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市街地の北方、丘の斜面に当時の資産家グエル氏とガウディーにより分譲住宅地として計画設計された遺産である。
15ヘクタールの土地に、62の邸宅という企画であったのだそうだ。
ガウディーの発想は、独特の曲線を用いたデザインをふんだんに取り入れ、また無駄を出さないように資材を使うという
のだから、そのまま現代に持ち込めるものであったように思う。多様な、廃材をも含む生活資材を、云わばリサイクルす
るごとく採用して売り出したのだが、売れたのは結局ガウディーと発注者エウセヴィオ・グエル伯爵への2軒だった。時代
感覚が社会に通じなかったのであろう。全くお客がなかったということである。さぞ当人たちは嘆いたことだろう。
伯爵の死後、工事を中断し、市に公園として寄付され、今は世界遺産となった。
見晴らしの良い丘の上にバスが着き、坂を下りながら、曲線の道路を歩いて広場にある変わった形の(全て曲線)ベン
チに座ったり、おとぎの国の城のような記念館(ガウディーの住んだ家)を観て歩いた。
ベンチや建物の壁などに貼り付けられたカラフルなモザイクの図柄には、廃材から採取したガラスや陶器のカケラなど
も使われているということが、とても印象深かった。今こそこの手法を社会が取り入れるべきだと思う。
丘から見渡すバルセロナの街並みは、旧市街地の一角を除いて升目のように道路が整備され整っている。朝上ったモ
ンジュイックの丘の背景いっぱいに広がる地中海が澄んだ青さを清々しく見せ付けているようだった。
私たちは丘を降りて、下に待ったバスでオリンピックポートに近いレストラン「La Pegui」で昼食をとった。付近はオリン
ピック村に使われた建物群だとのことで、何となく懐かしい気持になった。
私ははなと2人でスパゲティーにビールをもらって、晴れた街中を歩いて空いた腹と、乾いたのどを潤しホッとした。
この町には若き14歳のピカソが絵画の素養を培った美術学校の名残、ピカソ美術館があったのだが、残念ながら今回
の旅では立ち寄ることが出来なかった。
ピカソの名を成した抽象画の多くがパリにある。しかし、私にとって彼の絵は、初期のものが解りやすく親しめる。バルセ
ロナには、幼年期とパリ初期、青の時代と呼ばれる素朴な描写の画が多く展示されていると聞き楽しみだったが、次の機
会に譲らねばならなかった。しかし、バレンシアからミハスを往復する路上から彼の生地マラガを眺めて過ごすことができ
て嬉しかった。
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食後は小休止のみで午後は海沿いに360キロの道をバレンシアに向かう。
バスの中で茨城から参加しているというYさんご夫妻と親しくなった。
ご主人は、無口で頻りに英語の本を読んでいるので、学者かと思っていたが、英語は長い間米国勤務が続いて、あちら物
に取り付かれてしまったとのこと。無口なのは、風邪気味で喉が痛いからと、言っていた。
旅は道連れ。この旅ではYさんと食事の席を共にすることが多かったので、結局後半は私も風邪のお供をすることになって、
帰る頃はお互いに、席ならぬ咳を譲り合ったりする始末になったのである。親しくなれたのは良かったのだが、風邪を引いた
のは辛かった。
長いバスの旅は高速道路をひたすら走るだけで、淡々としたものだった。
時々海が開けるものの、窓から射し込む午後の陽が眠気を誘い、途中タラゴーナを通過する頃、ローマ時代の港(バルセロ
ナやバレンシアよりも先に栄えた)だなーと、関心を持ったくらいで、うとうとして揺れていた。
頭がスッキリしたのはもうバレンシアの市内に入ってから、バスは高速道路を降り、川沿い堤防のようなところを走っていた。
道中果てしなく続く青空の下、さんさんと降りそそぐ地中海の陽光の中を走ってきたのである。到達したバレンシアの街も、ま
だ残る夕陽を浴びて輝いていた。トゥリア川の小高い堤防に敷かれた道路から、2、3の尖った屋根を含む少し沈んだ雰囲気
の旧市街のかたまりが見えた。
時計を見るともう19時である。
まだ春浅い時期なのに、ここでは暗くはなっていない。ヨーロッパの日暮れは遅いのだそうだ。
バスは堤防の上を走り続け、大きな橋を越えたところで下った。そのすぐ近くに、私たちの泊まる「ラス アルテル」があった。
夕食にはスペインの食としてあまりに名高いパエリアがでた。近くのアルブフェラ湖周辺が水田地帯で米が獲れるので、米を
使っての食はスペインではここが本場のようである。
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