いに寛容がなく、現代の様相はとても深刻というほかない。
私には指導者の派閥争いの果てと映る。人の考え方の固執とは、かくも大きな波形をつくりあげるものなのだ。
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翌朝4時前には近くの部落のモスク(トルコ語でジャミー)からアザーン(礼拝の始まる呼びかけ)が聞こえてきた。アザーンは
何処にいても聞こえるようにスピーカーのボリュームは高い。早朝のリゾートにも独特のアラビア語(トルコではアタチュルクがト
ルコ語で行うことを指図したが、いつの間にかアラビア語に戻ってしまったのだそうだ。)は果てしなく響きわたっている。モスク
にあるミナレット(尖塔)はもともと、ジャミーの場所をこの地を訪れた誰にでもわからせるように高い塔とし、またそこにこのア
ザーンを響かせるために響きの良い呼び掛けの部屋を造ってあるのだという。
私はまだ薄暗い海岸リゾートの道を歩いて部落の方へ向かう。
海岸に沿った道路には2〜3の飲食店が明かりをつけていた。週末でもないが、恐らく昨夜から営業しているのだろう、軽装の
若い人達が気勢を上げていた。他にも何軒かの店(雑貨屋、食糧品屋)がまだ戸をしめたままでポツリポツリと並んでいる。
アザーンの呼びかけはホテルを出た頃もう終わっていたのだが、私は足早にホテルから7〜800m位離れた集落の中に見え
るジャミーを目指して歩いた。
ジャミーは、丸屋根も壁も新しい建物のように見えた。常時綺麗に手入れがされていると聞く。
まだ早朝の暗い中、信者たちが光に輝くようなジャミーの建物を後にして帰宅するところであった。
入り口の前庭に5〜6人で囲めるほどの木のテーブルがあり、数人はそこに腰掛けて語り始める様子だった。礼拝の後の寛
ぎであろうか。そのテーブルの3メートルほど先にミナレットが立ち上がり、先ほどまでのアザーンはイマーム(導師)によって、
そこのスピーカーから流されたものであろうことが容易に想像できた。
早朝である為か、女性の外出が咎められているのであろう。やはり女性の姿は見えなかった。
薄明かりの中にジャミーの周囲に植えられた夾竹桃がこんもりと茂みを作り、白や赤の花をつけているのが浮いて見える。
夾竹桃の根元には昔から人々の通った足跡を印されているであろう、古い敷石の道路が集落の中に向かっていた。ぼうと並
ぶ敷石の連なりが歴史を語るように続く。
民家の建ち並ぶ道路に洩れる光は民家の室内からのものであろうか。
ホテルの近辺のモダンなリゾートから比べたら部落の建物は極めて質素である。時代の経過を偲ばせる石を積み上げ、土を
固めた壁、小さな窓やドアの家を今も維持している家が何軒もあった。
このあたりがアクチャイの古くからの集落であったのに違いない。
数十メートル先に交差点があり、その広くなった角に公共の水道栓があった。それは紛れもない、あのローマの街道筋で見た
縦型の大理石にローマの伝統の象徴、神物化した狼の頭を彫刻し、その口から水をもたらす水道栓である。ただ水は魔物の頭
の下につけられた現代の水道栓の蛇口から出るように改造されてはいる。
おそらく水道が既に町中の民家にいきわたってきたことにより、古くからの歴史の一端を留める為の遺物として残されたもので
あろう。それどころか、後でわかったのだが、ここでは今でも水は潤沢ではなく、水は店で量り売りされているのが実態であると
知った。
道はそこから傾斜地に上っていくものと、平地の部落の他の方向に折れていく左右2手に別れていた。ここはその昔から伝わ
るエーゲ海岸を繋ぐ街道の一部なのかもしれない。
交差点の一角には、日本の魚屋風の店(ガラスの商品ケースを置き、店先に水を張ったような桶状の入れ物が並ぶ)があった
ので覗いてみたが、品物は包装品(ソーセージや冷凍品のようなもの)しかなく、品数は少なかった。
当然ながら早朝であれば、仕入れはこれから何処かへ出かけるのであろう。それらしき店の主人がいたが、言葉が通じないこ
とに不便を感ずるばかりに終わってしまった。
他の店に入ると、パンや菓子類に混じって野菜類が並んでいた。なす、さくらんぼ、トウガラシ、たまねぎ、など私にも解るもの
が大半である。道路の端にバラ、アジサイ、ゼラニウム、インパチェスなど日本と変わらない季節花の苗が並べてあった。
帰り道、海岸通りの資財屋の店先をチェックしたら、小型のバンはHONDA、トラックはオペル。並んでいる商品は水タンク、タ
イル、ロープ、長靴、手袋それに釘や針金などの金物があった。この部落には現代のスーパーマーケットはまだ無いようである。
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アクチャイからアイワルク方面