☆☆☆
古代都市の丘を下り、昨日走って来た街道筋へ出る。そしてコンヤへ向かう。距離410km、1日の走行では今回の旅程中最も長
いバスツアーとなる。
幸いなるかな大きな空は雲ひとつ無い晴天が今日も続いている。
運転席の窓から見える先には空と地平が、つながっている。私は思わず振り返って後部座席の窓に寄っていき、消え去るまで続い
ているまっすぐな道を眺めていた。
大いなる大地の広がりであった。
アナトリアに当初繁栄を築いたのは鉄の文化を捧げたヒッタイトである。黒海を渡ってきた北方系民族で紀元前2000年といわれる。
そしてペルシャ、ヘレニズム、ビザンツとこの地アナトリアに戯れるように人々の往来と文化が流れ過ぎ、やがてセルジューク、オス
マンとイスラムによるトルコ民族の形成期が訪れるのである。
トルコ民族は、中央アジアに興った遊牧の民とされている。されば、大平原を渡る民族の集団は、今見る風景のように地平を見つ
めながらの旅を重ねてこの地へ流れて来たのに違いあるまい。砂漠に興ったもう一方の遊牧の民とはイスラム教によって融合したの
であろうか。
比較的近い時代になっても、遊牧の民は群れとなって移住し、或いは他の繁栄の地へ渡る隊商をなして平原を旅したのであろう。
イスラムの教理はそこに芽生えたのである。
平地の草原につづく大地の道の直線ドライブは、それぞれ時間にして30分は裕にあった。
彼方に薄れて見える山脈があった。
時々窓の先に湖が現れたりした。
広大な塩湖もここで見た。夏には水が蒸発して塩が白く堆積するので、その塩を採るのだそうだ。今は苛性ソーダの採取が主力産
業となっているとのことである。
ただ、冬は車で走っても割れない厚さの氷が張るほどの、マイナス20度になるという厳しい気候だとのことでもある。自然の恵みは
厳しさと並存するものだ。
ところどころに村落があって、どんな小さな村にも、モスクの尖塔が見えた。
イスラム教は旧約聖書から立ち、キリスト教を離れてマホメットにその端を発した砂漠の宗教であるが、遥か中央アジアの民族にま
でも国を興す根幹の精神に影響を与えたのであろうと思う。その意味で、私はイスラム教を自由主義とは異なる統一志向の宗教と考
えざるを得ないのだが――。
一方でその教義は「豊かなる者、貧しき者に必ず施すべし。」と掲げている。
始まりは他を滅ぼし制覇して築いたこの国に、今民族はとてもゆったりと生きているように私には映る。でなければ貧しいはずが無い。
「山があり、川があって、湖や海がある。食べものは豊富だ。こんな素晴らしい国がどこにあるか。天上には、アッラーもいる。祖先も
父母もいる。」何処かでこんな呟きを唱える人々の国であるような気がしてならなかった。
延々とした走行の途中、ディナールというところのドライブインで休憩し添乗員の細野さんから蜂蜜ヨーグルトをご馳走になった。トル
コは彼女も何回来ても心の休まる国だと語っていた。ここでは名物であるとのことだった。
何と日ごろから何気なく口にしているヨーグルトもトルコの発祥であるらしい。 塩湖を過ぎたスルタンダーというところではお昼になり、
「ピデ」というトルコ風ピザで昼食をした。
昼を過ぎる頃から空には雲が現れてきた。しかし陽射しは相変わらず強く、頃を見計らってときどき直射が遮られる程度のように感
じられた。
やがて起伏のある山地に差し掛かると、大理石の採石場が見られるようになった。
そのあたりはヨーロッパ屈指の大理石搬出地のようである。
コンヤ
長い走行はコンヤの街に入って途切れた。15時を30分過ぎていた。
コンヤは11世紀から13世紀にイスラム教によって栄えたセルジュク朝の町である。セルジュク朝では首都であった。
先ず、イスラム神秘主義メヴラーナの霊廟であった博物館へ向かう。イスラムでも独特のセマー(旋舞)を捧げる行事を行う教団の
僧院であり修行場でもあったということで、円錐形の屋根の下は奥にメヴィラーナの棺を置き、周囲に修行僧の為の部屋を配し中央
にはムハマンド(マホメット)のアゴヒゲを入れた箱が置かれていた。
神秘には感ぜられるが暗いジャミーであった。
コンヤでは市内を移動してインジェ・ミナーレ博物館にも入った。セルジュク様式の代表的な建築物でトルコでは最も優れた芸術作
品の一つとのことである。特に細密な彫刻が外壁、門などいたるところに施され、そのアラビア文字、幾何学文様が見事であった。
インジェは「細い」という意味の由、今見るミナーレはちょっと煙突のような感じで残っているが、1901年の落雷で破壊される前は
3倍の高さがあったとのことである。
インジェ・ミナーレの前向かいは市民の為の大きな公園になっており、公園をグルリと路面電車の走る道路が廻っている。木々の
緑や芝生の広がる園内には、清々しい夕暮れ時を楽しむ人達のかたまりがあった。
市内の中央を貫くマヴラーナ通りには夕方の市民の賑わいがあった。また、いくつものジャミーが眼に入った。
バスの到着を待つ私たちのところを通り掛かった子供たちが、日本語で「こんにちわ」とにこやかに挨拶をしていったのには驚いた
が、いっぺんに親しさが増したのは言うまでもない。眼がクリクリとして鼻の高いトルコの子供たちを格別可愛いと思うようになったも
のである。
トルコの教科書には、オスマン帝国のフリゲート艦(エルトゥールル号)が、和歌山県の南端、串本町の沖で難破したことが書いてあ
るそうだ。1890年(明治23年)に台風に遭って難破し、日本への使節団587人が、暗い海に沈み、死んだ。
しかし、陸に流れ着き、真夜中に灯台までの断崖をよじ登った生存者が69名いたのだ。
灯台守からの知らせを受けた大島村(現串本町)の村民は救助に当たった。村民は、海が荒れ、何日も漁に出ることができず、食
べるのに事欠いていたにもかかわらず、乏しい衣類、卵、さつまいも、そして非常用の蓄えであるニワトリも出し、炊き出しをして、遭
難したトルコ人を助けたのであった。
明治政府はこれを知り、援助して、翌1891年10月5日には、海軍の船で、イスタンブールに生存者を送りとどけたのである。使
節団の遭難と、村の人たちの献身と犠牲はトルコで大きく報じられ、それを讃える逸話として、今もトルコの小学校では歴史の教科
書に書かれているとのことである。
このことは聞いたことがあったのだが、ガイドのギョクチェさんに確かめてみた。
トルコでは当たり前に学校で教えることだそうだ。
道を行く無邪気なこどもたちが、明るく「こんにちわ!」と声をかけてくれたことに、心に響く親しさを感ずるのはそんな背景があっての
ことだろうか。トルコの7000万人の国民と政府は、大島村民がトルコ人を助けたエルトゥールル号の恩義を、民族の記憶にしている
ようである。
コンヤでは郊外の新しく開発中の街(イスタンブル地区)にできたという近代的なホテル「リクソス」に泊まった。
その地域は、市街地を遠く望む台地の上にある開発地で、広いメーンストリートが貫き、幾つかのアパート群が、中には建設途上の
ものも含めて中心の商業地を取り囲んでいた。
HISのコンダクター細野さんが特別に「地元スーパーを見るのも良いでしょう」と希望者を誘ってくれたので、同行させてもらった。スー
パーに並ぶ生活用品の種類はどこの国に行ってもほぼ変わらない。銘柄が国産であるところからその国の嗜好を読み取ったりして楽
しむが、加工肉とスパイスが多種類あったことはお国柄と思った。
商業地はいわゆるモールを形作る建設途上で作業中現場が混在していた。が、わたしの眼には道路の成り行きや、アパートの現場
の体裁から、開発が滞っている風に映った。ただ、飲食店、理美容院、衣服、雑貨などの生活上のファシリティーは揃っているようだ。
世界的不況はここの計画までも狂わせているのかも知れない。
ホテル「リクソス」はメインストリートを挟んで広大な敷地を確保し、国際級ホテルを中心に総合娯楽センターを目指し、市内からも集
客を狙った形跡があったが、同じように、こちらは既にボーリング場や別棟の巨大なイベントホールは閉鎖されて、ガランとして空の駐
車場だけが荒地の中で人を待ちわびている感じであった。
私の部屋の窓からは、谷を隔てて果てしなく続く牧場に、羊の群れを追う牧童の様子が眺められたのだが、真下のホテル敷地の向
こうにある乗馬クラブは数頭の馬がのんびり尻尾で尻を叩いているだけで、客は見えなかった。
だがホテルそのものの施設や調度は立派で、ロビーには国際的な人々が行き交っていた。仲間の女性たちはエステやスパのサー
ビスを求めておおきな建物をくまなく歩いているらしかった。
食事にあまり興味を持てなかった私は、余暇を部屋からの遥かなる大地の眺めを楽しんで過したのだが、草もそこそこにしか生え
ていそうにない荒野、といった牧場の彼方から登る朝陽の圧巻の美しさを印象にしたためることができたのは幸いだった。
〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇
コンヤ
昼食をとったKIRAZLI BACHE メブラーナ博物館
コンヤ市内のバス停風景 ホテル リクソス
* 遥かなる大地・トルコ(11)
* 風次郎の『TOKYO JOYLIFE』へ
* 『風次郎の世界旅』トップページへ戻る