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6月4日である。
前日に続きコンヤからカッパドキアまで、シルクロードとして往時隊商の辿った道を進む。
今日も晴れて真っ青な空に、聳えるような高層のホテル「リクソス」を仰ぎ見ながら、開発地域の広い新設道路をバスが
走り始めた。やがて街道筋に入り、ゆるい丘のような起伏のある草原を淡々と走って行く。
遥かなる大地である。緑と黄土色の平原はどこまでも続く。
彼方の石灰岩が露出したアルカリ性の山にも樹木は少なそうだ。外の風景は淡々としているが晴天に強烈な陽が射し
て真夏の様相である。外気は30度になっていると運転手はつぶやく。
今旅中で最も暑い日になるだろうとのこと、 空には刷毛で描いたような雲があり、太陽は眩しくて見つめらないくらいだ。
光を跳ね返す景色も眩しかった。
コンヤ平原は小麦や砂糖大根の産地であるが、この夏の暑さの分、冬は余計に寒さが厳しく、冬は作物が採れないよ
うだ。トルコの料理に保存を意識したもの、塩分の強いものが多いのは、移住する生活に加えて内陸の厳しい冬をもやり
過ごさねばならない生活上の必然性があったのである。
スルタンハン・キャラバンサレイに寄った。
物流の盛んな時代、街道筋には40kmごとに隊商宿が作られていたのであった。セルジュークの時代からそれは続い
たが、オスマンの時代にはそれが城となった。
私たちが寄ったのは皇帝の宿となったところである。高さ10mの塀はまさに城壁、内部も馬(古くはラクダ)を飼う場所、
兵士の休息場所など、なるほど城となればを思わせるしっかりとした跡形が残されていた。キャラバンサレイの脇に今様
のドライブインがあり、私たちも木陰で休息した。
淡々とした風景は次第にカッパドキアに近い村々の中に吸収されていった。
小さな坂道の向こうから、ガイドブックでよく見るカッパドキアの奇岩の風景があらわれ、すぐにバスはネヴシェヒルの街
の中に入っていく。
街に入って絨毯の製造工場を見学した。畳んでラクダに積め、軽く運べる羊毛や絹の、細密模様を施したトルコの伝統
的な絨毯が、子孫に遺す財産になる、と説明員の口上である。絨毯の文様は緻密で、草木染めだから、数百年も色褪
(あ)せない。遮るものがない強い太陽光にも耐える。と、もちろんトルコ絨毯の精巧さを強調して、最後は販売会となるお
決まりのコースではあったが、精巧なものは今も一本一本の絹糸を繰って女性の膝の上で織られている伝統的工芸であ
る現場を見た。
1平米くらいの小さな絨毯(と言うより壁に飾るタピストリー)を1枚編むのに、数か月を要するそうだ。美術品のような大
作は、熟練した女性職人が、根気を詰め、2年も3年もかかり、1枚が、数百万円で売られる工芸である。
高価な美しい製品に見とれたひと時であったと思う。
お昼時間になり、私たちは先ずアバノス地区にある洞窟レストラン「BORA」に行って昼食をとることになった。
暑く眩しい荒野の中を走り抜けてきた後の一口のビールが今日も旨かった。料理はやはりケバブであったが、普段日本
でも採れる人参や葉物の野菜スープとライスプリンというごはん粒の入った素材をミルクで固めたデザートが口に合って良
かった。
この地域では作物は畑で豊富にとれ、風味をつける胡椒や香料も栽培するそうだ。
「BORA」は文字通り岩壁を刳りぬいた部屋を幾つも持つ造りであるが、外気を感じさせないしかも安定しているという室
温で、風変わりさとともに楽しめたと思う。自家製のワインが中央のテーブルに並べられてあった。葡萄も採れるらしい。
トルコを訪れて、奇岩のカッパドキアと地下都市の観光を抜かす人はいないだろう。カッパドキアは、美しい馬が住む高
原の意味という。記録は、紀元前の6世紀にさかのぼる。火山が噴火し、火口から岩が飛び、噴き出した火山灰が深く降
り積もった高原。年月を経て、雨と激しい季節と、昼夜の気温差が、岩石の柔らかい部分を侵食し、硬い岩を残す。それ
は今、まさに奇岩として現れているのだ。
長い円錐形の岩が、至る所、灯台のように屹立(きつりつ)し、てっぺんには、三角の岩を頂く。キノコ岩と呼ばれ、神が
作った住まいにも見える。不思議な光景が広がっている世界遺産だ。
午後はギョレメ地区のオープンミュージアムの見学から始まった。
奇岩を掘って造られた岩窟教会の礼拝堂や修道院、住居などの施設が形を留めている。この地方にキリスト教徒が暮
らし始めた4世紀の頃、彼らは迫害を受けながらもここで岩をくりぬいて施設を作り信仰を貫いたのであった。立派なフレ
スコ画なども残っており奇異で見事な屋外博物館である。
次に行ったのはカイマルクの地下都市である。
ギョレメから一つの丘を越えて(その丘には何と荒野の中につくられた現代の監獄があるのだった)行った。20kmほど
走ると、一つの山がカイマルク都市遺跡であった。
そこは蟻の巣のように地中はまさに迷路につぐ迷路、背をかがめてやっと1人通れるくらい狭く、暗く、長い通路が地下
5階にも及び、2万人もの人が暮らしていたといわれる壮大なものだ。一時はアラブ人から逃れたキリスト教徒が住んだ
その跡形があり、礼拝堂や壁画も見える。
遺跡には学校や食糧庫、そして生活区には台所や、トイレもあり、3畳くらいの狭い部屋が、通路の両脇に掘られている。
井戸までが備わる行き届いた規模のものだった。
地下都市の記録は紀元前400年にも存在するほど古く、その発祥や歴史には謎が多いのだそうである。それにしても
採光の無い中で、通気の工夫をし、敵の侵入をも防ぐ備え(大石の防護扉)さえもあるというのは普通の考えを超越した
暮らしだったであろう。まるで防空壕の迷路の街と言えばいいのだろうか、必死に生きたことが、わかる。外敵の攻撃か
ら逃れるための山の岩を穿った住処である。
ハサンさんの洞窟の家
ガイドのギョクチェさんはカイセリ大学の卒業生だが実家もこのカッパドキアにあるとのことだった。自分の実家にも古い
洞窟部屋があるが、今は物置にしか使っていないとのことだ。知り合いのハサンさんがギョレメの洞窟の家で生活してい
るので、その家を私たちのグループに見せてくれることになった。
ギョレメの展望台のすぐ近くの岩壁にハサンさん宅のドアがあって、私たちのグループ19人が揃って訪問させていただ
いた。
入り口から少し下り傾斜の廊下の先はリビングにあたる広い部屋になっており、ベランダの窓からギョレメの雄大な風景
が眺められる。ちょうど私たちが展望台から通ってきた菜園の下になるそうで、上が屋上菜園といったところか。
親の代に出来上がった(掘削が完成した)とのことで奥様(バハルさん)と子供たちが一緒に暮らしている。電気も引かれ
ているので生活は快適のとのことだが、家具らしきものは極めて少ない。移動民族には持ち運べないという習慣によるも
のだとのことだ。しかし、少なくもどっしりして静か、それに自然の風景そのものの窓の景色こたえられないだろう。国では、
今はもう新しい洞窟住居は国が認めないとのことである。自分でも貴重だと語った。
廊下から室内にもいっぱいに絨毯が敷き詰められており、バハルさんが自分で織って嫁入り道具に持参したものもある
とのことだ。奥様は今も居間で絨毯を織っているそうだ。成る程洞窟住居には絨毯はぴったりである。
奥様が入れてくれたトルコチャイを絨毯の上に座って皆でご馳走になった。トルコ人はこのチャイを、一日、10杯や20杯
は飲み、生活や政治を話して暮らすと言う。
きちんとしたイスラムの信者らしく高い棚に教典を置き、夫人はスカーフを纏っていた。
旋舞(セマー)
アバノスの陶器店でこの地方に豊富な粘土質の土(クズル川の土)を使ったヒッタイト時代からのこれも伝統工芸品を眺
めてから、数人の希望者でイスラム教神秘主義の旋舞を見学に行った。
洞窟の中に設けられた観客席が取り囲む会場で、教義に基ずく1)予言者ムハマンドへの賛美、2)クデュム(打楽器)の
演奏、3)ネイ(笛)の演奏、4)セマーゼンの3度の礼、5)セマーゼンが黒い上着を脱ぐ、6)クルアーンの「バカラ」7)祈り、
の順に繰り広げられた神秘的な礼拝行事はすべて男性によるもの。右腕を天に左腕を地に向けてくるくると廻るのだそうだ。
厳かな祈りの形ではある。と思った。
旋舞の洞窟を出ると、陽が落ちて薄暗くなった奇岩の町は静かだった。セマー会場の若い男がヒュンダイ製の車でホテル
まで送ってくれた。
英語は少し話せるということなので言葉を交わすと、ヒュンダイは日本の車だときっぱり言った。トルコではアジアの東はす
べて日本である、という一般認識なのだろうか?私は笑って抵抗するのを止めた。
奇岩の町には灯りは少なく、それにセマーからの帰りでもあり寂しげに暮れ行くくねくねとした道を、旅仲間の待つ洞窟ホ
テル「アルフィナ」に向かった。
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ギョレメ オープン・ミュージアム ハサンさんのベランダ
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